奈良ブログ -2ページ目

自然の中で美の感覚は育てられる


先日、カメラマンの友人と話していてハッとしたことがあります。東京郊外に住む梅農園の主婦の絵の個展を拝見していた時に彼女が言った一言。「自然をたくさん見ている人は光のとらえ方が違う。きれいよね」

その一言は私にはストンと落ちて、あぁ、それかと思いました。最近奈良の人と話していて、美の感覚が素晴らしいとぼんやり思うことが多かったのですが、それが彼女の一言で確信に変わった気がします。

奈良では、玄関に飾る花や地元の祭の飾りなど生活の中にさりげない美がたくさんあります。それらについて、農家、サラリーマン、主婦など職を問わず、彼らがふと述べる感想が全体のバランスや色について、鋭い意見であることが多いのです。

私は奈良で育っている間、美は京都にあると思っていました。ましてや東京に出てからは、洗練されて華やかで美しい文化は都会にあり、田舎の奈良とは縁遠いのだと心のどこかで思っていたと思います。

でも最近、奈良の美しさにハッとすることが多いのです。雨の後で山々から立ち上る白い空気。触ると水がしたたり落ちそうな新緑、色鉛筆には絶対に存在しない淡い花の色、西から東まですべて見渡せる夕暮れ空、そういうものを何十年も見続けている方々が美に敏感なのは当然のことなのだと、友人の一言でやっと気づきました。

奈良では歌や書、絵、写真を趣味に持つ人がたくさんいます。奈良の暮らしは自然と切り離せませんから、そこに住む人々が名もない花、月、山、夕暮れの空に美しさを感じ、自分の手を動かしてそれを残すなんてなんと尊いことかと思います。洗練さや流行が必要とされる都会の美とは別の次元で、生活の中に美がある奈良の暮らしを私は素晴らしいと思います。


万葉集に歌われる花の種類は、
約百七十種あるのだそうです。
植物に関する歌は約二千首。
万葉花は美しさだけで愛されたのではなく
椿は呪的植物として、朝顔(ききょう)や容花(ひるがお)は
食用や薬用として
また中国から輸入した梅の実は薬に、
桜は農作業が始まる季節を告げる花として
人々の暮らしの中にあったのだということです。
(参考 万葉文化館 解説)

古都のお正月


奈良の人の多くは、正月にいくつもの寺社に初詣に行きます。特に複数の寺社にお参りする風習があるわけではありませんが、大晦日に出かけて除夜の鐘を撞き、そのまま初詣をすませることも多いですし、年が明けてから家族や親戚、友達と外出するたびに近くの寺社に「せっかくやからお参りしとこか」と詣でているうちに一つ二つ三つ・・・。寺社境内の空気は冷たくて清々しく、それをたくさん感じないと「正月がきた気がせぇへんなぁ」というのが毎年です。


橿原神宮や春日大社、東大寺、三輪の大神神社は有名ですが、それ以外でも年末になると地元紙の情報欄が各寺社の年末年始行事でいっぱい。お神酒ふるまい、写経、僧侶の法話など、それぞれに一年の無事を祈ります。縁起物も種類豊富です。お守り、破魔矢(はまや)、お札、絵馬、干支の飾り物。普段の生活で見慣れない赤や紫の色使いを見ていると、やはり縁起物、とつい欲しくなります。

私は子どもの頃「いつもと違う雰囲気でお出かけする」という雰囲気に単純にワクワクしているだけでしたが、そのワクワクが今、神教・仏教への興味につながっているのは確かです。奈良では信仰が生活文化の一つとなっているのだ、と改めて感じる古都のお正月です。

築地のセリ見学禁止で考えた奈良のこと

今日から来年1月17日まで、築地市場のマグロ競り見学が禁止になったと各種ニュースで伝えられています。競りの様子を写真に撮るためにフラッシュをたく、マグロを触る、なめる、通路をふさいで業務に支障をきたすなど、観光客のマナーの悪さが原因になったとのこと。

((c)oniiman 築地市場の朝、鮪の競り仲買から見た観光客。粋な築地の仲買人など。)

これは人ごとではないと思いました。

つい先日も、東大寺二月堂で行われるお水取りで観光客のカメラのフラッシュやかけ声が目立つという話を聞いたばかり。お水取りは懺悔のための大きな仏教行事です。それがこの10年ほどで急激に知名度が上がり、周りの盛り上がり方が異常になっているために、仏教行事としてはこのままでは存続も危ういのではないかと思う、というのがその時の話でした。

旅先で開放的な気分になるのは、気持ちとしてはよく分かります。地元にとっては当たり前のものでも、観光客から見ると情緒にあふれ、旅心が盛り上がることもよくあります。でも、その盛り上がった気持ちのために当たり前の地元文化が壊れてしまうのはとても怖い。

土地に合う観光ってそれぞれ違うと思います。観光立国(を目指している)日本は、その土地にとって当たり前で日常のものを観光資源として上手にアピールしなくちゃいけないのじゃないか、と私は思います。日常だからこそ壊してはいけないし、壊せないようにするためのルールも必要になってくる。それをふまえて、土地に合った観光のやり方ができると思います。

奈良は原始の自然や歴史、仏教と共存する町です。静かに長い時を感じるのに合った場所。ですから、奈良では、少人数でゆっくりと過ごすのが一番合った観光の仕方だと思います。

それには、本当ならばブータンの観光政策のように入県人数を規制し、一日数万円以上の前払いとガイド同行が必須というのが一番合っているというのが個人的な考えです。

この考えはいつか書こうと思っていたことですが、築地の観光客の姿をニュースで見て思わず書きました。荒っぽい気持ちのままで書いたので、またもう少し丁寧に書こうと思います。

古都の秋をより深く感じる「十五夜の宴」

奈良の神社の素晴らしいところは、“山一つがまるごと神社”という場所がたくさんあることです。昔の人は山や岩に美を感じ、さまざまなものを神に見立てて大事に信仰していました。その感覚は今でも奈良に根付いていて、人は原始の自然を敬い、昔の人たちの思いを守りながら暮らしています。仏教が伝わってずっと後からできたお寺でも、やはり山々の気配は切り離せません。

ですから、奈良の寺や神社にお参りされる時は、言ってみればネイティブ・アメリカンの聖地に行くような気持ちで向かわれるのがちょうど良いと個人的に思っています。

さて、そういった厳かな気持ちをより深く得られるイベント「十五夜の宴」が、11月15日に浄瑠璃寺(京都府木津川市加茂町)で行われます。
十五夜の宴フライヤー
十五夜の宴は、秋の夜を静かに感じ、縁を感じ、はるか昔と未来に思いを馳せられるイベント。奈良の「RAHOTSU」に集まる方々が主催し、毎年お寺などで音楽やお茶とともに月を楽しむ、秘祭の趣のあるイベントです。今年の会場、浄瑠璃寺は、清らかでけがれのないことを表す「浄瑠璃」に由来する寺。静寂の地です。

昔、人は現世の苦しみから逃れたいという切実な願いを持っていたのだと思います。死後に向かう西方浄土に対し、現世を救うのが東方浄土という考え方。浄瑠璃寺は、その考えが全体にめぐらされたお寺です。仏さまや塔、境内の中心に造られた池、まわりの山々が一体となって世界を作り出し、心が落ち着きます。

その浄瑠璃寺で開かれる十五夜の宴、今年はインド音楽とのコラボレーションです。彼の国の音楽は、仏教やお寺の知識がなくとも、昔の人々の願いを感じる手がかりになると思います。そして、阿弥陀さまと対面し、さまざまな思いをめぐらせば、より深く古都をお楽しみいただけると思います。

詳しくはご案内をご覧ください。


第六十回 正倉院展

第六十回正倉院展が今日で終わります。今年も大にぎわいのうちに終わりそうです。

正倉院展は、デザインやものづくりの仕事をしているは方は特に、一度ご覧になることをおすすめします。

古いのに素晴らしい、というのではなく、技術的にもデザインとしても素晴らしく美しい。流行にまったく左右されない普遍的な美が奈良にあるということがよく分かると思います。
正倉院展 新宿駅構内のポスター
最近は“正倉院展の見どころ”などがテレビや雑誌で数多く紹介されていますので、見たつもりになるかもしれません。でも、千年を超える時間は、実際に見ることで体験しなければ決して分かりません。

展示品の多くは、装飾品など、生活からは離れたものです。(宝物ですので当然ですが!)鳥の絵を彫り込んだ碁石や、細工をほどこした双六(すごろく)など「こんなものまで作っていたのか!」と毎年思いがけない発見があり、当時のものづくりの豊かさを感じます。思いがけないといえば、今年は写経のスタッフの休暇願の文書などもありました。労働の過酷さを訴えているものだそうで、急に奈良時代を身近に感じる展示品でした。

正倉院展の展示品は、毎年入れ替わります。毎年通ったとしても、一生のうちに宝物のすべてを見ることはできません。来年は来年の見どころ作品が展示されますので、どうぞお越しください。