今日も定時ダッシュ -91ページ目

REDLINE

 イっちゃったマッハGo!Go!Go!というか、ありうべきキャノンボールというのか、とにもかくにも感想としては「こういうのが観たかった!」に尽きる。ああ、もう楽し過ぎ。冒頭のハートビートサウンドと共に疾走するレースシーンからアドレナリンが噴出しまくり、そのままの勢いで最後まで突っ走る。もうホントにそれだけの映画なのだけれど、下手な小理屈をこねまわして興ざめする映画の多い昨今、「REDLINE」は何と輝いていることか。

 映画の構成も、レッドライン予選→出場するレーサーを紹介→レッドラインレースと非常に簡単。この映画がキャノンボールであると言ったのは、お馴染みのスターを出すかわりに選手紹介でキッチリとキャラを立てているからで、その時の伏線もすべてレースシーンで回収するという小憎らしい展開をしている。ちなみにワタクシはボイン姉妹と日野日出志がデザインした巨神兵みたいな奴がオススメ。そしてレースが終わると映画も終わるというエンドも清々しい。

 自分は「トイ・ストーリー3」の感想で「話は面白いけど絵がツマラン」という感想を書いたのだが、「REDLINE」を観てやっぱり自分は正しかったという思いを強くする。CG映画が、オブジェクトの配置だのナチュラルな光源だのとやっている間に、手書きアニメは何という自由さで身体性を飛び越えているのだろう。話の出来に感動させるより、これまで観た事の無いビジュアルに魅入らせるほうがアニメ映画として尊いと思うのだけれどもなあ・・・マジで。

 映画が終わって、観客のカップルの女のほうが男に「(この映画)面白かった?アタシ全然わからなかった」と話していた。REDLINEの何が難しいのだ?というツッコミはさておき、彼女が言うところの「映画が分からない=つまらない」という図式は必ずしも正しい訳じゃない。話がサッパリ分からなくても面白いと感じられるのが映画であり、この映画のビジュアルはそれだけの力があるのになあ、と残念に思う。確かに意識して映像を観るよりも何となく耳に入って来る言葉のほうが理解しやすいけれど、それは映画を観るとは言わないよなあ。しかもここまでストーリーはどうでもいいモノを観ておいてストーリーが分からないことが何のマイナスなのかと思うのだけれど。

こんな人にオススメ:ストーリー至上主義ならばハリウッドのCG映画観た方が良いかと。

HUBBLE 3D -ハッブル宇宙望遠鏡-

 3DならiMaxが一番良いと思っているワタクシですが、自分の想定している劇場は名古屋の109シネマズのiMaxで、ここは確かにスクリーンはデカイのだけれどiMax専用に作られた劇場ではないため、iMaxの本領である7階建てのビルに相当するスクリーンのド迫力が云々という、さすがにそこまでは大きくない。自分がiMaxが一番と感じているのは、映像の迫力よりも目の疲れにくさのほうが強い。

 ということで、真のiMaxを体感しようと、今年で閉館予定の大阪のサントリーミュージアムに出かけて参りました。実際にここのスクリーンが何メートルあるか分かりませんが、確かにものすごく縦に長いスクリーンがドカーンとそびえ立つ姿は非常にド迫力で、映し出される映像もわざわざ来て良かったと思える素晴らしいものだった。

 映画の冒頭でハッブル望遠鏡を設置した際の映像が美し過ぎる。中央に望遠鏡が浮かび、画面下には徐々に離れて行くスペースシャトル、左には雄大な弧を描く青い地球、そして右側は他の人工衛星が光りながら画面奥に流れて行くという姿に思わず手を合わせて拝んでしまった。

 この映像で驚いたのは、星は驚くべき程に豊かな色彩に溢れていることで、子供の頃に好んで星の絵はがきを集めていたのだが、それらの記憶にある馬頭星雲やバラ星雲などはもっと色彩が単調で、赤い光をバックに馬の頭の形をした影が映っているという感じだったように思う。それだって魅せられるだけの美しさは十分にあったのだが、ハッブル望遠鏡によって、光の中に幾色もの光が、影の中にも無数の陰影が彩られていることを知った。iMax3Dの映像はそれらをとてもリアルに伝えており、もやがかった様なガスを抜け、星々が溢れる銀河を潜り、どこまでも広がる宇宙の姿を映していた。

こんな人にオススメ:10月いっぱいまでの上映なので、見られる人は今生の思い出に是非。

ゼノブレイド キズナトーク

 キズナトークとは、ゼノブレイドの世界の随所にあるポイントで、パーティーメンバーのうちの特定の二人が特別な会話を行うイベントです。キズナと付いているのは、その特定の二人の間に一定のキズナが結ばれているのが前提だからで、途中で分岐する会話の正しい方を選択すると、さらにたくさんのキズナポイントが貯まる仕組みになっています。

 しかしこの説明は、自分で書いといてナンですが明らかに異議ありで、キズナトークは特定の二人が更にキズナを高めるためのイベントではない。それはもうあからさまで、もしそうだったらなーんであんなにキズナ値がマックスじゃないと起こらないキズナトークばっかりなんだよ!もっと低い者同士でイベント起こせよ!と不満に思うところだが、実際はそうでもない。

 キズナトークは、バトルしたりプレゼントしたり、せっせと高めたお気に入りの二人がキャッキャと戯れる様を眺めてウットリする、プレーヤーに対するご褒美なのだ。間違った選択肢を選んでしまった時のガッカリ感は、ゲームのパラメータが減るからではなく、せっかく熱いキズナで結ばれた二人なのに、心を通じ合わせられなくてゴメンナサイという、なんかそんな感じがする。

 ゼノブレイドはバトルが終わるとメンバー同士がやたらと色々と話すゲームで、キャラクターの全ての組み合わせにそれぞれの会話を盛り込んでいて結構楽しい。キズナトークは基本的にこれの延長なので、キズナ値の低い(=あまり戦闘に参加させていない)メンバーのキズナトークが見られなくてもそれほど惜しい感じがしない。

 そしてキズナトークに関して自分が見落としていた事実。特定の二人のキズナ値が条件をクリアしていても、その二人を戦闘メンバーに入れていないとイベントは発生しません!!自分はこの事実につい最近気付いたのだけれど,,みなさんはご存知でしたでしょうか?

ゼノブレイド メリア

 ゼノブレイドに登場するパーティーキャラのうちメリアは特殊な立場で、他のメンバーがシュルクの物語をサポートする役割を持っているのに比べ、彼女だけはゼノブレイドの世界の根幹に関わっている。これは言い方を変えればメリアがゼノブレイドの主役であってもおかしくないだけの物語を持っているという事だ。

 有翼の種族、ハイエンターの王家の姫であるが、彼女自身はホムス(人間)との混血である事。彼女が立太子の儀式を迎えると同時に世界は破滅に向けて流れだし、それを阻止すべく旅立つ少女。そして旅の果てに知らされる、ハイエンターの呪われた血・・・などなど、この手のファンタジーにおける王道がこれでもかと仕込まれている。

 なのに(個人的には)メリアの存在感が妙に薄い。それは何故かと言いますと、ゲームの下手なオッサンにはメリアはとても扱いにくいからであります。

 彼女はパーティーメンバー中でただ一人の魔法(エーテル)を使った攻撃を行い、敵に与えるダメージはメンバー中で随一を誇ります。カルナ同様基本的には敵から離れて攻撃するタイプなのだけれど、調子に載って魔法を打ち込んでいるとラインやダンバンさんよりダメージを与えてしまい、今度はモンスターから一気に狙われることになります。メリアは攻撃力に反して防御や体力は低いので、そうなってしまうと後は屈強な男共を尻目に攻撃を一身に浴びて、サッサと戦闘不能になってしまう。メリアを使う上で肝要なのはヘイトリングを付けないようにモンスターに対してほどほどの攻撃を心がけることで、これが自分にはなかなか難しい。AIもそこまで賢くないので、AIに任せると真っ先にモンスターに突進して勝手にやられている。彼女には何よりもヘイト低下のジェムがお似合いである。

 彼女が随一の戦闘能力を誇る理由は魔法使いというだけでなく、彼女だけが一人だけで敵を強制転倒させるスキル(スピアブレイク→スターライトニーのコンボ)を持っている。転倒させるためには敵の近くに寄らねばならず、これまた死亡フラグと隣り合わせの技なのだけれど、様々なモンスターが転倒する様を見るだけでも楽しい。特に機神界のモンスターは多関節タイプの奴が多く、特にオススメです。

乱交団地妻 スワップ同好会

 観たい映画がないのでポルノでも・・・って、言い訳にもなりゃしませんのでございますが(汗)、行き場を無くしたオヤジ達がどんよりとまどろむ映画館の空間が同じオッサンの一員として最近は妙に心地よかったりする。ポルノ映画館は映画館がかつて不良の溜まり場と呼ばれていた胡乱な雰囲気を今に残す、自分にとっては希少な場所なので、ポルノ映画の将来の見通しも暗い中、何とか少しでも長く存続してほしいと願っている。そうはいってもほとんど足を運ぶこともないのですが。

 自分がポルノ映画に期待しているのは、映画の面白さではなくエロ目的でもなく、何となくダウナー系のドンヨリした気分に浸る事であります。新旧織り交ぜた3本立て興行を半ば眠りながら付き合っていると、終わった頃には日が暮れていたりして「あ~オレ何やってんだろー」と自分のダメ人間ぶりに苦笑しつつ「明日からまた仕事すっかー」などと思いながら家に帰るという、なんとなく日々のストレスを煮込んで茹でこぼすような、そんなオッサン的な感覚がある。

 実際に映画自体に興味があった「百恵のお尻」や蒼井そらは感想を書いたのだけれど、「乱交団地妻」は映画が目当てでなくドンヨリしたかったのに、珍しく映画に釘付けになってしまった。この衝撃をどこから説明したものか。

 監督は浜野佐知という女流監督で、撮ったポルノ映画は300本を超えるらしい。この人の映画は何本か観たのだけれど、どれも女性側からの自発的な性欲を肯定的に描くもので、このウーマン・リブの監督が映画に込めた主張は、昼間っからポルノを観に来るような旧弊な価値観を持つオッサンにとっては冷や水を浴びせるようなものである。浜野佐知の持つ毒というのは、「男はオイ、女はハイ」だと疑いもせずに生きてきたオヤジ共に、その考えがいかに女から嘲笑われているかを、オヤジの最後の避難所ともいえるポルノ映画で叩き付けている所にある。

 けれども監督の主張はそれとして、浜野監督は商業映画として観客が観たいものをキッチリ見せるプロ意識も併せ持っている。要は他の男の監督よりも遥かにエロい濡れ場を撮るのだ。実際、ポルノとは名ばかりで昆虫の交尾のような濡れない濡れ場を平気で垂れ流す映画も多い中、浜野映画は女体を奇麗に(かつイヤラシく)映している。この人が濡れ場のイヤラシさに自覚的である事は、人間の内面を撮りたいと言ってポルノを否定する男の監督達を「バカじゃねーの」とバッサリ切り捨てていたりすることでも分かる。

 ここでポルノ未経験の方のために慌てて付け加えるのですが、過激さから言えば所詮はポルノはエロDVDには適わない。けれども、過激=イヤラシイと単純に計れない所にポルノが存在できる余地もあると思う。ここらへんのニュアンスもやっぱりオッサンの娯楽に相応しい感じがする。閑話休題。

 この映画に感心したのは、ダンナだけでは満足できない妻たちが、紆余曲折(←このあたりにスワップが入る)を経て満足することで夫も満足、夫婦円満という、いかにもポルノ的な展開そのものだった。他愛もないといえばそれまでだが、自分がポルノ映画に期待しているのは要するにこういう緩いファンタジーなのだと分かった。ただ、浜野映画にしては男にも救いの手をさしのべるラストは非常に珍しいように思う。妻同士が互いの苦労を語り合うくだりで、「奥さんも大変ねえ・・・、ねえ、一度ウチの亭主で試してみない?」とアッケラカンと言い放つ様子が、浜野佐知は男を叩き潰すリブの闘志なのではなく、母系社会的な女の連帯感が今の社会には必要と考えているように思える。

 このタイトルは映画封切り時のものであり、今回は「マンションの人妻 スワップで萌えて」というタイトルで公開された。そもそも団地妻なんて、いくらオッサンとはいえ今さらそんな単語に興奮する奴がいるのか?と不思議に思うのでタイトルがマンションに変わるのも当然だとは思う。しかしこの映画が昭和40年代に作られたのなら分かるが、実際は2006年に作られた所に問題がある。ポルノ映画のタイトルなんて総じてトンチンカンなもので、「尼寺の後家さん、わななく太股」みたいな、こちとら観客としては半笑いせずにはいられないセンスのものばかりなのだが、「乱交団地妻」には団地妻でなければならない必然性が映画の中に込められている。

 映画に登場する3組の夫婦のうち金魚を飼っているお宅があるのだが、この金魚が結構大振りな上に小さな金魚鉢に2匹も入れられていて、これがまた息が詰まりそうな程に狭苦しい。二匹がぶつかり合うように泳ぐ様を見ると金魚が可哀想すぎてそっちばかり気になってしまった。しかし二人の妻がテーブルで会話する真ん中にわざわざ金魚鉢を置いたりして、これが監督の演出によるものであるのは明らかである。二匹のぶつかりあう金魚は狭い家の中で不満を抱える夫婦の様子の比喩であり、だからこそこの映画の舞台がマンションではなく、狭いスペースに家族を無理矢理押し込めるイメージのある団地なのだ。

 最後に、浜野佐知は的場ちせという名義で監督をすることもあるようで、今回色々とネットで調べてみたものの誰も指摘していないようなのだが、的場ちせといえば癒し系ホンワカマンガ「Papa told me」のヒロインである大人びた小学生の女の子から拝借したものでしょう。なにゆえドンヨリしたオヤジ相手のポルノ映画の女流監督が、OLが読んでホンワカするマンガの小学生ヒロインを名乗るのか、不思議で不思議でしょうがない。わざわざ名乗る以上、浜野監督にはあのマンガの世界に自分が関わりたいと思う必然性があると思う。しかし気が乗らない妻を一方的に抱いた夫が血祭りにあげられる浜野映画と、森茉莉の小説の現代版みたいな父と娘の閉鎖的な空間をホンワカと描く「Papa told me」とは一向につながらない。そして何よりも、これほどの謎を皆がスルーしているのが一番不思議だったりする。

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