ゼノブレイド フィオルン
オッサンからケモノまで個性的なパーティーメンバーのなかでも一番強い特徴を持つキャラクターであります。CMでもネタバレされてたからズバリと書きますが、途中で敵に改造されて機械の体にされてしまうという、仮面ライダーのような過酷な人生を歩んでいきます。けれどもよっぽど懐が深いのか単にアンポンタンなのか、そんな体になっても本人は常に健気で「生きているだけで十分」とか「シュルクといっしょに戦いたい」と、悲壮さを全く感じさせないキャラクターです。
フィオルンの明るく溌剌とした健気なキャラクターというのは物語のヒロインとして珍しいものではないけれど、彼女がゲーム中でどういう経緯をたどるかについては、ゼノブレイドがこういうゲームとして完成したということと深く結びついているように思う。ゼノブレイドがストーリー重視の路線でいくとしたら、フィオルンはそれこそ日野日出志のマンガ並みに悲惨な目にあって死んでいったかもしれない。どうでもいいですが、この喩えで日野日出志が適当か丸尾末広や山野一のほうが相応しいのか非常に悩んだ末に、一番メジャーっぽい日野日出志の名前を出しました。異論は認める。
けれども不思議と悲惨さを感じないのはキズナシステムがるからである。フィオルンもキズナの一員に組み込まれている以上、メンバーの一人として必ず最後まで生き残る筈だと思える。元の体に戻れる可能性も早いうちに示されるので、こちとら存分にフィオルンの装備を組み替えてロボット少女のコスプレを楽しむことができるのだ。ドラマを盛り上げるという点ではフィオルンはヒロインとして弱いのかもしれないが、ゲームとして遊ぶ上では彼女が明るく健気で(多分)死なないと思わせることはプレーヤーに安心感を与えている。
また、フィオルンはゲーム開始から割と早いうちにフェイドアウトして、中盤で変わり果てた姿で再登場する。この間がかなり空いていて、しかもその間には巨神脚で「ゼノブレイドおもしれー」となるので、プレーヤーはほど良くフィオルンのことは忘れている状態で再会する形になる。この間の長さがプレーヤーに与えるインパクトをもたらしており、ゼノブレイドのスケールの大きさはフィオルンの物語を効果的に見せるためにも必要なのだと思う。
今のRPGは何十時間とプレイするのが普通で、ゼノブレイドなんて簡単に100時間を超えるボリュームを持っている。良くゲームの演出を映画に例えて語られることが多いが、本当に物語を面白く見せたいのなら目標にするのは2時間で終わる映画ではなく、長いタームで見せるテレビの連続ドラマだと思う。映画の面白さを何十時間にもおよぶゲームに適用しようとするのは無理があるように思える。
フィオルンの明るく溌剌とした健気なキャラクターというのは物語のヒロインとして珍しいものではないけれど、彼女がゲーム中でどういう経緯をたどるかについては、ゼノブレイドがこういうゲームとして完成したということと深く結びついているように思う。ゼノブレイドがストーリー重視の路線でいくとしたら、フィオルンはそれこそ日野日出志のマンガ並みに悲惨な目にあって死んでいったかもしれない。どうでもいいですが、この喩えで日野日出志が適当か丸尾末広や山野一のほうが相応しいのか非常に悩んだ末に、一番メジャーっぽい日野日出志の名前を出しました。異論は認める。
けれども不思議と悲惨さを感じないのはキズナシステムがるからである。フィオルンもキズナの一員に組み込まれている以上、メンバーの一人として必ず最後まで生き残る筈だと思える。元の体に戻れる可能性も早いうちに示されるので、こちとら存分にフィオルンの装備を組み替えてロボット少女のコスプレを楽しむことができるのだ。ドラマを盛り上げるという点ではフィオルンはヒロインとして弱いのかもしれないが、ゲームとして遊ぶ上では彼女が明るく健気で(多分)死なないと思わせることはプレーヤーに安心感を与えている。
また、フィオルンはゲーム開始から割と早いうちにフェイドアウトして、中盤で変わり果てた姿で再登場する。この間がかなり空いていて、しかもその間には巨神脚で「ゼノブレイドおもしれー」となるので、プレーヤーはほど良くフィオルンのことは忘れている状態で再会する形になる。この間の長さがプレーヤーに与えるインパクトをもたらしており、ゼノブレイドのスケールの大きさはフィオルンの物語を効果的に見せるためにも必要なのだと思う。
今のRPGは何十時間とプレイするのが普通で、ゼノブレイドなんて簡単に100時間を超えるボリュームを持っている。良くゲームの演出を映画に例えて語られることが多いが、本当に物語を面白く見せたいのなら目標にするのは2時間で終わる映画ではなく、長いタームで見せるテレビの連続ドラマだと思う。映画の面白さを何十時間にもおよぶゲームに適用しようとするのは無理があるように思える。
ポケモン はじめてのポケモン
色々と話題は見聞きしつつも、ポケモンはやっぱり子供達のためのゲームだし、特に興味も無く時は過ぎていきました。そもそもゲームボーイ持ってなかったし。
そんなワタクシが初めてポケモンに触れたのは二十代も後半のころ。結婚した姉が里帰りした際に、甥っ子がポケモンを持っていたのがキッカケでした。当時甥はまだ小学校の低学年で、初代か金・銀か、そのあたりの頃のことです。
で、その甥っ子がポケモンをやっていたのですが、何か難しい所にブチ当たったのか、「オジさん代わって~」とゲームボーイを寄越して来たので何だろうと見てみると、ボールを投げている間、Aボタンを連打してくれと言ってきた。なるほど、Aボタンを連打するとポケモンが捕まりやすくなるのだなと合点し、その場は自分の命がけの連打のおかげで無事にポケモンをゲットできました。
そうして十数年後の現在、10歳と5歳の娘を持つ父親となったワタクシは、ポケモンホワイトを下の娘と遊んでいる時に、娘に良い格好をするべく必死にAボタン連打でポケモンをゲットしようとがんばっておりました。ら、
「お父さん、ポケモンはボタンを押さなくても捕まえられるよ」と保育園児から指摘されてしまった。
ナニ?オマエはAボタン連打の常識も知らんのか?所詮は5歳児、程度はサルと同じだわいと思ったものの一抹の不安もあって後でコッソリしらべてみると、ネットの至る所に「Aボタン連打で捕獲率が上がるのは割とデマ」とあるではないの。ガビーン。おのれ甥。よくも時空を超えて当時生まれてもいない娘に恥をかかされるガセを俺の体に仕込みやがったな。
しかし不思議なのはなぜ保育園児がAボタン連打はポケモンを捕まえやすくするための行為だと理解した上で、なおかつそれの効果がないという事実を知っていたかである。翌日、そのことを娘に聞いてみても質問自体が理解できなかったのか「ポケモンはボールを投げると捕まるんだよ」と全く要領を得ない答えしか返ってこず。
もしかして、かつてAボタン連打で親指を傷める園児が続出したせいで、一計を案じた保母さんが「ポケモンで指を傷めないようにAボタン連打は無駄ということを園児に刷り込んでおきましょう」という草の根運動でも推進しているのかねえ・・・
そんなワタクシが初めてポケモンに触れたのは二十代も後半のころ。結婚した姉が里帰りした際に、甥っ子がポケモンを持っていたのがキッカケでした。当時甥はまだ小学校の低学年で、初代か金・銀か、そのあたりの頃のことです。
で、その甥っ子がポケモンをやっていたのですが、何か難しい所にブチ当たったのか、「オジさん代わって~」とゲームボーイを寄越して来たので何だろうと見てみると、ボールを投げている間、Aボタンを連打してくれと言ってきた。なるほど、Aボタンを連打するとポケモンが捕まりやすくなるのだなと合点し、その場は自分の命がけの連打のおかげで無事にポケモンをゲットできました。
そうして十数年後の現在、10歳と5歳の娘を持つ父親となったワタクシは、ポケモンホワイトを下の娘と遊んでいる時に、娘に良い格好をするべく必死にAボタン連打でポケモンをゲットしようとがんばっておりました。ら、
「お父さん、ポケモンはボタンを押さなくても捕まえられるよ」と保育園児から指摘されてしまった。
ナニ?オマエはAボタン連打の常識も知らんのか?所詮は5歳児、程度はサルと同じだわいと思ったものの一抹の不安もあって後でコッソリしらべてみると、ネットの至る所に「Aボタン連打で捕獲率が上がるのは割とデマ」とあるではないの。ガビーン。おのれ甥。よくも時空を超えて当時生まれてもいない娘に恥をかかされるガセを俺の体に仕込みやがったな。
しかし不思議なのはなぜ保育園児がAボタン連打はポケモンを捕まえやすくするための行為だと理解した上で、なおかつそれの効果がないという事実を知っていたかである。翌日、そのことを娘に聞いてみても質問自体が理解できなかったのか「ポケモンはボールを投げると捕まるんだよ」と全く要領を得ない答えしか返ってこず。
もしかして、かつてAボタン連打で親指を傷める園児が続出したせいで、一計を案じた保母さんが「ポケモンで指を傷めないようにAボタン連打は無駄ということを園児に刷り込んでおきましょう」という草の根運動でも推進しているのかねえ・・・
七瀬ふたたび
「七瀬ふたたび」は「時をかける少女」と並んで映像化されることの多い筒井康隆の小説ですが、大林宣彦版がその後のフォーマットになった「時かけ」と比べて、「七瀬」のほうはコレといった代表作がない。それでも映像化が繰り返されているのは、これはもう一重に製作側の思い入れの強さゆえだと思う。
筒井康隆は高校生のころにかなり読んでいて、もちろん七瀬三部作も読んだのだけれど、「家族八景」→「七瀬ふたたび」→「エディプスの恋人」と続く七瀬シリーズは、「リング」三部作以上に各巻の作風が異なっている。その中で「七瀬ふたたび」だけが繰り返し映像化されている(「家族八景」は20年以上前に堀ちえみ主演で2時間ドラマ化された記憶アリ)のは、このシリーズで唯一、超能力者vs人間という分かりやすいフォーマットに則っているからだと思う。
一見テレビの連続ドラマ向きの「家族八景」は、三部作中最も筒井康隆らしい毒を持つ小説であり、この毒はさすがにテレビには乗せられないと思う。「エディプスの恋人」は(以下オチをバラします)近親相姦的なセックス描写と並行して宇宙の全ての存在を同時に見通す神の視線を描くなんて、そんなものが映像にできる人間がこの世にいるのだろうかと思う。まあ堤幸彦あたりがテキトーに作るなら話は別だが。「七瀬ふたたび」は他の2作品よりは確かに映像化しやすそうだが、それでもやっぱりハードルは高いように思う。
そもそもテレパスが主人公という点で映像化に向かない。この映画は人の心を読むシーンをどうビジュアル化するかが腕の見せ所だと思うが、心の声をゴチャゴチャした映像に見辛い文字を乗せて、観客に見せ辛くすることで表現している。この点は中川翔子が監督した前日譚のほうが、心の中をしっかりビジュアルにしようとしていて好感が持てた。また、超能力vs人間というジャンルで見ると「七瀬ふたたび」はやっぱり地味で、山田風太郎のような映像的な魅力に溢れる話ではない。この小説の魅力はカタルシスとは真逆にあるもので、製作者だってその魅力は理解している筈なのに、いざ映像化するとなると不要な超能力大爆発シーンを入れてしまう愚を犯している。
原作の悲観的な終わり方は「エディプスの恋人」があってこそ意味を持つものなので、おそらく賛否両論に別れそうなラスト(自分は否に一票)も映画として完結させるためにはしょうがないのかなあ、とは思う。けれども、主人公を含めて超能力者の子供の頃の話をスッパリと省いた中で、悪者だけが子供の頃のトラウマにスポットを当てられてるのは収まりが悪い。
芦名星はじめキャストはかなり原作に沿った感じ。佐藤江梨子の役は確か原作でもトレンチコートを着ていたような気がする。映画オリジナルの吉田栄作は一時期のものすごいアンチ旋風の中、よくぞここまで戻れたと思う。シワよりも眉毛の垂れ具合が加齢を感じさせますが。
なんだか煮え切らない駄文になってしまいましたが、面白い/つまらないという以前に七瀬シリーズに思い入れがあるならば、原作に近い形(オチは不問)で映像化しようとした気概を感じられただけで十分でありました。
こんな人にオススメ:この先20年くらい生きられればもう1回くらい映画化するでしょう、という気の長い原作ファンに。
筒井康隆は高校生のころにかなり読んでいて、もちろん七瀬三部作も読んだのだけれど、「家族八景」→「七瀬ふたたび」→「エディプスの恋人」と続く七瀬シリーズは、「リング」三部作以上に各巻の作風が異なっている。その中で「七瀬ふたたび」だけが繰り返し映像化されている(「家族八景」は20年以上前に堀ちえみ主演で2時間ドラマ化された記憶アリ)のは、このシリーズで唯一、超能力者vs人間という分かりやすいフォーマットに則っているからだと思う。
一見テレビの連続ドラマ向きの「家族八景」は、三部作中最も筒井康隆らしい毒を持つ小説であり、この毒はさすがにテレビには乗せられないと思う。「エディプスの恋人」は(以下オチをバラします)近親相姦的なセックス描写と並行して宇宙の全ての存在を同時に見通す神の視線を描くなんて、そんなものが映像にできる人間がこの世にいるのだろうかと思う。まあ堤幸彦あたりがテキトーに作るなら話は別だが。「七瀬ふたたび」は他の2作品よりは確かに映像化しやすそうだが、それでもやっぱりハードルは高いように思う。
そもそもテレパスが主人公という点で映像化に向かない。この映画は人の心を読むシーンをどうビジュアル化するかが腕の見せ所だと思うが、心の声をゴチャゴチャした映像に見辛い文字を乗せて、観客に見せ辛くすることで表現している。この点は中川翔子が監督した前日譚のほうが、心の中をしっかりビジュアルにしようとしていて好感が持てた。また、超能力vs人間というジャンルで見ると「七瀬ふたたび」はやっぱり地味で、山田風太郎のような映像的な魅力に溢れる話ではない。この小説の魅力はカタルシスとは真逆にあるもので、製作者だってその魅力は理解している筈なのに、いざ映像化するとなると不要な超能力大爆発シーンを入れてしまう愚を犯している。
原作の悲観的な終わり方は「エディプスの恋人」があってこそ意味を持つものなので、おそらく賛否両論に別れそうなラスト(自分は否に一票)も映画として完結させるためにはしょうがないのかなあ、とは思う。けれども、主人公を含めて超能力者の子供の頃の話をスッパリと省いた中で、悪者だけが子供の頃のトラウマにスポットを当てられてるのは収まりが悪い。
芦名星はじめキャストはかなり原作に沿った感じ。佐藤江梨子の役は確か原作でもトレンチコートを着ていたような気がする。映画オリジナルの吉田栄作は一時期のものすごいアンチ旋風の中、よくぞここまで戻れたと思う。シワよりも眉毛の垂れ具合が加齢を感じさせますが。
なんだか煮え切らない駄文になってしまいましたが、面白い/つまらないという以前に七瀬シリーズに思い入れがあるならば、原作に近い形(オチは不問)で映像化しようとした気概を感じられただけで十分でありました。
こんな人にオススメ:この先20年くらい生きられればもう1回くらい映画化するでしょう、という気の長い原作ファンに。
ポケモン 昔の印象は
ゼノブレイドのストーリーがエンディングに到達したので、あとは気になるクエストを回収しながら遊んでいれば「ラストストーリー」まで保つだろう。ということでポケモンの話なぞ。
ポケモンというゲームの存在を初めて知ったのは、ポケモン赤・緑が発売された当時にWired(ワイヤード)という雑誌で記事を読んだのがキッカケでした。今は亡きこのWiredという雑誌、まだAppleに復帰する前のスティーブ・ジョブズや携帯に進出する前の孫正義のロング・インタビューを掲載したりとなかなか着眼点の鋭い雑誌だったのだが、その中でまだ子供達の間だけでしか知られていなかったポケモンが紹介されていた。
その記事は、もとは当時社会的なブームだったたまごっちの人気について子供達にインタビューをしたのだが、その場にいた子供達は誰もたまごっちを持っておらず、代わりに全員がポケモンのささったゲームボーイを持っていて記者が興味を持ったということで、今ではあまり表舞台に顔を出さないゲームフリーク社長の田尻智氏がインタビューに答えていた(と思う。別の人だったかも)
インタビューの内容で今でも覚えているのは、ポケモンを作るのに6年もかかってしまったが、システム自体はすんなり出来上がったものの、肝心のポケモンをどういうデザインにすれば子供達が欲しがるか、交換したくなるか、ということをずっと悩み続けていたという内容だった。その結果が当時の子供達に口コミで広がったのだから、作る方も大したものだが、6年も待った上にしっかり当てた任天堂の粘り腰も大したもんである。ついでに当時死に体だったゲームボーイも息を吹き返し、今のDSやPSPにつらなる携帯ゲームの商売を根付かせた。ポケモンのインパクトはその後のゲームの遊び方を全く変えてしまったのである。
そうやってポケモンについて気にしてみると、当時のネットの主流だったパソコン通信にて「ポケモン青のプレゼントのためにコロコロコミックを大人買い」(←ポケモン青は当初はコロコロのプレゼントで、応募券のためにコロコロを何冊も買う輩がいた)とか、ミュウのプレゼントに数万人が応募した(当選はその中の20人だったような)とかのトピックが上がっていて、ポケモンって社会的なインパクトがいちいち大きいゲームやなあ、という印象を持った。その後も「アニメのポケモンを見ていた子供達がピカチュウの電撃でバタバタ倒れる」だの、「ポケモンの特別なアイテムが配布されるゲームイベントで始発に乗って行列するも人数が多過ぎて全員に行き渡らず子供達が阿鼻叫喚」だのと、ポケモンがらみの現象がいちいち社会的なリミットを超えていて、ポケモンをやったことがない当時の自分は「ポケモンって人騒がせなゲームだよなあ」と思っていたのでありました。
ポケモンというゲームの存在を初めて知ったのは、ポケモン赤・緑が発売された当時にWired(ワイヤード)という雑誌で記事を読んだのがキッカケでした。今は亡きこのWiredという雑誌、まだAppleに復帰する前のスティーブ・ジョブズや携帯に進出する前の孫正義のロング・インタビューを掲載したりとなかなか着眼点の鋭い雑誌だったのだが、その中でまだ子供達の間だけでしか知られていなかったポケモンが紹介されていた。
その記事は、もとは当時社会的なブームだったたまごっちの人気について子供達にインタビューをしたのだが、その場にいた子供達は誰もたまごっちを持っておらず、代わりに全員がポケモンのささったゲームボーイを持っていて記者が興味を持ったということで、今ではあまり表舞台に顔を出さないゲームフリーク社長の田尻智氏がインタビューに答えていた(と思う。別の人だったかも)
インタビューの内容で今でも覚えているのは、ポケモンを作るのに6年もかかってしまったが、システム自体はすんなり出来上がったものの、肝心のポケモンをどういうデザインにすれば子供達が欲しがるか、交換したくなるか、ということをずっと悩み続けていたという内容だった。その結果が当時の子供達に口コミで広がったのだから、作る方も大したものだが、6年も待った上にしっかり当てた任天堂の粘り腰も大したもんである。ついでに当時死に体だったゲームボーイも息を吹き返し、今のDSやPSPにつらなる携帯ゲームの商売を根付かせた。ポケモンのインパクトはその後のゲームの遊び方を全く変えてしまったのである。
そうやってポケモンについて気にしてみると、当時のネットの主流だったパソコン通信にて「ポケモン青のプレゼントのためにコロコロコミックを大人買い」(←ポケモン青は当初はコロコロのプレゼントで、応募券のためにコロコロを何冊も買う輩がいた)とか、ミュウのプレゼントに数万人が応募した(当選はその中の20人だったような)とかのトピックが上がっていて、ポケモンって社会的なインパクトがいちいち大きいゲームやなあ、という印象を持った。その後も「アニメのポケモンを見ていた子供達がピカチュウの電撃でバタバタ倒れる」だの、「ポケモンの特別なアイテムが配布されるゲームイベントで始発に乗って行列するも人数が多過ぎて全員に行き渡らず子供達が阿鼻叫喚」だのと、ポケモンがらみの現象がいちいち社会的なリミットを超えていて、ポケモンをやったことがない当時の自分は「ポケモンって人騒がせなゲームだよなあ」と思っていたのでありました。
今年の栗はどんな栗?
いやもう最悪でした。渋皮煮を作るようになって3年、年々栗の質が落ちているように思う。去年は冷夏で今年は猛暑の影響があったのかもしれないし、もしかして景気が悪くなって質の良い栗の需要が落ちているのかもしれない。
9月の半ばに今年初めて買った栗が、これがもしかして去年から冷凍した栗じゃねえかというくらい古い感じのもので、栗の筋が渋皮に貼り付いて茹でれど扱けど取れやしない。別の時には傷んだ栗を撥ねていたら半分くらい減ってしまったとか、そんなのばかりだった。
京都で小用(←学園祭ポケモンゲット)を済ませた後、近くの店で丹波栗を購入したのだが、そのときの売り子のおばさんの言葉が、「栗は外身じゃ善し悪しが分からなくて、実際に剥いてみるまで分からないんですよお。同じ畑のものでも採れた時期で味が変わったりすることもありまして」などと説明していたのだが、なんとなくその台詞が「フォレスト・ガンプ」にあった「人生はキャンディ・ボックスだ。開けてみるまで分からない」の台詞を思い出させるも、これはきっと目の前の売り物の栗が下物であることを誤摩化しているに違いない、さすが京都、一見には上辺だけのトークをかましてくれるよと思ったら、睨んだ通りの駄栗だった。
そんな感じでブーブー文句たれながらも9月半ばから毎週栗を煮続けて、都合10キロくらいの渋皮煮を作ったのだけれど、どうも栗の粒を生かした菓子を作る気になれず、ペーストにしてクリームに混ぜる作戦に出るの巻。
という訳で、秋の夜長に栗のクリームパイなどを作ってみる。今年は栗に対する愛情が湧かないので、説明がぞんざいなのはご容赦。
材料は、冷凍パイシート2枚にカスタードクリームを2セット、生クリーム1パック、板ゼラチン3枚、バナナ5本程度と栗の渋皮煮を10~15個、それと渋皮煮のシロップです。

パイを焼いて冷ましてジャム塗ってバナナを乗せる

栗を砕いてシロップとミキサーにかけて、十分立ての生クリームと混ぜて、カスタードと混ぜて、氷水に浸してレンジでチンして溶かしたゼラチンを混ぜて、そいつをパイに流し込む

ぞんざいに作った割には、バナナの鼻に抜ける風味と栗のまったりした味わいがマッチして、子供達にも妙に好評でした。プロは生クリームの脂肪分だけでクリームを立てることが出来るワザを持っているようですが、シロートは素直にゼラチンを使った方が確実です。一度ゼラチンを使わずに作ったところ、クリームがドロドロと流れてヒドい出来になってしまいました。
9月の半ばに今年初めて買った栗が、これがもしかして去年から冷凍した栗じゃねえかというくらい古い感じのもので、栗の筋が渋皮に貼り付いて茹でれど扱けど取れやしない。別の時には傷んだ栗を撥ねていたら半分くらい減ってしまったとか、そんなのばかりだった。
京都で小用(←学園祭ポケモンゲット)を済ませた後、近くの店で丹波栗を購入したのだが、そのときの売り子のおばさんの言葉が、「栗は外身じゃ善し悪しが分からなくて、実際に剥いてみるまで分からないんですよお。同じ畑のものでも採れた時期で味が変わったりすることもありまして」などと説明していたのだが、なんとなくその台詞が「フォレスト・ガンプ」にあった「人生はキャンディ・ボックスだ。開けてみるまで分からない」の台詞を思い出させるも、これはきっと目の前の売り物の栗が下物であることを誤摩化しているに違いない、さすが京都、一見には上辺だけのトークをかましてくれるよと思ったら、睨んだ通りの駄栗だった。
そんな感じでブーブー文句たれながらも9月半ばから毎週栗を煮続けて、都合10キロくらいの渋皮煮を作ったのだけれど、どうも栗の粒を生かした菓子を作る気になれず、ペーストにしてクリームに混ぜる作戦に出るの巻。
という訳で、秋の夜長に栗のクリームパイなどを作ってみる。今年は栗に対する愛情が湧かないので、説明がぞんざいなのはご容赦。
材料は、冷凍パイシート2枚にカスタードクリームを2セット、生クリーム1パック、板ゼラチン3枚、バナナ5本程度と栗の渋皮煮を10~15個、それと渋皮煮のシロップです。

パイを焼いて冷ましてジャム塗ってバナナを乗せる

栗を砕いてシロップとミキサーにかけて、十分立ての生クリームと混ぜて、カスタードと混ぜて、氷水に浸してレンジでチンして溶かしたゼラチンを混ぜて、そいつをパイに流し込む

ぞんざいに作った割には、バナナの鼻に抜ける風味と栗のまったりした味わいがマッチして、子供達にも妙に好評でした。プロは生クリームの脂肪分だけでクリームを立てることが出来るワザを持っているようですが、シロートは素直にゼラチンを使った方が確実です。一度ゼラチンを使わずに作ったところ、クリームがドロドロと流れてヒドい出来になってしまいました。