MMTと主流派経済学の違いは「掛け算の順序問題」に近似できるか? | 批判的頭脳

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『MMTの議論などを見てて、世の中にはモデルをモデルのまま、数学を数学のまま受け入れられる人とそうでない人がいて、それが小学校における掛け算の順序問題に繋がっているのではないかと思った。「主流派経済学者は8×6と言っているが、これは非現実的で、実際は6×8である」みたいな批判が多い。』

『主流派経済学者はなんだかんだで数学に強い人達なので、解が変わらなければ8×6でも6×8でもどっちでもいいじゃんと考えがちなのだが、式の意味について現実的・具体的なイメージが湧かないと先に進めない人はそうした順序が気になってしまい拒否反応を起こしてしまうのではないだろうか。』


これはある経済学者によるMMTへのコメントなのだが、このコメントは事実誤認、欺瞞etcのもとに成り立っているものだ。

私自身、修正ニューケインジアンとModern Monetary Theoryの統合、というより”悪魔合体”を目論んでいる身なので、MMTを単独で神格視するつもりは毛頭ないが、それでも上記のような批判は極めて不適切だと断じざるを得ない。

「主流派の枠組みが現実から乖離していても、同じ結果が得られれば問題ない」という趣旨なのだろうが、現実には提案内容や分析内容は著しく異なっているように見えるからである。

第一、モデリングと掛け算順序の話は本質的に違う話な気がしてならない。
モデリングは、それなりのメカニズム想定があって組まれるわけで、単純な算術(の順序)とは次元の異なるもののはずだ。

もちろん、分析の簡易化のためにモデリングを『工夫』することもあり得るが、それが分析を歪める危険性については謙虚でなければならないはずではないか。

例えば『少なくない経済学者たちが、総需要危機に際して中央銀行に一斉に視点を集中してしまった』という失敗の大きな原因は、「中央銀行がマネーをコントロールしている」という主流派経済学の誤った前提が、経済学者たちに広まっていたからだ、というところも見逃せないはずだ。

他にも、「中央銀行の恒久的買いオペ」(いわゆるヘリコプターマネーの一部分)という大した追加的意味のない政策が注目を集めてしまうのは、国債の性質(金融調節手段に過ぎない)と準備預金の役割への正常な理解が出来ない主流派の枠組みが原因ではないだろうか。

あと、「国債残高が個人金融資産残高を上回ったら破綻」という噴飯ものの論説を噛ましていた経済学者たちも実在していた。(いまもそう主張しているだろう)
しかも、こうした呆れた暴論に、財政学者でさえも便乗していた。こういうのも、主流派経済学全般における現実の金融財政システムへの無理解が原因だと言って良いはずである。

そういえば、齊藤誠なども「貨幣は純資産なのかどうか…」などという無意味な議論に頭を悩ませていた。
MMTから言えば、「貨幣に限らず、いかなる金融資産も、マクロでは純資産にならないということが明らかだ(Stock-Flow Consistent)」という具合に、瞬く間に蹴りのつく話なのである。(詳しいところは、これまでの貨幣論まとめをどうぞ)

また、貨幣外生説の罠でも解説したことになるが、貨幣を外生的に扱うことそれ自体、マクロ経済学内部で、モデリングを歪めたり、誤った立論を助長したりしている。
例えば皆必死こいて「マネーサプライの追加がなぜ効かないか」のモデリングをしているが、そもそもMSは増えてないわけで、そのことがわかっていないから「貨幣の限界効用が0にならないモデル」のようなものを作ったり、有り難がったりする羽目に陥っているのである。(ただ、引用記事でも述べたように、金融政策影響を完全に金利に還元するようなオールドなタイプのケインジアン的作法は、そうした罠を回避しており、ある意味見事ではある)

したがって、金融政策を金利に還元するのを回避するような思索を始めると、途端に立論が斜めに逸れていってしまう。典型的なのはマーケット・マネタリズムで、「通貨量をコントロールできるのに中央銀行が通貨価値=物価に影響を与えないわけがない」と考えるわけだが、そもそも中央銀行がMSにアクセスできないという現実に向き合えていないわけで、立論が初っ端から躓いてしまっているのだ。
この点に関しては、中央銀行が将来のマネーサプライを設定してインフレ誘導できると考えていた初期クルーグマンetcも同罪である。

上記のように、主流派マクロ経済学の貨幣観(金融観)パラダイムは、ここまで多岐にわたる数多くの誤謬・失敗を生み出し続けてきたわけで、そうであるなら、「貨幣外生説滅ぶべし、慈悲は無い」と喧伝することの価値は、極めて大きいと言わざるを得ないはずである。

(以上)