noteにて、「経済学・経済論」執筆中!
また、「望月夜の経済学・経済論 第一巻」、「望月夜の経済学・経済論 第二巻」も発売中!
その他、
「貨幣論まとめ」
「不況論まとめ」
「財政論まとめ」
などなど……
――――――――――――――――――――
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表題についての議論を、以前ツイッター上で行った。
そのやり取りはtogetterの方でまとめてある。
しかし、いつものことながら長々しい議論となっているので、主張の要点を掻い摘んでまとめておきたい。
近年蔓延する「人手不足論」を受けて、経済学者の一部からは
「人手不足解消のためには、労働市場の流動性を高めて社内失業者の離職を促すべし」
という聞き飽きた処方箋が喧伝されるようになっている。
しかしながら、そのような政策は人的資本蓄積の阻害を通じて、人手不足"感"を一層強める方向に働くだろう。
囚人のジレンマじみた話で、各企業が「簡単に首を切ってより良い人材を探そう(自前で人材育成をするのではなく、『使える人材』を外部から調達しよう=人材育成をアウトソーシングしよう)」という方針を取ると、経済全体で人的資本蓄積が停滞し、労働生産性が低下して、経営は一層苦しくなるのである。
これは経営者が無能だから発生するわけではなく、むしろ経営者の(各企業、各場面での)合理的判断によって、全体的に状況が悪化するというところが問題なわけだ。この意味では、合成の誤謬に近い構造がある。
少し話が逸れるが、この話は人的資本・人材に限らず、イノベーション一般にも通ずる話である。
「真説・企業論」を読む⑥――金融化→短期主義化によるイノベーション阻害で論じたところだが、”有望そうなベンチャー”を次々にM&Aしていく方針は、短期的には収益をあげられるが、長期的には自前での開発能力を棄損することになる。まして、「他の企業から技術を調達してくれば良い」と考える企業が多数派になれば、一体どの企業が自前で技術投資をするというのか? 少なくとも、全体での技術投資が低迷し、イノベーションが停滞するのは目に見えている。
「『使える人材』を外部から調達しよう」という考えと、「『儲かる技術』をM&Aで調達しよう」という考えは、同種の失敗が約束されているわけだ。
こうした議論に、「以前から、高位の人材に関しては引き抜きが積極的に行われている」という反論が加えられたのだが、問題となっているには高位の人材ではなく、中低位の人材であり、議論対象が根本的にずれている。
人材流動性の高まりは、(既に論じたメカニズムを通じて)中低位の人材を育成するインセンティブを(相対的に)引き下げる。これが問題なのであり、高位人材の引き抜きが既に行われていることは、こうした中低位の人材の育成のインセンティブの問題とはあまり関係がない。
次に、人材流動性の低さから、労働者に要求される教育レベルが上昇し、教育コストを何らかの形で(労働者自身の支出にせよ、関連業界の出資にせよ、政府負担にせよ)負わなければならなくなっているという”問題”が指摘された。(本来は「企業内教育」で済ませるべきだ、という趣旨)
ただし、これが”問題”となるには、当該教育投資が非効率であり、全体の生産性を引き上げないという前提が必要になる。
ところが、「高等教育の経済効果」などの各種研究を見るに、外的教育機関の効果は概ねポジティブなものとされている。
なぜ外的機関にプラスの効果が期待できるのかというメカニズムについては追加の検討が必要とは思うが、例えば
・スケールメリット(ある程度共通する能力の育成に関しては、一定程度集約して行う方が効率的)
・情報面の効率性(学生側は、企業等の求める技能についてより優れた情報を得られる。企業側も、学生の状況や、学生指導ノウハウが蓄積しやすい)
などが考えられるだろう。
他に、高い人材流動性による適性アンマッチの解消こそが望ましいという反論もなされた。
適性マッチングについては二つの論点がある。
第一に、適性を元に雇用流動化を正当化するロジックは、教育や環境整備による適応改善の効果が極めて弱いという前提に基づいている。しかしこうした前提は、部署やスタッフの変更、作業環境の改善などを通じて、(業種変更なく)生産性が変化・好転するといった実際の適応改善を無視した議論になっている。
第二に、それでも尚、適応改善がシビアな適性アンマッチが発生し得る場合は、(高校、大学などの)ジェネラルな教育機関への情報提供や、良質なインターンの整備などにきちんとコストを投じることの方が、スポイルされる人材の発生を防ぐ上でも有用となるということだ。「適性アンマッチを弾く"だけ"なら、情報伝達コストを負わずとも雇用流動化を進めれば良いだけでは」という反論もあり得るが、雇用流動化のような(全体レベルでの)人的資本投資インセンティブの低下(スポイルされる人材の増加)をもたらさないという点で、適性マッチングのためのコストが投じられる方がより望ましいと言える。
また、雇用流動性の向上は、転職先確保の容易さから、労働者の交渉力を引き上げるのでは、という反論もあった。
しかし、歴史的経緯やその分析は、全く逆のことを示唆している。
詳しいところは、「わが国の最低賃金制度についての一考察」や、「「経済学的発想」と「反経済学的発想」という枠組みがもたらすもの」のバーゲニングポジションに関する部分をお読みいただきたい。
端的に説明すれば、資本家と労働者の間には、初期保有資本(初期保有資産)に大きな格差があり、交渉上の地歩に少なからぬ差が発生するため、プレーンな条件での交渉では、労働者は極限まで妥協を強いられることになる。
その結果として、産業革命以降の資本の集中の中で、労働者保護が不十分だった時代には、労働者の厚生は著しく悪化することになった。
解雇規制を含む各種労働者保護制度は、そうした”反省”をもとに作られたものだ。
この構図は、産業革命から長い期間が経ち、産業構造の転換が進んでいる現代でも変わりがないのだろうか?
確かに知識産業の成長に従い、個人での高い交渉力を持つ労働者も”一部では”生まれたかもしれない。
しかし、グーグル等を見れば明らかなことだと思うが、情報産業はむしろ高度な資本集約性、及び寡占化・独占化圧力を持っており、労働者のバーゲニングポジション(交渉上の地歩)はむしろ低下している。
また、情報産業の成長はオフショアリングの技術的容易化も伴っており、これも労働者の地位を低下させるものであろう。
というわけで、労働者保護の必要性は、むしろ高まっていると見ることが出来る。こうした環境での人材流動性向上は、少なくとも労働者の厚生にはマイナスに働く可能性が高いと言えるだろう。
(余談だが、バーゲニングポジションの差は、労使間に限った話ではなく、例えば大企業と中小企業の間といった、企業間にも発生する。最低賃金引き上げなどによる利潤圧縮も、バーゲニングポジションの差を通じて、ただでさえ利潤に乏しい中小企業に”押し付け”られるという構図があり、企業間のバーゲニングポジションの差も考慮した政策が求められると言えよう。)
最後に、雇用流動性が高い方が、不況による大量失業などを介して、資源(人的資源)の再配分が起きやすくなり、成長促進的ではないかという指摘があった。
これはまさしく、『齊藤誠「不況を放置した方が長期生産は高まる」について+追補』で問題にしたところである。
詳しい解説は当該拙記事に譲るが、簡潔にまとめておこう。
経済が長期停滞に嵌まっていると、需要不足予想→生産投資手控え→生産性成長低下→長期停滞継続という自己実現的なスパイラルがある。また、不況による失業増加、それによる労働供給余剰は、企業に労働集約化(=人の方が"安い"のだから、マンパワーに依存した生産体制構築を進める)を促し、また労働生産性を引き上げるようなイノベーションの利用を阻害する形で、経済成長を阻害するというメカニズムがあるのである。
加えて、『「真説・企業論」を読む②――アメリカにおけるベンチャーの実情』にて指摘したところだが、一般的に、労働需給が一層逼迫しているはずの好景気時の方が、むしろベンチャーの発生は活発化しがちである。よく考えれば当然のことで、労働需要が過剰になるくらいマクロ環境が良い時の方が、比較的"やり直し"がきくため、却って「チャレンジ」が発生しやすいのである。(不況はその逆)
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以前、ツイッターにて、現代日本における財政乗数低下はいかにして起きたのかについて議論した。
実際の議論については、以下togetterにまとめてある。
現代日本における財政乗数低下説に関する議論
しかし、そのまま掲載するには長くて煩雑なので、主張・結論をおおまかにまとめておこうと思う。
まず、財政乗数の低下の原因は、以下の三つの複合と考えられる。
・そもそも利用する統計の基準変更の影響が大きい。簡単に言えば、予算ベースの数値を用いるか、決算ベースの数値を用いるかで(繰越予算の存在のため)算出される財政乗数が大きく変化し、過小評価されていたと考えられる。
・1990年代前半では特に、バブル崩壊によるデレバレッジング・ショック(信用収縮)が財政拡張の乗数効果を相殺していた可能性がある。
・1997年以降では、財政構造改革の帰結として、財政支出伸び率が強力に抑制されるようになった。中長期的な財政抑制傾向が明らかとなったため、もはや民間部門は一年毎の財政支出額変動には反応しなくなり(その一年だけ増えても、どうせ中長期的には増えないので、投資等を増やさない)、実測の乗数効果が低下した可能性がある。
さらに、三つ目の要因について、一層議論が掘り下げられた。
民間部門が財政の(単年度ではなく)中長期的な指針に反応しているとすれば、乗数効果を持つ財政政策は、中長期的な財政拡張のみとなる。
しかしながら、中長期的な財政拡張の約束は、総需要調節の観点からは望ましくない。総需要調節の観点からは、フレキシブルに支出を調整できる方が好ましいからだ。
したがって、乗数効果と総需要調節に、本質的にトレードオフがあることになる。
では、どのように財政政策を行うべきか?
まず第一に、公共投資に関しては、基本的には景気に関わらず、必要と考える分だけ行うべきである。税収が減ったからその分だけ減らすといったこともしない。むしろ、総需要が過多になるようなら、税が自然増になるような税制を組んで総需要調整をする(このために累進課税が有効)。
ただし、経済が長期停滞による不況に陥っているようなら、その分だけ余剰リソースが多い=公共投資による機会費用(逸失利益)が少なくなるということなので、公共投資計画自体を拡張しても良いだろう。
逆に、民間の資源利用が活発になるような経済であれば、公共投資による機会費用の増加を鑑み、中長期的計画を見直す必要があるだろう。
そして、随時の総需要調節にあたっては、公共投資とは全く別のスキームを用意するべきだ。
例えば、名目所得水準目標(NGDPLT)をもとに、(Job Guaruantee Programのような)失業者を随時雇い、民間企業がより高い賃金を提示できるほど民間経済が持ち直せば、自然に民間へ雇用が移動する……というような自動的かつ柔軟な財政システムを組むべきである。
こうした財政システムにおいては、実測の財政乗数はむしろ一層小さくなるかもしれない。
なぜなら、民間支出の増減を補填するように、政府支出が(反循環的に)増減するからである。
景況変化と政府支出変化に大きなタイムラグがある場合は、そのタイムラグの間に財政乗数のようなものが測定される場合もあるかもしれないが、基本的には、財政支出の増減によって名目所得が増減するような財政乗数的関係はほぼ無くなるし、無くなるべきである。(名目所得が目標経路を維持するように財政が調整されるべき、ということ)
こうした名目所得の安定化を通じて、民間の投資や消費の安定的成長が実現されるというのが理想なわけだ。これはジョージ・アカロフの「安心乗数」にも通ずる議論である。
上記議論が何かの参考になれば幸いである。
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実際の議論については、以下togetterにまとめてある。
現代日本における財政乗数低下説に関する議論
しかし、そのまま掲載するには長くて煩雑なので、主張・結論をおおまかにまとめておこうと思う。
まず、財政乗数の低下の原因は、以下の三つの複合と考えられる。
・そもそも利用する統計の基準変更の影響が大きい。簡単に言えば、予算ベースの数値を用いるか、決算ベースの数値を用いるかで(繰越予算の存在のため)算出される財政乗数が大きく変化し、過小評価されていたと考えられる。
・1990年代前半では特に、バブル崩壊によるデレバレッジング・ショック(信用収縮)が財政拡張の乗数効果を相殺していた可能性がある。
・1997年以降では、財政構造改革の帰結として、財政支出伸び率が強力に抑制されるようになった。中長期的な財政抑制傾向が明らかとなったため、もはや民間部門は一年毎の財政支出額変動には反応しなくなり(その一年だけ増えても、どうせ中長期的には増えないので、投資等を増やさない)、実測の乗数効果が低下した可能性がある。
さらに、三つ目の要因について、一層議論が掘り下げられた。
民間部門が財政の(単年度ではなく)中長期的な指針に反応しているとすれば、乗数効果を持つ財政政策は、中長期的な財政拡張のみとなる。
しかしながら、中長期的な財政拡張の約束は、総需要調節の観点からは望ましくない。総需要調節の観点からは、フレキシブルに支出を調整できる方が好ましいからだ。
したがって、乗数効果と総需要調節に、本質的にトレードオフがあることになる。
では、どのように財政政策を行うべきか?
まず第一に、公共投資に関しては、基本的には景気に関わらず、必要と考える分だけ行うべきである。税収が減ったからその分だけ減らすといったこともしない。むしろ、総需要が過多になるようなら、税が自然増になるような税制を組んで総需要調整をする(このために累進課税が有効)。
ただし、経済が長期停滞による不況に陥っているようなら、その分だけ余剰リソースが多い=公共投資による機会費用(逸失利益)が少なくなるということなので、公共投資計画自体を拡張しても良いだろう。
逆に、民間の資源利用が活発になるような経済であれば、公共投資による機会費用の増加を鑑み、中長期的計画を見直す必要があるだろう。
そして、随時の総需要調節にあたっては、公共投資とは全く別のスキームを用意するべきだ。
例えば、名目所得水準目標(NGDPLT)をもとに、(Job Guaruantee Programのような)失業者を随時雇い、民間企業がより高い賃金を提示できるほど民間経済が持ち直せば、自然に民間へ雇用が移動する……というような自動的かつ柔軟な財政システムを組むべきである。
こうした財政システムにおいては、実測の財政乗数はむしろ一層小さくなるかもしれない。
なぜなら、民間支出の増減を補填するように、政府支出が(反循環的に)増減するからである。
景況変化と政府支出変化に大きなタイムラグがある場合は、そのタイムラグの間に財政乗数のようなものが測定される場合もあるかもしれないが、基本的には、財政支出の増減によって名目所得が増減するような財政乗数的関係はほぼ無くなるし、無くなるべきである。(名目所得が目標経路を維持するように財政が調整されるべき、ということ)
こうした名目所得の安定化を通じて、民間の投資や消費の安定的成長が実現されるというのが理想なわけだ。これはジョージ・アカロフの「安心乗数」にも通ずる議論である。
上記議論が何かの参考になれば幸いである。
noteにて、「経済学・経済論」執筆中!
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貨幣乗数理論というのは、根本的に間違った完全なる虚妄なのだが、教科書含め、未だに大手を振って蔓延しているというのが現状である。
かのようなベーシックなところでの誤りがいつまで経っても修正されないのだから、同様にして、財政破綻論が一向に衰えないのも当然と言えよう。
歴史的に見て、公的教育を含めた広範の教育カリキュラムにおいて誤った事項が教育されてしまうということは、別に珍しいことでも何でもないのだが、とはいえ、この貨幣乗数理論という現実経済とは全く乖離した完膚なきまでの虚構が、高位の学者に至るまで浸透している様子には深い諦念を覚える。
既に長らく、そして重ね重ね論じてきたことだが、改めて貨幣乗数理論の何が間違いかについて論じておこう。
拙note『「信用創造」(銀行融資による貨幣創造)に関する誤解とその修正』で平易に解説していることだが、端的に言うと、貨幣乗数理論が想定するような「銀行が手元の現金を次々に又貸しして銀行預金を増やしている」という取引は実在しない。
ビル・ミッチェルの「貨幣乗数、及びその他の神話」や、「貨幣乗数 ― 行方不明にて死亡と推定」などもご一読願いたいが、銀行融資というのは、単に銀行負債=銀行預金の新規発行という形を取るのであって、融資自体は現金準備or拠出を必要としない。
そして、銀行預金の増加に応じて、銀行預金決済を通じた現金需要(銀行間決済や対政府決済など)がある程度増える。
例えば、新規融資による信用創造を1000億行う場合、平均的に現金決済需要が100億増えると仮定するならば、銀行は、1000億の融資による収益と、100億の現金調達のコスト(=短期金利)を比較して、融資の是非を決定することになる。
(銀行預金にかかわる詳しい取引については、拙記事「銀行預金の創造と決済」をご一読願いたい。)
ここで重要なのは、現金調達のコスト=短期金利は、中央銀行の短期金利誘導政策に基づき、一定の値(政策金利)に誘導されているということである。
中央銀行は、予め誘導する短期金利(政策金利)を決定し、それに基づいて受動的に準備預金量を随時調節しているのである。
したがって銀行も、手元の準備預金量ではなく、今後の随時の準備預金調達にかかるコスト(即ち短期金利)を元に、新規融資の是非を決定する。
したがって、準備預金量単体にフォーカスすることの意義はほぼない。
なお、法定準備を議論に加えても含意はほとんど変わらない。
最初に法定準備を除いて話をしたのは、法定準備を加えても含意が変わらない上に、法定準備制度の無い国々も普通に存在するからである。
法定準備制度は、新規の信用創造によって発生する現金需要をさらに追加するものなのだが、既に論じたように、中央銀行は、政策金利を目標値として短期金利を誘導するのであり、準備預金需要が増えるなら、それに応じて準備預金を追加する。
つまり、法定準備制度が準備預金の需要を増やし、短期金利上昇圧力となるなら、中央銀行は当該需要を充足するように準備預金供給を増やすだけなのである。
したがって、法定準備制度は、銀行の信用創造を制限するものには全くなっていない。
銀行の信用創造を実態的に制限しているのは自己資本比率規制なのだが、通常の買いオペのような、国債と準備預金を交換するような政策は、銀行の自己資本を増やさないので、銀行の融資余力は変化しないことになる。
この手の
「法定準備制度は銀行融資を制限するものにならない」
「銀行融資を制限しているのは自己資本比率規制であり、量的緩和は融資余力拡張にはならない」
という話はビル・ミッチェルの「銀行融資は―準備預金ではなく―自己資本によって制約されている」に詳しい。
以上の議論から、
①貨幣乗数理論が想定するような、現金又貸しによる銀行預金創造はない(銀行預金は、手元の現金とは無関係に、銀行負債として新規発行される)。
②銀行の投融資は、準備預金量ではなく、準備預金調達コスト=政策金利と投融資収益率の比較に基づくのであり、準備預金量は無意味。
ということがわかる。
そもそも、貨幣乗数理論のような考え方だと、現実の金融調節プロセスがほとんど理解不能になるだろう。
例えば、決算期近辺では、各企業の決済需要の増加に伴い、銀行預金決済の増加と、それに伴う現金需要(銀行間決済、対政府決済)の増加が生じる。
仮にマネーサプライが一定だとしても、こうした決済需要の増加は、現金需要の増加と短期金利上昇圧力を発生させるので、中央銀行は受動的に準備預金供給を増やす。
当然、決算期が過ぎ、決済需要が低くなれば、現金需要が低下するので、短期金利が下がり過ぎないように、中央銀行は供給した準備預金を売りオペ等で回収することになる。
貨幣乗数理論のような、「マネタリーベースを増やせば、それが又貸しされてマネーサプライが増える」というような非実在のメカニズムを想定していると、上述したような金融調節実務が全く理解不能になるだろう。
現実には、銀行融資によるマネーサプライ創造が先にあり、その後に現金需要が発生する。事後的な現金需要に合わせて、銀行はその都度、随時に現金(準備預金)を調達し、不要になれば返済するのである。
余談になるが、既に論じたように、中央銀行は政策金利を目標に、受動的に準備預金を調節するのである。そしてその手段は、(短期)国債の売買(公開市場操作、所謂買いオペ・売りオペ)である。
こうした実態から、国債の本質的機能、及び役割が浮き彫りになる。以下に詳説していこう。
国債売買を通じて短期金利(=銀行間のベースマネー融通金利)を調節するということは、裁定的に(短期)国債金利と短期金利を収斂させるということと本質的に同じことになる。
というのは、国債金利の方が高ければ、銀行は国債を相対的に選好してしまい、短期金利が上昇してしまうし、逆に、短期金利の方が高ければ、銀行は国債を購入せず、インターバンク市場に準備預金を回すだろう。
そして、短期金利を一定の目標値=政策金利に誘導するように準備預金量を受動的に調節することは、国債金利もまた一定値に誘導していることと同じことになる。
というよりむしろ、中央銀行は直接的には国債を売買しているのだから、逆に、国債金利(国債価格)の調節を通じて、準備預金の融通コスト=短期金利の調節を行っている、と見做すべきなのである。
とにかく、短期金利誘導政策は、現実的には、事実上の国債金利(国債価格)の誘導政策となっているのだ。
上記の話を踏まえるとビル・ミッチェルが「準備預金の積み上げはインフレ促進的ではない」 や、「明示的財政ファイナンス(OMF)は財政政策に対するイデオロギー的な蔑視を払拭する」で論じている『有利子国債と付利のある準備預金は等価』という議論が理解可能となる。
ゼロ金利政策の場合が分かりやすいので、まずは政策金利がゼロの場合で考える。
既に論じたように、(短期)国債金利がゼロより大きければ、銀行はインターバンク市場の融資ではなく国債に準備預金を回してしまうので、ゼロ金利政策は必然的に(短期)国債金利のゼロへの誘導と同義になる。
中央銀行が(短期)国債金利をゼロに誘導するという事は、(短期)国債の元本額での随時の等価交換を約束することになる。
つまり、額面100万の国債を常に100万で売買可能なように公開市場操作を行うと宣言しているのと同じことになる。
したがって、銀行側から見れば、ゼロ金利政策下における国債は、常に同額の準備預金と交換可能だと中央銀行に保証された資産であるということになり、本質的に準備預金と同一物だということになる。
当然、元々同一物なのだからこの状況で国債と準備預金を入れ替えても(=量的緩和)、何も起こらない。
政策金利が正の場合を考えてみよう。仮に2%とする。
短期金利を誘導する方法は二種類で、公開市場操作、即ち国債売買を通じて短期金利2%を達成する方法と、2%の準備預金付利を通じて、短期金利2%を達成する方法である。
この二つを比較することで、有利子国債と付利のある準備預金の等価性が分かるのである。
そもそも、2%の準備預金付利が、短期金利2%を達成するということは了解可能だろうか?
簡単な話で、仮に準備預金が2%より低ければ、準備預金をインターバンク市場へ融通する機会費用(逸失利益)が2%未満となるので、準備預金がインターバンク市場に集まり短期金利が下落することになるからだ。(そもそも準備預金が少ない場合は、単に準備預金を何らかの形で追加すればよい。)
さて、公開市場操作で短期金利2%へ誘導するケースに戻るが、既に論じたように、この場合、中央銀行が売買する(短期)国債の金利が政策金利(2%)より有意に高ければ、銀行はインターバンク市場への融通よりも国債購入を選好し、短期金利は上昇してしまう。
したがって、中央銀行が(短期)国債売買を通じて短期金利を政策金利(2%)に誘導するという事は、裁定的に、(短期)国債金利を政策金利近傍に収斂させることになる。
つまり、政策金利誘導は、国債金利(国債価格)の特定値への誘導と同じことになるわけだ。
国債金利(国債価格)を特定値に誘導するということは、中央銀行が、特定価格での国債の現金交換を保証するということと事実上同義となる。
銀行から見れば国債は、設定されている政策金利に応じて、随時に一定価格で準備預金と交換可能な資産ということになる。
加えて、銀行が国債を事実上の固定価格で売却することの機会コストは、国債金利(≒政策金利)であり、これは銀行が付利のある準備預金をインターバンク市場融資に回すことの機会費用(=準備預金付利=政策金利)と同値である。
まとめると、有利子国債は、随時に一定価格で準備預金と交換可能な資産だが、交換による一定の機会費用が発生し、その機会費用は不利のある準備預金のインターバンク市場融通による機会費用と同値である。このことから、有利子国債と付利のある準備預金は等価なのだ。
(※このあたりの議論をわかりやすくまとめたものとしては、拙note「中央銀行の存在意義と機能限界」があるので、関心あれば一読願いたい。)
余談が長くなったが、この余談も、貨幣乗数理論の誤りを別の角度から描出するものにはなる。
準備預金量のみに誤ったフォーカスを向けてしまう貨幣乗数理論の考え方では、上述したような準備預金-政策金利-国債の運動を、ほぼ全く理解できないであろうからだ。
また、「望月夜の経済学・経済論 第一巻」、「望月夜の経済学・経済論 第二巻」も発売中!
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「不況論まとめ」
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貨幣乗数理論というのは、根本的に間違った完全なる虚妄なのだが、教科書含め、未だに大手を振って蔓延しているというのが現状である。
かのようなベーシックなところでの誤りがいつまで経っても修正されないのだから、同様にして、財政破綻論が一向に衰えないのも当然と言えよう。
歴史的に見て、公的教育を含めた広範の教育カリキュラムにおいて誤った事項が教育されてしまうということは、別に珍しいことでも何でもないのだが、とはいえ、この貨幣乗数理論という現実経済とは全く乖離した完膚なきまでの虚構が、高位の学者に至るまで浸透している様子には深い諦念を覚える。
既に長らく、そして重ね重ね論じてきたことだが、改めて貨幣乗数理論の何が間違いかについて論じておこう。
拙note『「信用創造」(銀行融資による貨幣創造)に関する誤解とその修正』で平易に解説していることだが、端的に言うと、貨幣乗数理論が想定するような「銀行が手元の現金を次々に又貸しして銀行預金を増やしている」という取引は実在しない。
ビル・ミッチェルの「貨幣乗数、及びその他の神話」や、「貨幣乗数 ― 行方不明にて死亡と推定」などもご一読願いたいが、銀行融資というのは、単に銀行負債=銀行預金の新規発行という形を取るのであって、融資自体は現金準備or拠出を必要としない。
そして、銀行預金の増加に応じて、銀行預金決済を通じた現金需要(銀行間決済や対政府決済など)がある程度増える。
例えば、新規融資による信用創造を1000億行う場合、平均的に現金決済需要が100億増えると仮定するならば、銀行は、1000億の融資による収益と、100億の現金調達のコスト(=短期金利)を比較して、融資の是非を決定することになる。
(銀行預金にかかわる詳しい取引については、拙記事「銀行預金の創造と決済」をご一読願いたい。)
ここで重要なのは、現金調達のコスト=短期金利は、中央銀行の短期金利誘導政策に基づき、一定の値(政策金利)に誘導されているということである。
中央銀行は、予め誘導する短期金利(政策金利)を決定し、それに基づいて受動的に準備預金量を随時調節しているのである。
したがって銀行も、手元の準備預金量ではなく、今後の随時の準備預金調達にかかるコスト(即ち短期金利)を元に、新規融資の是非を決定する。
したがって、準備預金量単体にフォーカスすることの意義はほぼない。
なお、法定準備を議論に加えても含意はほとんど変わらない。
最初に法定準備を除いて話をしたのは、法定準備を加えても含意が変わらない上に、法定準備制度の無い国々も普通に存在するからである。
法定準備制度は、新規の信用創造によって発生する現金需要をさらに追加するものなのだが、既に論じたように、中央銀行は、政策金利を目標値として短期金利を誘導するのであり、準備預金需要が増えるなら、それに応じて準備預金を追加する。
つまり、法定準備制度が準備預金の需要を増やし、短期金利上昇圧力となるなら、中央銀行は当該需要を充足するように準備預金供給を増やすだけなのである。
したがって、法定準備制度は、銀行の信用創造を制限するものには全くなっていない。
銀行の信用創造を実態的に制限しているのは自己資本比率規制なのだが、通常の買いオペのような、国債と準備預金を交換するような政策は、銀行の自己資本を増やさないので、銀行の融資余力は変化しないことになる。
この手の
「法定準備制度は銀行融資を制限するものにならない」
「銀行融資を制限しているのは自己資本比率規制であり、量的緩和は融資余力拡張にはならない」
という話はビル・ミッチェルの「銀行融資は―準備預金ではなく―自己資本によって制約されている」に詳しい。
以上の議論から、
①貨幣乗数理論が想定するような、現金又貸しによる銀行預金創造はない(銀行預金は、手元の現金とは無関係に、銀行負債として新規発行される)。
②銀行の投融資は、準備預金量ではなく、準備預金調達コスト=政策金利と投融資収益率の比較に基づくのであり、準備預金量は無意味。
ということがわかる。
そもそも、貨幣乗数理論のような考え方だと、現実の金融調節プロセスがほとんど理解不能になるだろう。
例えば、決算期近辺では、各企業の決済需要の増加に伴い、銀行預金決済の増加と、それに伴う現金需要(銀行間決済、対政府決済)の増加が生じる。
仮にマネーサプライが一定だとしても、こうした決済需要の増加は、現金需要の増加と短期金利上昇圧力を発生させるので、中央銀行は受動的に準備預金供給を増やす。
当然、決算期が過ぎ、決済需要が低くなれば、現金需要が低下するので、短期金利が下がり過ぎないように、中央銀行は供給した準備預金を売りオペ等で回収することになる。
貨幣乗数理論のような、「マネタリーベースを増やせば、それが又貸しされてマネーサプライが増える」というような非実在のメカニズムを想定していると、上述したような金融調節実務が全く理解不能になるだろう。
現実には、銀行融資によるマネーサプライ創造が先にあり、その後に現金需要が発生する。事後的な現金需要に合わせて、銀行はその都度、随時に現金(準備預金)を調達し、不要になれば返済するのである。
余談になるが、既に論じたように、中央銀行は政策金利を目標に、受動的に準備預金を調節するのである。そしてその手段は、(短期)国債の売買(公開市場操作、所謂買いオペ・売りオペ)である。
こうした実態から、国債の本質的機能、及び役割が浮き彫りになる。以下に詳説していこう。
国債売買を通じて短期金利(=銀行間のベースマネー融通金利)を調節するということは、裁定的に(短期)国債金利と短期金利を収斂させるということと本質的に同じことになる。
というのは、国債金利の方が高ければ、銀行は国債を相対的に選好してしまい、短期金利が上昇してしまうし、逆に、短期金利の方が高ければ、銀行は国債を購入せず、インターバンク市場に準備預金を回すだろう。
そして、短期金利を一定の目標値=政策金利に誘導するように準備預金量を受動的に調節することは、国債金利もまた一定値に誘導していることと同じことになる。
というよりむしろ、中央銀行は直接的には国債を売買しているのだから、逆に、国債金利(国債価格)の調節を通じて、準備預金の融通コスト=短期金利の調節を行っている、と見做すべきなのである。
とにかく、短期金利誘導政策は、現実的には、事実上の国債金利(国債価格)の誘導政策となっているのだ。
上記の話を踏まえるとビル・ミッチェルが「準備預金の積み上げはインフレ促進的ではない」 や、「明示的財政ファイナンス(OMF)は財政政策に対するイデオロギー的な蔑視を払拭する」で論じている『有利子国債と付利のある準備預金は等価』という議論が理解可能となる。
ゼロ金利政策の場合が分かりやすいので、まずは政策金利がゼロの場合で考える。
既に論じたように、(短期)国債金利がゼロより大きければ、銀行はインターバンク市場の融資ではなく国債に準備預金を回してしまうので、ゼロ金利政策は必然的に(短期)国債金利のゼロへの誘導と同義になる。
中央銀行が(短期)国債金利をゼロに誘導するという事は、(短期)国債の元本額での随時の等価交換を約束することになる。
つまり、額面100万の国債を常に100万で売買可能なように公開市場操作を行うと宣言しているのと同じことになる。
したがって、銀行側から見れば、ゼロ金利政策下における国債は、常に同額の準備預金と交換可能だと中央銀行に保証された資産であるということになり、本質的に準備預金と同一物だということになる。
当然、元々同一物なのだからこの状況で国債と準備預金を入れ替えても(=量的緩和)、何も起こらない。
政策金利が正の場合を考えてみよう。仮に2%とする。
短期金利を誘導する方法は二種類で、公開市場操作、即ち国債売買を通じて短期金利2%を達成する方法と、2%の準備預金付利を通じて、短期金利2%を達成する方法である。
この二つを比較することで、有利子国債と付利のある準備預金の等価性が分かるのである。
そもそも、2%の準備預金付利が、短期金利2%を達成するということは了解可能だろうか?
簡単な話で、仮に準備預金が2%より低ければ、準備預金をインターバンク市場へ融通する機会費用(逸失利益)が2%未満となるので、準備預金がインターバンク市場に集まり短期金利が下落することになるからだ。(そもそも準備預金が少ない場合は、単に準備預金を何らかの形で追加すればよい。)
さて、公開市場操作で短期金利2%へ誘導するケースに戻るが、既に論じたように、この場合、中央銀行が売買する(短期)国債の金利が政策金利(2%)より有意に高ければ、銀行はインターバンク市場への融通よりも国債購入を選好し、短期金利は上昇してしまう。
したがって、中央銀行が(短期)国債売買を通じて短期金利を政策金利(2%)に誘導するという事は、裁定的に、(短期)国債金利を政策金利近傍に収斂させることになる。
つまり、政策金利誘導は、国債金利(国債価格)の特定値への誘導と同じことになるわけだ。
国債金利(国債価格)を特定値に誘導するということは、中央銀行が、特定価格での国債の現金交換を保証するということと事実上同義となる。
銀行から見れば国債は、設定されている政策金利に応じて、随時に一定価格で準備預金と交換可能な資産ということになる。
加えて、銀行が国債を事実上の固定価格で売却することの機会コストは、国債金利(≒政策金利)であり、これは銀行が付利のある準備預金をインターバンク市場融資に回すことの機会費用(=準備預金付利=政策金利)と同値である。
まとめると、有利子国債は、随時に一定価格で準備預金と交換可能な資産だが、交換による一定の機会費用が発生し、その機会費用は不利のある準備預金のインターバンク市場融通による機会費用と同値である。このことから、有利子国債と付利のある準備預金は等価なのだ。
(※このあたりの議論をわかりやすくまとめたものとしては、拙note「中央銀行の存在意義と機能限界」があるので、関心あれば一読願いたい。)
余談が長くなったが、この余談も、貨幣乗数理論の誤りを別の角度から描出するものにはなる。
準備預金量のみに誤ったフォーカスを向けてしまう貨幣乗数理論の考え方では、上述したような準備預金-政策金利-国債の運動を、ほぼ全く理解できないであろうからだ。
noteにて、「経済学・経済論」執筆中!
また、「望月夜の経済学・経済論 第一巻」、「望月夜の経済学・経済論 第二巻」も発売中!
その他、
「貨幣論まとめ」
「不況論まとめ」
「財政論まとめ」
などなど……
――――――――――――――――――――
投稿先はこちら
MMTに関連する問答は、これまで随所で行ってきた。
Q&A式の記事や、批判に応えるタイプの記事も、以下の通りいくつか書いたことがある。
『MMT想定反論集』
『信用貨幣論批判への反論』
『資源遊休→陳腐化、大きな政府、誰かの黒字は誰かの赤字、信用創造の実像、貨幣の起源などに関する問答』
『「貯蓄」という言葉の意味、租税の機能(租税と通貨の関係)、国債の存在意義などに関する問答』
今回は、これまで行われていた問答のうち、過去記事でまだまとめていないものをピックアップしてみることにする。
Q:「負債というのは、貨幣で支払う約束のことなのだから、貨幣は原理的に負債とは言えないのではないか?」
A:
「貨幣はいかなる意味で負債なのか そもそも負債とは何なのか」で網羅的に解説した通りなのだが、「貨幣で弁済する」というのは、負債を弁済する方法の一種に過ぎない。
前受報酬、前受金といった、物納による弁済・償還が通常である負債もあるし、買掛金と売掛金で相殺するような相殺取引、手形を物納で償還するような取引(『業務と負債を相殺する』)も珍しくない。
政府(統合政府)の発行する通貨で言えば、「政府が納税者(基本的に国民)に対して保有する徴税債権を相殺するもの」という意味で、政府(統合政府)負債に他ならない。
もし納税者が通貨を用意できなければ、政府は納税者から資産を徴収したり、労役を課すことが出来る。
裏を返せば、納税者は通貨を提出することによって、政府のそうした請求権(徴税債権)を相殺することが出来るということであり、この意味で通貨は明らかに政府負債なのである。
(似たことは、銀行貨幣=銀行預金と債務者にも言える。銀行は銀行貨幣を返済のために提出しない債務者から資産を接収できるが、裏を返せば債務者は、銀行のそうした請求権(債権)を、銀行貨幣提出によって相殺できるのであり、この意味で銀行貨幣は銀行負債に他ならない。尤も、銀行貨幣の場合は、銀行による支払の代行や、銀行からの現金引出などもあるので、そちらの面でも負債である)
Q:「貨幣発行高の方が、年あたりの租税額より遥かに多いし、貨幣発行高と租税額の比も貨幣価値と相関がない。したがって、貨幣の流通と租税は無関係なのではないか?」
A:
『「お金」「通貨」はどこからやってくるのか』
『「お金」「通貨」の実態・正体』
『CT(貨幣循環理論)からMMT(現代金融理論)へ』
上記note、記事群を踏まえたうえで論ずるが、
①貨幣には、政府支出によって創造され、租税によって破壊される通貨currencyと、商業銀行の投融資によって創造され、返済等によって破壊される銀行貨幣=銀行預金の二種類があり、この二つを混同してはならない。租税に用いることが出来るのは通貨currencyだけなので、税と(直接)関連があるのは、通貨currencyのみである。
②政府の歳入は、(社会保険料は含むが、通貨のユーザーである地方政府は除く)130兆程、これに対してベースマネーは異次元緩和の中でも400兆~500兆、”統合政府の定期預金”的な性格を持つ国債を含めても1000兆強であり、桁外れの差があるかというとそういうわけでもない。(ジンバブエのように、ここにもっと凄まじい差があれば、事実上の無税国家に近似的になって、通貨流通が阻害される可能性はあるが、少なくとも日本はそういう状況ではなさそう)
③通貨の流通価値は、租税と通貨発行高の比に対して常に一定の比例関係にあるわけではない。決済需要・貯蓄需要の変化に伴い、通貨保持需要は変化する。そのため、単純に租税と通貨発行高を比較する行為は完全にナンセンスとなる。(そもそも租税は、政府支出を通じて供給した通貨に流通性を与えるためだけの措置なのであり、したがって通貨を吸収し切るのは論外となる。)
Q:「人々の多くは、租税や返済のために貨幣を保有するわけではないのだから、租税や返済を最終需要とするのは的外れではないか?」
A:
『「お金」「通貨」の実態・正体』
『CT(貨幣循環理論)からMMT(現代金融理論)へ』
上記2記事を踏まえた上で議論しよう。
上記2記事では、CT(Monetary Circuit Theory、貨幣循環理論)を概説した。
ここで簡単に説明すると、内生的貨幣に基づく生産サイクルは、「企業の借入(信用創造)」→「賃金支出を含む生産投資」→「賃金等を受け取った消費者による購入」→「販売で得た売上による返済」という形に概ねなっている。
ここで、貨幣賃金を受け取る労働者は、直接的に返済の義務があるわけではない。労働者が貨幣賃金を受け取るのは、それによって、企業が生産する財を購入できるからである。
では企業はなぜ貨幣を求めて財を売るのか?
一番最初に貨幣を借入したのは他ならぬ企業であり、その返済義務を持つのもまた他ならぬ企業であるからだ。
ここでは、企業の抱える返済という「最終需要」から、天下り式に(返済義務など全くないはずの)労働者の貨幣所持需要が発生している。このように、「最終需要」は、天下り式に貨幣需要を作り出すのであり、それによって、「最終需要」とは直接の関係を持たない人々も貨幣を需要するようになるのだ。
したがって、『人々の多くは、租税や返済のために貨幣を保有するわけではない』という指摘は、信用貨幣論批判としては全くナンセンスなものになる。
Q:「ジンバブエでジンバブエ・ドルの流通が障害され、米ドルが流通するようになったのは、租税貨幣論の誤りを示唆するものではないか」
A:
事実は全く逆で、ジンバブエ・ドルの破綻と米ドルの流通は、租税貨幣論をむしろ裏付けるものである。
ジンバブエは、外債返済を通貨発行で賄うという狂気じみた政策により、通貨発行の無限大の増大を引き起こした。
先ほど「通貨発行高と租税高の単純比較はナンセンス」という話をしたが、とはいえ、通貨発行のこうした著名な増加は、相対的に租税(最終需要)を大いに希釈してしまい、事実上の無税国家に近似的になる。最終需要の(相対的な)毀損は、租税貨幣論が想定する通り、ジンバブエ・ドルの流通を障害することとなったのである。
ジンバブエの米ドル流通については、ジンバブエ国内に切り取れば、米ドルには「輸入」という需要が存在していることに注意しよう。そしてさらにジンバブエ国外までたどれば、米ドル通貨の場合は租税、米ドル銀行貨幣の場合は返済という最終需要を持っていることになる。
「最終需要から天下り式に貨幣流通が基礎づけられる」という租税貨幣論の構造とは全く矛盾しない現象と言うわけだ。
Q:「MMTは仮想通貨の流通をどう説明するのか? また仮想通貨が既存通貨に取って換わる危険はないのか?」
A:
明瞭な最終需要を持たない貨幣については、以下記事で考察したので参照願いたい。
『債務・債権としての貨幣 貨幣は常に誰かにとっての負債である』
端的にまとめれば、明確な最終需要を持たない貨幣が流通するには、その(商品価値を一切持たない)貨幣に対して財を販売する生産者の存在が必要である。
これは当該貨幣が、当該貨幣所有者にとっては生産者に対する債権であり、生産者にとっては当該貨幣所有者に対する負債であるという場合に限り、当該貨幣の流通が発生するという事を意味している。
しかしながら、こうした貨幣流通や貨幣需要は、明確な信用サイクルを持つ通貨や銀行貨幣に比して極めて不安定であり、それこそジンバブエ・ドルのようなクラッシュがいつ起こると知れないものである。
したがって、仮想通貨が既存通貨の地位を簒奪し、あらゆる信用の単位(貨幣単位)となるということは考え難い。仮想通貨は、あくまでハードカレンシーの側から「○○ドル」、「▽▽円」と表記されるだけのものであり、その逆とはならない。むしろ、仮想通貨については、一般の金融投資と同様に、価格崩壊による金融ショックこそ警戒しなくてはならない。
(余談だが、既に仮想通貨は一般の金融資産と同様、その稼得に自国通貨建てでの課税が要求されるようになっている。こうした措置が安定的に行われる限り(また、ジンバブエのような通貨ガバナンスの崩壊がない限り)、仮想通貨と自国通貨の地位が交代するということはまずありえない。しかし裏を返せば、『仮想通貨による納税を認める』といったような馬鹿げた政策を取れば、自国通貨の地位は簡単に揺らぐことになるだろう。)
Q:「MMTは結局何の役に立つのか?」
A:
MMTは単に現代の金融財政システムを説明するだけなのであって、そこからどれだけ有意義なインプリケーションを見出せるかは結局のところ学習者次第である。
とりあえず、MMT的理解をベースにした記事を示していくことにしよう。
『なぜ異次元緩和は失敗に終わったのか』
『リフレ派は何を間違ってきたのか』
『貨幣外生説の罠』
『MMTと主流派経済学の違いは「掛け算の順序問題」に近似できるか?』
『「財政再建は終わりました」をMMT系財政出動派として批判する』
『「誰かの黒字は誰かの赤字の原則」→「財政"黒字"の危険性」』
『なぜ生産性ショックによるインフレ(所謂スタグフレーション)は「許容」すべきなのか』
上記の記事群が示すように、MMTに沿った正確な金融財政システム理解は、様々な誤謬を防ぐことが出来る。以下に例示しよう。
×『財政赤字は維持不可能なので財政黒字を目指さないといけない』
→むしろ財政黒字は民間信用膨張を示すもので、金融不安定性の拡大を示唆するものであり、危険かつ維持不可能である。
×『量的緩和によって経済を刺激できる』
→金利がゼロ下限に当たれば、量的緩和は一切効果を持たない(効果を持ちえるのは、金利政策か、将来の金利政策に関するアナウンスだけ)。中央銀行は金利政策に基づいてベースマネーを受動的に調節しているのであり、単にベースマネーを拡張する政策それ自体は(金利を引き下げる効果はあっても)信用拡張には繋がらないからである。
×『中央銀行が将来のマネーサプライの拡大を約束すれば、インフレを起こせる』
→中央銀行はマネーサプライを直接操作できない。マネーサプライは信用創造の結果として内生的に創出されるからである。中央銀行は金利メカニズムを介した間接的で弱い干渉しか出来ない。マネーサプライに直接アクセスできるのは、むしろ財政政策である。
×『財政支出によって経済を刺激すれば、(債務残高GDP比などの面で)財政再建できるので、財政出動するべきだ』
→債務残高GDP比などの指標は、財政の”安全性”に関して何の意味も持たない。重要なのは自国通貨建て国債であるかどうか、そもそも自国通貨を持っているかどうかであり、「財政再建のための財政出動」という財政ハト派の主張は、容易に拙速な緊縮へと転回するという意味で、”獅子身中の虫”に他ならない
×『政府の資産も併せた”政府純債務”では日本は健全だから財政は大丈夫』
→政府財政の安全性は、債務が自国通貨建てかどうかだけに依存する。資産を合算した純債務の水準など、何の意味もない。純債務を重視する方針は、むしろ政府資産の適宜売却(特に安易な民営化)を促す原因となり、国民経済から見ても好ましいものにならない可能性が高い。その意味で、間違っているだけでなく、危険な考え方である。詳しくは『ビル・ミッチェル「政府のB/Sなどという愚かな道を行くIMF」』をご一読いただきたい。
Q:「貯蓄が増えれば経済は不況になる、故に貯蓄が経済停滞の原因である、と言えるのではないのか?」
A:
そうした考えは色々と誤謬含みだ。
詳しくは拙記事『経常収支とISバランス及び不況 -ISバランスにおける過剰貯蓄と不況論の過剰貯蓄の違い-』をご覧いただきたいが、不況の際に増えるのは”潜在貯蓄”である。
というのは、実測の貯蓄は、投融資減少→所得減少→貯蓄減少という形で、投融資高による制約を受けるからである。
不況経済では一般に投融資は減少するので、実測の貯蓄はむしろ減少し得るのだ。
逆に、非不況経済(好況)では一般に投融資は増加するので、投融資増加→所得増加→貯蓄増加という形で、むしろ実測の貯蓄は増加し得る。
こういった意味で、実測の貯蓄の増減と不況・非不況を関連付けるのは難しい。
そもそも、元々の議論は、”貯蓄”と”支出減少”(→所得減少)を混同してしまっている結果として混乱に陥っている。
ある主体が「前期で貯蓄して、今期で支出する」と計画していたが、将来所得の悲観から、今期になって支出を取り止めたとしよう。
これは”支出減少”と呼ばれるべきである。
なぜなら、
①貯蓄をしたのは前期であり、今期ではない。
②今期に行ったのは貯蓄ではなく、支出の削減。
③実際、貯蓄の総量に変化はない(増えない)。
ただ、前期まで含めると、相対的な(支出高に対する)貯蓄の超過だ、と表現したくなる気持ちもわからなくはない。
しかし、既に示した通り、これを貯蓄と呼ぶのは定義的に誤りである。
また、既述の通り、一般に不況で(投融資減少のために)貯蓄が減り、好況で(投融資増加のために)貯蓄が増えるという経済事実との整合性が取れない。
Q:「日本の信用創造・間接金融の破壊、それによる不況は、地価への増税とBIS規制(自己資本比率規制)によって齎されたのではないのか」
A:
結論から言うと、見当違いな診断であろう。
まずBIS規制(自己資本比率規制)についてだが、BIS規制が問題になるのは、財政赤字による安全資産・銀行資本の供給が不足する場合である。信用創造の抑制に働くとしたら、それはBIS規制だけでなく、財政赤字不足との合わせ技によるものであって、BIS規制単体を批判するのはお門違いということになる。
むしろ、自己資本比率規制自体は、金融不安定性を低減し、長期的な総需要安定や経済成長に資するものだ。(詳しくは『ビル・ミッチェル「銀行融資は―準備預金ではなく―自己資本によって制約されている」』を一読いただきたい)
それが問題となるのは、政府による財政赤字供給の不足がある場合であり、批判すべきはむしろ財政スタンス(財政赤字過少)である。
批判するべき対象を履き違えているわけだ。
次は地価について。
土地が担保資産として信用創造に資することはその通りであり、土地課税自体が地価に低下圧力を掛けるのもその通りではあるが、地価に影響を与える要素として同等、あるいはそれ以上に重要なのは、名目所得である。
仮に地価増税が回避されたとしても、それ以外の増税や支出削減が生じ、名目所得が同様に抑制されれば、地価もまた同様に低下圧力を受け、信用創造も毀損されたであろう。ここでもまた、問題は地価増税それ自体ではなく、財政支出の過少であるということがわかる。
地価についても、批判するべき対象の履き違えが発生しているのである。
追伸:
これまでの貨幣論、MMT論は以下リンクにまとまっているので通読を推奨したい。
『これまでの貨幣論まとめ』
『CT(貨幣循環理論)からMMT(現代金融理論)へ』
『貨幣の起源と本質を訪ねて…商品貨幣論・金属主義的史観からの脱却』
『貨幣はいかなる意味で負債なのか そもそも負債とは何なのか』
また、貨幣論を平易にまとめたものとして、noteの貨幣論マガジンも推奨する。
『貨幣論まとめ』
また、「望月夜の経済学・経済論 第一巻」、「望月夜の経済学・経済論 第二巻」も発売中!
その他、
「貨幣論まとめ」
「不況論まとめ」
「財政論まとめ」
などなど……
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MMTに関連する問答は、これまで随所で行ってきた。
Q&A式の記事や、批判に応えるタイプの記事も、以下の通りいくつか書いたことがある。
『MMT想定反論集』
『信用貨幣論批判への反論』
『資源遊休→陳腐化、大きな政府、誰かの黒字は誰かの赤字、信用創造の実像、貨幣の起源などに関する問答』
『「貯蓄」という言葉の意味、租税の機能(租税と通貨の関係)、国債の存在意義などに関する問答』
今回は、これまで行われていた問答のうち、過去記事でまだまとめていないものをピックアップしてみることにする。
Q:「負債というのは、貨幣で支払う約束のことなのだから、貨幣は原理的に負債とは言えないのではないか?」
A:
「貨幣はいかなる意味で負債なのか そもそも負債とは何なのか」で網羅的に解説した通りなのだが、「貨幣で弁済する」というのは、負債を弁済する方法の一種に過ぎない。
前受報酬、前受金といった、物納による弁済・償還が通常である負債もあるし、買掛金と売掛金で相殺するような相殺取引、手形を物納で償還するような取引(『業務と負債を相殺する』)も珍しくない。
政府(統合政府)の発行する通貨で言えば、「政府が納税者(基本的に国民)に対して保有する徴税債権を相殺するもの」という意味で、政府(統合政府)負債に他ならない。
もし納税者が通貨を用意できなければ、政府は納税者から資産を徴収したり、労役を課すことが出来る。
裏を返せば、納税者は通貨を提出することによって、政府のそうした請求権(徴税債権)を相殺することが出来るということであり、この意味で通貨は明らかに政府負債なのである。
(似たことは、銀行貨幣=銀行預金と債務者にも言える。銀行は銀行貨幣を返済のために提出しない債務者から資産を接収できるが、裏を返せば債務者は、銀行のそうした請求権(債権)を、銀行貨幣提出によって相殺できるのであり、この意味で銀行貨幣は銀行負債に他ならない。尤も、銀行貨幣の場合は、銀行による支払の代行や、銀行からの現金引出などもあるので、そちらの面でも負債である)
Q:「貨幣発行高の方が、年あたりの租税額より遥かに多いし、貨幣発行高と租税額の比も貨幣価値と相関がない。したがって、貨幣の流通と租税は無関係なのではないか?」
A:
『「お金」「通貨」はどこからやってくるのか』
『「お金」「通貨」の実態・正体』
『CT(貨幣循環理論)からMMT(現代金融理論)へ』
上記note、記事群を踏まえたうえで論ずるが、
①貨幣には、政府支出によって創造され、租税によって破壊される通貨currencyと、商業銀行の投融資によって創造され、返済等によって破壊される銀行貨幣=銀行預金の二種類があり、この二つを混同してはならない。租税に用いることが出来るのは通貨currencyだけなので、税と(直接)関連があるのは、通貨currencyのみである。
②政府の歳入は、(社会保険料は含むが、通貨のユーザーである地方政府は除く)130兆程、これに対してベースマネーは異次元緩和の中でも400兆~500兆、”統合政府の定期預金”的な性格を持つ国債を含めても1000兆強であり、桁外れの差があるかというとそういうわけでもない。(ジンバブエのように、ここにもっと凄まじい差があれば、事実上の無税国家に近似的になって、通貨流通が阻害される可能性はあるが、少なくとも日本はそういう状況ではなさそう)
③通貨の流通価値は、租税と通貨発行高の比に対して常に一定の比例関係にあるわけではない。決済需要・貯蓄需要の変化に伴い、通貨保持需要は変化する。そのため、単純に租税と通貨発行高を比較する行為は完全にナンセンスとなる。(そもそも租税は、政府支出を通じて供給した通貨に流通性を与えるためだけの措置なのであり、したがって通貨を吸収し切るのは論外となる。)
Q:「人々の多くは、租税や返済のために貨幣を保有するわけではないのだから、租税や返済を最終需要とするのは的外れではないか?」
A:
『「お金」「通貨」の実態・正体』
『CT(貨幣循環理論)からMMT(現代金融理論)へ』
上記2記事を踏まえた上で議論しよう。
上記2記事では、CT(Monetary Circuit Theory、貨幣循環理論)を概説した。
ここで簡単に説明すると、内生的貨幣に基づく生産サイクルは、「企業の借入(信用創造)」→「賃金支出を含む生産投資」→「賃金等を受け取った消費者による購入」→「販売で得た売上による返済」という形に概ねなっている。
ここで、貨幣賃金を受け取る労働者は、直接的に返済の義務があるわけではない。労働者が貨幣賃金を受け取るのは、それによって、企業が生産する財を購入できるからである。
では企業はなぜ貨幣を求めて財を売るのか?
一番最初に貨幣を借入したのは他ならぬ企業であり、その返済義務を持つのもまた他ならぬ企業であるからだ。
ここでは、企業の抱える返済という「最終需要」から、天下り式に(返済義務など全くないはずの)労働者の貨幣所持需要が発生している。このように、「最終需要」は、天下り式に貨幣需要を作り出すのであり、それによって、「最終需要」とは直接の関係を持たない人々も貨幣を需要するようになるのだ。
したがって、『人々の多くは、租税や返済のために貨幣を保有するわけではない』という指摘は、信用貨幣論批判としては全くナンセンスなものになる。
Q:「ジンバブエでジンバブエ・ドルの流通が障害され、米ドルが流通するようになったのは、租税貨幣論の誤りを示唆するものではないか」
A:
事実は全く逆で、ジンバブエ・ドルの破綻と米ドルの流通は、租税貨幣論をむしろ裏付けるものである。
ジンバブエは、外債返済を通貨発行で賄うという狂気じみた政策により、通貨発行の無限大の増大を引き起こした。
先ほど「通貨発行高と租税高の単純比較はナンセンス」という話をしたが、とはいえ、通貨発行のこうした著名な増加は、相対的に租税(最終需要)を大いに希釈してしまい、事実上の無税国家に近似的になる。最終需要の(相対的な)毀損は、租税貨幣論が想定する通り、ジンバブエ・ドルの流通を障害することとなったのである。
ジンバブエの米ドル流通については、ジンバブエ国内に切り取れば、米ドルには「輸入」という需要が存在していることに注意しよう。そしてさらにジンバブエ国外までたどれば、米ドル通貨の場合は租税、米ドル銀行貨幣の場合は返済という最終需要を持っていることになる。
「最終需要から天下り式に貨幣流通が基礎づけられる」という租税貨幣論の構造とは全く矛盾しない現象と言うわけだ。
Q:「MMTは仮想通貨の流通をどう説明するのか? また仮想通貨が既存通貨に取って換わる危険はないのか?」
A:
明瞭な最終需要を持たない貨幣については、以下記事で考察したので参照願いたい。
『債務・債権としての貨幣 貨幣は常に誰かにとっての負債である』
端的にまとめれば、明確な最終需要を持たない貨幣が流通するには、その(商品価値を一切持たない)貨幣に対して財を販売する生産者の存在が必要である。
これは当該貨幣が、当該貨幣所有者にとっては生産者に対する債権であり、生産者にとっては当該貨幣所有者に対する負債であるという場合に限り、当該貨幣の流通が発生するという事を意味している。
しかしながら、こうした貨幣流通や貨幣需要は、明確な信用サイクルを持つ通貨や銀行貨幣に比して極めて不安定であり、それこそジンバブエ・ドルのようなクラッシュがいつ起こると知れないものである。
したがって、仮想通貨が既存通貨の地位を簒奪し、あらゆる信用の単位(貨幣単位)となるということは考え難い。仮想通貨は、あくまでハードカレンシーの側から「○○ドル」、「▽▽円」と表記されるだけのものであり、その逆とはならない。むしろ、仮想通貨については、一般の金融投資と同様に、価格崩壊による金融ショックこそ警戒しなくてはならない。
(余談だが、既に仮想通貨は一般の金融資産と同様、その稼得に自国通貨建てでの課税が要求されるようになっている。こうした措置が安定的に行われる限り(また、ジンバブエのような通貨ガバナンスの崩壊がない限り)、仮想通貨と自国通貨の地位が交代するということはまずありえない。しかし裏を返せば、『仮想通貨による納税を認める』といったような馬鹿げた政策を取れば、自国通貨の地位は簡単に揺らぐことになるだろう。)
Q:「MMTは結局何の役に立つのか?」
A:
MMTは単に現代の金融財政システムを説明するだけなのであって、そこからどれだけ有意義なインプリケーションを見出せるかは結局のところ学習者次第である。
とりあえず、MMT的理解をベースにした記事を示していくことにしよう。
『なぜ異次元緩和は失敗に終わったのか』
『リフレ派は何を間違ってきたのか』
『貨幣外生説の罠』
『MMTと主流派経済学の違いは「掛け算の順序問題」に近似できるか?』
『「財政再建は終わりました」をMMT系財政出動派として批判する』
『「誰かの黒字は誰かの赤字の原則」→「財政"黒字"の危険性」』
『なぜ生産性ショックによるインフレ(所謂スタグフレーション)は「許容」すべきなのか』
上記の記事群が示すように、MMTに沿った正確な金融財政システム理解は、様々な誤謬を防ぐことが出来る。以下に例示しよう。
×『財政赤字は維持不可能なので財政黒字を目指さないといけない』
→むしろ財政黒字は民間信用膨張を示すもので、金融不安定性の拡大を示唆するものであり、危険かつ維持不可能である。
×『量的緩和によって経済を刺激できる』
→金利がゼロ下限に当たれば、量的緩和は一切効果を持たない(効果を持ちえるのは、金利政策か、将来の金利政策に関するアナウンスだけ)。中央銀行は金利政策に基づいてベースマネーを受動的に調節しているのであり、単にベースマネーを拡張する政策それ自体は(金利を引き下げる効果はあっても)信用拡張には繋がらないからである。
×『中央銀行が将来のマネーサプライの拡大を約束すれば、インフレを起こせる』
→中央銀行はマネーサプライを直接操作できない。マネーサプライは信用創造の結果として内生的に創出されるからである。中央銀行は金利メカニズムを介した間接的で弱い干渉しか出来ない。マネーサプライに直接アクセスできるのは、むしろ財政政策である。
×『財政支出によって経済を刺激すれば、(債務残高GDP比などの面で)財政再建できるので、財政出動するべきだ』
→債務残高GDP比などの指標は、財政の”安全性”に関して何の意味も持たない。重要なのは自国通貨建て国債であるかどうか、そもそも自国通貨を持っているかどうかであり、「財政再建のための財政出動」という財政ハト派の主張は、容易に拙速な緊縮へと転回するという意味で、”獅子身中の虫”に他ならない
×『政府の資産も併せた”政府純債務”では日本は健全だから財政は大丈夫』
→政府財政の安全性は、債務が自国通貨建てかどうかだけに依存する。資産を合算した純債務の水準など、何の意味もない。純債務を重視する方針は、むしろ政府資産の適宜売却(特に安易な民営化)を促す原因となり、国民経済から見ても好ましいものにならない可能性が高い。その意味で、間違っているだけでなく、危険な考え方である。詳しくは『ビル・ミッチェル「政府のB/Sなどという愚かな道を行くIMF」』をご一読いただきたい。
Q:「貯蓄が増えれば経済は不況になる、故に貯蓄が経済停滞の原因である、と言えるのではないのか?」
A:
そうした考えは色々と誤謬含みだ。
詳しくは拙記事『経常収支とISバランス及び不況 -ISバランスにおける過剰貯蓄と不況論の過剰貯蓄の違い-』をご覧いただきたいが、不況の際に増えるのは”潜在貯蓄”である。
というのは、実測の貯蓄は、投融資減少→所得減少→貯蓄減少という形で、投融資高による制約を受けるからである。
不況経済では一般に投融資は減少するので、実測の貯蓄はむしろ減少し得るのだ。
逆に、非不況経済(好況)では一般に投融資は増加するので、投融資増加→所得増加→貯蓄増加という形で、むしろ実測の貯蓄は増加し得る。
こういった意味で、実測の貯蓄の増減と不況・非不況を関連付けるのは難しい。
そもそも、元々の議論は、”貯蓄”と”支出減少”(→所得減少)を混同してしまっている結果として混乱に陥っている。
ある主体が「前期で貯蓄して、今期で支出する」と計画していたが、将来所得の悲観から、今期になって支出を取り止めたとしよう。
これは”支出減少”と呼ばれるべきである。
なぜなら、
①貯蓄をしたのは前期であり、今期ではない。
②今期に行ったのは貯蓄ではなく、支出の削減。
③実際、貯蓄の総量に変化はない(増えない)。
ただ、前期まで含めると、相対的な(支出高に対する)貯蓄の超過だ、と表現したくなる気持ちもわからなくはない。
しかし、既に示した通り、これを貯蓄と呼ぶのは定義的に誤りである。
また、既述の通り、一般に不況で(投融資減少のために)貯蓄が減り、好況で(投融資増加のために)貯蓄が増えるという経済事実との整合性が取れない。
Q:「日本の信用創造・間接金融の破壊、それによる不況は、地価への増税とBIS規制(自己資本比率規制)によって齎されたのではないのか」
A:
結論から言うと、見当違いな診断であろう。
まずBIS規制(自己資本比率規制)についてだが、BIS規制が問題になるのは、財政赤字による安全資産・銀行資本の供給が不足する場合である。信用創造の抑制に働くとしたら、それはBIS規制だけでなく、財政赤字不足との合わせ技によるものであって、BIS規制単体を批判するのはお門違いということになる。
むしろ、自己資本比率規制自体は、金融不安定性を低減し、長期的な総需要安定や経済成長に資するものだ。(詳しくは『ビル・ミッチェル「銀行融資は―準備預金ではなく―自己資本によって制約されている」』を一読いただきたい)
それが問題となるのは、政府による財政赤字供給の不足がある場合であり、批判すべきはむしろ財政スタンス(財政赤字過少)である。
批判するべき対象を履き違えているわけだ。
次は地価について。
土地が担保資産として信用創造に資することはその通りであり、土地課税自体が地価に低下圧力を掛けるのもその通りではあるが、地価に影響を与える要素として同等、あるいはそれ以上に重要なのは、名目所得である。
仮に地価増税が回避されたとしても、それ以外の増税や支出削減が生じ、名目所得が同様に抑制されれば、地価もまた同様に低下圧力を受け、信用創造も毀損されたであろう。ここでもまた、問題は地価増税それ自体ではなく、財政支出の過少であるということがわかる。
地価についても、批判するべき対象の履き違えが発生しているのである。
追伸:
これまでの貨幣論、MMT論は以下リンクにまとまっているので通読を推奨したい。
『これまでの貨幣論まとめ』
『CT(貨幣循環理論)からMMT(現代金融理論)へ』
『貨幣の起源と本質を訪ねて…商品貨幣論・金属主義的史観からの脱却』
『貨幣はいかなる意味で負債なのか そもそも負債とは何なのか』
また、貨幣論を平易にまとめたものとして、noteの貨幣論マガジンも推奨する。
『貨幣論まとめ』
noteにて、「経済学・経済論」執筆中!
また、「望月夜の経済学・経済論 第一巻」、「望月夜の経済学・経済論 第二巻」も発売中!
その他、
「貨幣論まとめ」
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「財政論まとめ」
などなど……
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投稿先はこちら
このコラムは、『資源遊休→陳腐化、大きな政府、誰かの黒字は誰かの赤字、信用創造の実像、貨幣の起源などに関する問答』の続きにあたる。
引き続き、togetterまとめ:『資源遊休→陳腐化、「大きな政府」の成功、「誰かの黒字は誰かの赤字」、信用創造の実像、貨幣の起源など...』での議論を、Q&A方式で整理していくとしよう。
Q:「貯蓄というのは、自分が生産した価値を全て消費することなく、将来の別の生産に向けて価値を残しておくことではないのか?」
A:
拙note『一般的貯蓄と経済学的貯蓄の意味の違い』、並びに拙記事『貯蓄の意味を整理する -実物貯蓄と金融貯蓄―』がこの論点に詳しい。
端的に纏めると、経済全体で見れば、貯蓄とは生産された財のうち、消費されなかったものである(そして、それは在庫であれ設備であれ、投資と一致する)のであるが、個々の主体では、互いの貸借によって貯蓄が発生するし、そこでは経済学的な意味での貯蓄(消費されなかった財)の積み上げはないことに注意しなくてはならない。
また、財による貯蓄にせよ、貸借を通じた貯蓄にせよ、いずれも投資・融資によって発生するのであって、決して貯蓄→投資・融資という一方的関係ではなく、投資・融資→貯蓄という制約関係を持つ、いわば共制約的な関係にあるのだ。
(また、追加で「負債形成を伴わない貯蓄形成もあるのでは」という質問もあったが、引用したnoteや記事でも示した通り、基本的に生産投資(在庫投資含む)でも応分の負債形成はある。生産が借入→投資等支出→生産→販売→返済という貨幣性サイクル(信用サイクル)を持つからである。)
Q:「税金は政府支出の「財源」ではないのか?」
A:
結論から言うと違う。
税金は、政府発行通貨を駆動し流通させるための措置であり、財源ではない。(Tax-driven money)
現代の通貨制度においては、政府はいついかなるときも、通貨発行を通じて財政支出を行っている。
ここらへんの話の参考リンクは以下の通り。
『ウオーレン・モズラー「命取りに無邪気な嘘 1/7」』
『ビル・ミッチェル「納税は資金供給ではない」』
”MMP BLOG #8: TAXES DRIVE MONEY”
Q:「政府は価値を創出できず、したがって信用創造は出来ないのでは? 政府は通貨のユーザーではないのか?」
A:
まず、政府が価値を創出できないというのが誤り。公共投資等、政府による(価値)生産は普通に行われている。
また、(価値)生産が伴わなければ信用創造が出来ない、というわけでもない。例えば再分配支出を行って発行された通貨も、政府に対する納税能を持ち、納税によって税負債を償却できる(=納税義務を履行できる)のだとすれば、それは信用物の発行、信用創造である。
政府が通貨のユーザーだと見做す誤解は世間で広く根深いが、以下リンクで解説されているように、政府は中央銀行と協同で統合政府として通貨発行を行う通貨のイシュアー(発行者)である。
『ビル・ミッチェル「赤字財政支出101」シリーズ』
『本当のMMTのエッセンス(?): R.レイのMMT入門 第三章第六節』
Q:「政府は国債を発行して資金調達しているのであって、通貨の発行者ではないのでは?」
A:
国債は、中央銀行による短期金利操作の為、財務省から提供されている「金融調節用ツール」に過ぎず、資金調達手段ではない。
このことについては以下リンクが詳しい。
『ビル・ミッチェル「赤字財政支出 101 – Part 3」』
『ビル・ミッチェル「準備預金の積み上げはインフレ促進的ではない」』
『R.レイのMMT入門 第三章第七節 財務省の債務オペレーション』
Q:「金兌換紙幣の金にあたる部分が、信用貨幣の場合は(政府の税ではなく)民間の債務者の労働なのではないか?」
A:
まず、最初に兌換紙幣ですら、厳密な意味では信用貨幣の一種である。
兌換紙幣の流動性の源泉が(当時国際決済通貨であった)金との交換性"のみ"であったとすれば、そもそも金を手放して兌換紙幣を得るという取引自体が成立しないし、金準備が100%でなくなった時点で兌換紙幣は流通しなくなる。
しかし実際には、兌換紙幣は一定の金準備率の元で、金準備以上に発行され、問題なく流通していた。
それが何故可能だったかというと、兌換紙幣が(紙幣発行体である)政府の納税手段として指定されていたからで、要するに骨格の部分では、現代の不換紙幣と変わらない流通構造があったのである。
金準備と兌換紙幣の関係は、現在の準備預金と商業銀行貨幣(商業銀行預金)の関係に似ている。
兌換紙幣は「支出による発行→租税による回収」というサイクルがある上で、金とも紐付けされていた。
商業銀行貨幣も「融資による発行→返済による回収」というサイクルの上で、準備預金と紐付けされている。
(注:現代経済では、通貨と商業銀行貨幣の二種類の貨幣が流通するようになっている。これら二種類の貨幣の流通や機能、及び相互関係については、拙note「貨幣論まとめ」で分かりやすくまとめたので是非ご一読願いたい。)
そして、繰り返すように、通貨の流通性の源泉は税であり、税が通貨を駆動する。
当該質問はこうした二重の誤謬を抱えているのである。
以上で問答のまとめを終わる。
大変長く、苦労のあるやり取りであったが、現代金融財政システムを浮き彫りにするという意味で良い問答でもあったのではないだろうか。
また、「望月夜の経済学・経済論 第一巻」、「望月夜の経済学・経済論 第二巻」も発売中!
その他、
「貨幣論まとめ」
「不況論まとめ」
「財政論まとめ」
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引き続き、togetterまとめ:『資源遊休→陳腐化、「大きな政府」の成功、「誰かの黒字は誰かの赤字」、信用創造の実像、貨幣の起源など...』での議論を、Q&A方式で整理していくとしよう。
Q:「貯蓄というのは、自分が生産した価値を全て消費することなく、将来の別の生産に向けて価値を残しておくことではないのか?」
A:
拙note『一般的貯蓄と経済学的貯蓄の意味の違い』、並びに拙記事『貯蓄の意味を整理する -実物貯蓄と金融貯蓄―』がこの論点に詳しい。
端的に纏めると、経済全体で見れば、貯蓄とは生産された財のうち、消費されなかったものである(そして、それは在庫であれ設備であれ、投資と一致する)のであるが、個々の主体では、互いの貸借によって貯蓄が発生するし、そこでは経済学的な意味での貯蓄(消費されなかった財)の積み上げはないことに注意しなくてはならない。
また、財による貯蓄にせよ、貸借を通じた貯蓄にせよ、いずれも投資・融資によって発生するのであって、決して貯蓄→投資・融資という一方的関係ではなく、投資・融資→貯蓄という制約関係を持つ、いわば共制約的な関係にあるのだ。
(また、追加で「負債形成を伴わない貯蓄形成もあるのでは」という質問もあったが、引用したnoteや記事でも示した通り、基本的に生産投資(在庫投資含む)でも応分の負債形成はある。生産が借入→投資等支出→生産→販売→返済という貨幣性サイクル(信用サイクル)を持つからである。)
Q:「税金は政府支出の「財源」ではないのか?」
A:
結論から言うと違う。
税金は、政府発行通貨を駆動し流通させるための措置であり、財源ではない。(Tax-driven money)
現代の通貨制度においては、政府はいついかなるときも、通貨発行を通じて財政支出を行っている。
ここらへんの話の参考リンクは以下の通り。
『ウオーレン・モズラー「命取りに無邪気な嘘 1/7」』
『ビル・ミッチェル「納税は資金供給ではない」』
”MMP BLOG #8: TAXES DRIVE MONEY”
Q:「政府は価値を創出できず、したがって信用創造は出来ないのでは? 政府は通貨のユーザーではないのか?」
A:
まず、政府が価値を創出できないというのが誤り。公共投資等、政府による(価値)生産は普通に行われている。
また、(価値)生産が伴わなければ信用創造が出来ない、というわけでもない。例えば再分配支出を行って発行された通貨も、政府に対する納税能を持ち、納税によって税負債を償却できる(=納税義務を履行できる)のだとすれば、それは信用物の発行、信用創造である。
政府が通貨のユーザーだと見做す誤解は世間で広く根深いが、以下リンクで解説されているように、政府は中央銀行と協同で統合政府として通貨発行を行う通貨のイシュアー(発行者)である。
『ビル・ミッチェル「赤字財政支出101」シリーズ』
『本当のMMTのエッセンス(?): R.レイのMMT入門 第三章第六節』
Q:「政府は国債を発行して資金調達しているのであって、通貨の発行者ではないのでは?」
A:
国債は、中央銀行による短期金利操作の為、財務省から提供されている「金融調節用ツール」に過ぎず、資金調達手段ではない。
このことについては以下リンクが詳しい。
『ビル・ミッチェル「赤字財政支出 101 – Part 3」』
『ビル・ミッチェル「準備預金の積み上げはインフレ促進的ではない」』
『R.レイのMMT入門 第三章第七節 財務省の債務オペレーション』
Q:「金兌換紙幣の金にあたる部分が、信用貨幣の場合は(政府の税ではなく)民間の債務者の労働なのではないか?」
A:
まず、最初に兌換紙幣ですら、厳密な意味では信用貨幣の一種である。
兌換紙幣の流動性の源泉が(当時国際決済通貨であった)金との交換性"のみ"であったとすれば、そもそも金を手放して兌換紙幣を得るという取引自体が成立しないし、金準備が100%でなくなった時点で兌換紙幣は流通しなくなる。
しかし実際には、兌換紙幣は一定の金準備率の元で、金準備以上に発行され、問題なく流通していた。
それが何故可能だったかというと、兌換紙幣が(紙幣発行体である)政府の納税手段として指定されていたからで、要するに骨格の部分では、現代の不換紙幣と変わらない流通構造があったのである。
金準備と兌換紙幣の関係は、現在の準備預金と商業銀行貨幣(商業銀行預金)の関係に似ている。
兌換紙幣は「支出による発行→租税による回収」というサイクルがある上で、金とも紐付けされていた。
商業銀行貨幣も「融資による発行→返済による回収」というサイクルの上で、準備預金と紐付けされている。
(注:現代経済では、通貨と商業銀行貨幣の二種類の貨幣が流通するようになっている。これら二種類の貨幣の流通や機能、及び相互関係については、拙note「貨幣論まとめ」で分かりやすくまとめたので是非ご一読願いたい。)
そして、繰り返すように、通貨の流通性の源泉は税であり、税が通貨を駆動する。
当該質問はこうした二重の誤謬を抱えているのである。
以上で問答のまとめを終わる。
大変長く、苦労のあるやり取りであったが、現代金融財政システムを浮き彫りにするという意味で良い問答でもあったのではないだろうか。