貨幣外生説の罠 / 「バブルは政府・中央銀行が起こす」という思想のおかしさ (寄稿コラム) | 批判的頭脳

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「雇用増加の下でも賃金が停滞する理由」

「なぜ異次元緩和は失敗に終わったのか」

「「お金」「通貨」はどこからやってくるのか?」

「なぜ日本は財政破綻しないのか?」などなど……



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経済モデルにおける貨幣外生説の罠

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貨幣内生説(内生的貨幣供給論)については、当コラムではこれまでの貨幣論まとめで説明してきたし、最近は「お金」「通貨」はどこからやってくるのか?や、「お金」「通貨」の実態・正体においても、(有料記事ながら)平易に概説している。

現実の通貨システムが内生的貨幣によって成り立っているため、貨幣外生説に則って作成された経済理論や経済モデルは、必然的に現実の経済から乖離する傾向を持つことになる。

私はこのことを、タイトル通り「貨幣外生説の罠」と呼ぶことにしている。

例えば、貨幣外生説を前提にした経済モデルでは、財政支出はマネーサプライに対して中立になっていることになる。

しかし、財政赤字は必然的にマネーサプライを増やしてしまうから、上記前提は「財政赤字に相当するだけの増税あるいは税収増がある」か、あるいは「財政赤字でMSが増えた分だけ、金融引き締めで民間借入を減らしている」かのどちらかを仮定していることになる。

もし貨幣外生説的経済モデルで財政政策を論じる場合は、このことに重々注意する必要が出てくるわけだ。もし注意を怠れば、そのモデルから得られるインプリケーションは、現実から大いに乖離することになってしまう。

ただし、政府借入支出や民間借入支出がMSを増やすということを織り込んだモデリングは、複雑で難しくなるかもしれない。これに配慮して、貨幣外生説的構造を『便宜的に』導入することもモデリングとして合理的なのかもしれない。しかし、そのときは必ず「現実とは違う便宜的構造」を導入していることに対する”注意”や”謙虚さ”を忘れてはならないはずである。

こうした「貨幣外生説の罠」に対して、回避の可能性を持つモデリングとしてはIS-MPモデルがある。

従来のIS-LMモデルのLM曲線では、「中央銀行がMSをターゲティングする」ことが織り込まれていた。しかしIS-MPモデルのMP曲線では、「テイラールールに基づいて中央銀行が金利をターゲティングする」という基本構造を持っている。

MP曲線では、事実上マネーサプライは捨象され、中央銀行(金融政策)の決定範囲は金利操作に限定されている。これは現実の通貨システムに(結果的に)適合的となっているのである。(実際、中央銀行がコントロールしているのは事実上リスクフリーレートだけだからだ)

中央銀行の金融調節アプローチを「金利調節」に還元して扱うケインジアン的アプローチは、上記のような枠組みを通じて、貨幣外生説の罠を回避し得る構造を持つというわけだ。

逆に、マーケット・マネタリズムのように「金利調節は金融調節の手段ではない」と主張する一派や、「中央銀行は将来のマネーサプライを決定できるし、それによってインフレ期待も決定できる」という考えを導入してしまった人たちは、途端に「貨幣外生説の罠」に嵌ってしまい、彼らのモデルからもたらされるインプリケーションは、現実経済には何の役にも立たない代物となってしまうのである。



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「バブルは政府・中央銀行が起こす」という思想のおかしさ

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オーストリア学派と呼ばれる学派がある。
いわゆる新しい古典派とはやや違う系統の自由主義経済学派で、ハイエクを始祖?とする。

その思想のエッセンスは、以下を見るとわかりやすいかもしれない。

「Keynesian vs. Austrian economics」


その考えの一つとして、「バブルは政府・中央銀行が起こす」という思想がある。

直観的には荒唐無稽な思想であり、実際そうなのだが、どういうロジックなのかを概説しよう。

オーストリア学派に言わせれば、バブルとは好景気に対する低金利維持(及び政府支出追加)によって起きるものだとされる。

"市場に任せて"高金利へと向かわせれば経済は"均衡"するのに、中央銀行による攪乱が経済安定を揺るがしている、と考えるわけだ。

また、中央銀行による救済という構造は、金融のモラルハザードを導いており、それにより却ってバブルを起こしやすくしている、という方向の説明もある。(こちらは少し妥当性がある)


……こうした考えの何がおかしいか?
彼らの思想に従えば、政府・中央銀行の介入が少ないほど安定した経済で、介入が大きくなるほど不安定になるはずだ。
しかし、実際はまるで逆だ。経済がブームとバーストを繰り返した時期の政府規模は、現代よりも極めて小さかった。

中央銀行という組織が今のような包括的な通貨管理の体制を構築する前から、すでに経済はバブルとその崩壊に悩まされてきた。そもそも、アメリカで民間主導で中央銀行制度が志向されてきたのは、言うまでもなく金融危機の対策としてである。

政府・中央銀行がバブルを起こすという思想は、こうした『歴史的事実』を無視する形でしか維持できない。


中央銀行の救済がモラルハザードに繋がるという発想には一理ある。しかし、危機が先で、救済必要性が後なのであり、これを無視して中央銀行による救済それ自体を排除する、というのは、歴史に逆行する判断である。(少なくとも、Fed成立に尽力した人々が墓の中で嘲笑っているであろう)

したがって、中央銀行の救済には(金融機関に対する)それなりのペナルティを用意しておく必要がある、というのが、『ロンバード街』でウォルター・バジョットが示した考えではなかったか。

また、政府(財政)の"小ささ"、財政赤字の"小ささ"こそが、却ってバブルを促してしまう、という考えの方が、歴史的事実に符合する。このことは強調してもし足りない。

このことに関しては以下を参考にしていただきたい。

低成長経済における金融財政政策のトリレンマ (及び 成長批判のトリレンマ再訪

MMT集中講義②Stock-Flow consistent model、『危機の思想』

「誰かの黒字は誰かの赤字の原則」→「財政"黒字"の危険性」


何にせよ、バブルの発生要因を(貨幣を前提とした)経済それ自体の構造に求めるのではなく、政府や中央銀行といった一部の機構に擦り付けるような思想は、経済を却って不安定化させる危険な思想である、ということは重々知られるべきである。

そもそも、オーストリア学派は、(リフレ派含む)経済学界隈と同様、「中央銀行が通貨を完全にコントロールしている」という誤った前提を持って議論を行っている。

しかし、貨幣論まとめや、「お金」「通貨」はどこからやってくるのかなどで論じたように、通貨とは、市場(主に民間)において、信用創造という形で新規発生してくるものであり、中央銀行はそれを常にコントロールできるわけではない。(特に不況、長期停滞においてはほとんど操作不能となる)

バブル発生も、民間の債務増大が流動性(通貨)の拡大を同時に齎すことによって基礎づけられるのであり、バブル崩壊も、民間の債務の収縮が流動性を枯渇させることで不況をもたらすのである。

ところが、オーストリア学派(あるいはその稚拙なシンパ)は、こうした通貨の運動を本質的なところで理解できておらず、「通貨は中央銀行が支配している」という誤った前提から、「バブルは中央銀行が起こす」という誤った結論を導いてしまっているのである。

誤った前提から誤った結論を導くという構図では、主流派経済学も、リフレ派も、オーストリア学派も、極めて似通ったところがあるといえる。



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