圓礼を刷って外資様に献上せよ28.10.31
  自国を植民地として、他国にダンピングするとは、換言すれば「自国から搾取して他国に貢ぐ」という事である。もっと短縮すれば「売国」に他ならない。
何故、斯くも愚かしい政策に走るのか。
一つには白人様から「褒められたい」があろう。
  欧米人様からオツムを撫で撫でされて有頂天になりたい、がある。
  亜細亜に於ける、此の愚かしい政策は短期に於いても長期於いても欧米社会に利益となる。
  ① 長期に於いて当該国の産業を衰弱させる。
② 結果的に当該国の富を欧米に移転することになる。


  上記をドグマとすると、亜屁政権はドグマに対し徹底して忠実であることで見事なほど一貫している。
  唖屁政権は発足と同時に世界中に円通安政策に邁進すると触れ回ったが、これは取りも直さず白人投資家に対し「日本の安売り」を開始するとのメッセージであった。
「通貨バーゲンをおっ始めますから、外国投資家の皆さん大いに儲けて下さい。」
  世界中に触れ回った。
  自信満々と言うか馬鹿丸出しと言うか、国際通貨マフィアの大事なメンバーとか煽てられて有頂天だった。一端(イッパシ)の金融家気取りであった。成程、東大の経済博士たるを売りにしておられるようだが、金融政策や通貨政策には門外漢に近いのが真相の様である。前任の白川総裁と比べると中央銀行代表としてはアマチュアに近いのではないのか。
近いからこそ白人様からのお墨付きを必要とした。だから白人様の利益になるように白人様から言われるとおりに諾々としてエージェントとして動いた。
実際、円通貨の価値は4割以上毀損された。その分、もろに基軸通貨に反映されドルの価値は高騰した。倍近く価値を上げた。
世界中の投資家が苦魯堕・唖屁の黄金コンビを称賛したのは言うまでもない。名総裁・大宰相此処に在り。
私が外国投資家だったら同じように黄金コンビのヨイショ・プレイに参加したろう。
日本が丸ごとバーゲンされているのだ。それまで手の出なかった日本の株式も企業も技術も、正に叩き売り状態と化したのだ。

外国投資家とすれば、1ドルで70円分しか買えなかった日本の資産が1ドルで140円分買えることとなったのである。何も努力しなくとも洟垂らした阿保でも倍買えるのだ。即ちオール半額バーゲンである。
それまで配当が少なかった日本株式も半額となれば話は別だ。青い目にも俄かに魅力的に映る。マンションでも株式でも金地金でも「半額」になれば、全く違った資産に見える。半額それ自体が、倍以上の価値を持って輝いて見える。ジパングで宝物が見付ったのだ。
  安倍政権の政策が世界中の支持を得たのは言うまでもない(流石にドイツは首を傾げたようだが)。アベ・クロダは外国資本にとって殊勲甲の働きを見せた。ユダヤエージェントとして第一級の功績である。

  その為の圓礼もご用意すべく中央銀行は刷って刷って刷り捲った。

此処で我々愚民は始めてアベノミクスとやらの真相に至るのである。
「マネーサプライを拡大させるためにマネタリーベースを増やした」
は、実は目晦ましのプロパガンダであった。
「マネタリーベースを増やせば、貨幣乗数が掛合わされることでマネーサプライが倍増し、経済が拡大する」
  は単なる煙幕であった。賢いアメリカユダヤ様のことだ。日本の原住民の前で真相は巧妙に秘匿されていた。

  土台、貨幣乗数なるものからして、結果のマネーサプライから逆算して出した根拠無きイカサマの数字である。競馬のオッズに較べたら、遥かにいい加減で出鱈目な数値だ。
それが証佐に算出根拠を証明した者は未だ嘗て居ない。結果で出た統計数字で割るだけなら小学生でも馬鹿にするお遊びだろう。国のお金が「全体」で2回転するだの3回転半するだのの珍説に至っては御伽噺にもならない。妄想ゴッコにしても出来が悪過ぎる。

マネタリーベースに関する次なる御伽噺は極付きの域にある。既に誰も信じてはいないのだ。餘りに幼稚過ぎて、底が割れているのである。
「中央銀行が紙幣を輪転機が壊れるまで刷って、市中銀行に無理矢理預ければ、自ずと経済は拡大する。」
世紀の大嘘である。

 


 

寡占により市場を支配せよ28.10.30
  しかし既述の通り、合併による寡占化は、我々需要側・消費者側にとって百害あって一利無しである。一つも良い事は無い。
寡占化は市場原理を歪めるばかりか、遂には縊殺に至らしめる。
供給側は市場競争に晒されないために、① 価格の支配 ② 生産量の統制  を可能とする。「製品やサービスを、より廉価にして、より十分な量」を供給するという、市場原理のイロハが通用しなくなるのである。何故なら企業は利潤最大化を目的に存在しているから。道徳的な良し悪しとは無関係に、自己利益のために世界は在る。他社との競争があるから「価格を下げ」るのであり、他事業者が進出するから「供給を減らせない」のである。
  当たり前の話だが、市場への自由参加と、市場での自由競争こそが、需要側・消費者側の利益と生活を守ることを忘れてはならない。

  何故、官僚は合併による寡占化と、中小・零細企業潰しに熱中するのだろうか。
云ふまでも無く業界を牛耳りたいからだ。牛耳って「遣っている」という権力欲・支配欲を満たしたいからである。
コマイ会社が何十万、何百万あろうと、そ奴等はお役人様を振り向うともしない。鬱しいといった視線を投げる。処が巨大企業数社に絞れば、彼らは何をするにも役所の規制や制限を気にせざるを得なくなる。役所との「濃密」な関係を結ばざるを得なくなる。有象無象の輩を「整理」し、「品行方正」「由緒正しき」大企業とだけ、お友達付き合いすれば足りる。
  完全競争と自由市場は官僚を不要にする。「完全競争」・「自由市場」と「官僚」とは不倶戴天の間柄である。

  確かに現実的な横滑り先・天下り先を必要としていたことも事実だろう。お役人様個人の視点に立てば横滑りだろうが天下りだろうが、咎められるべきことではないのは無論だ。人間は自我機能を優先させたからこそ生物として存続して来たともいえる。お役人様が個人としての生存を最優先させるのは個人としては全く正しい。
此処で気付くが、官僚は労働市場に於いても自己が「完全競争」・「自由市場」の原理に服すことを拒否している。勿論、愚民共が市場原理に服すのは勝手だ。だが国家社会主義者たるお役人様は別格だ。愚民共は平等に国家に疎外され他存在であり、官僚は国家機構を私的占有した存在である。

  それはさて置き、寡占化は供給側にとっても決して有益ではないのを知るべきだ。
短期には企業としての利益最大化に急速に近づくが、長期には業界そのものを衰退に導き、逃れ難く命運を伴にする。韓国を見れば斯く断ぜざるを得ない。船舶、自動車、鉄鋼、精密電子機器、白物家電・・・等。道連れの地獄旅。
一時的には価格支配、供給独占を達成して、国内を植民地として莫大な利益を上げる。しかし長期には企業が互いに切磋琢磨する機会を喪失する。企業は研究開発日を惜しみ研究開発を怠り、競争による成長を放棄する。軈て業界そのものが衰弱死する。
日経新聞を始とする日本のマスゴミも、「韓国に倣え」とばかり頻りに煽った。「驚異の韓国経済」「韓国は一業種一独占企業体制で世界企業化した」「IT先進国韓国を見倣え」
ウマウマ口車に乘ったのは一部のトンデモIT企業だけだったようで、せめてもの幸いであった。
  日経新聞は言い訳するだろう。「それは10年も15年も前の話だ。既に時効だと」
だが記事を真に受けた何処かの国の政権与党が10年も経ってから模倣することになろうとは夢想出来なかったろう。

 

 

 

価格を支配し、量を統制せよ28.10.29
安酒を呷り乍ら、ふと思い付いたのだが、間接税が高くなるほど「寡占化」が起こるのではなかろうか。酒税のことである。私も頭が悪いなりに仮説を立ててみたい。
  ビールが例として分り易くなかろうか。
  ビールは日本酒に較べると杜氏が必須な訳では無し、製造工程が単純だ。度数が低くなるがド素人が自宅でも作れる。それもあってか所謂地ビールブームが列島を席巻したのだが、紆余曲折があって、結局大手4社の独占は変わっていない。
ビールの値段の半分以上が酒税が占めるが、更に消費税が全体に課税される。実態は二重課税に他ならない。思うに、この高率の間接税とメーカー販売4社の寡占とは、抜き差しならぬ関係があるのではなかろうか。
次々に消えて行った地ビールの閉鎖理由が何れも「思ったように収益が上がらなかった」「維持するだけの収益が出ない」となっているが、正確には「納税が負担だった」、或いは「納税できなかった」からなのではないだろうか。勿論口には出さない。税務署様の爾後の仕打ちを畏れて口を噤む。
  尤もビールの場合は生産量の縛りが辛いとの見方もあろう。一定規模以上でないと役所が認めて呉れないのだが、そうすると初期投資が大きい。設備投資と一定以上の消費量を同時に満たさないと存続出来ない。

  我々素人が考えても分るが収税する側の財務省とすれば、企業が寡占化するほど、手間暇掛らず都合が良い。実は寡占化で恩恵を受けるのは唯一徴税側だけだ。断言できる。

寡占化すれば独占の弊害が如実に出る。需要側には良い事は一つも無いのだ。
例えば価格が供給側に支配される。需要に無関係に利益を最大化する方向で供給量が調整され絞られる。
市場メカニズムが機能せず、新規企業が市場参加することが事実上不可能になる。メーカーの研究開発が等閑になる。等々・・・だが、そんなことは財務省にはどうでも良いのだ。
  多様な供給チャンネルだの、酒文化の多彩な発展だの、地方のチャレンジャーの参加だの。そんなことは寝言に等しい。財務省は斯かる青臭いことには一切無関心だ。効率良く税金が徴収できること、これに勝るもの無し。

  これは経産省(旧通産省)の官僚にも言えよう。合併狂い、合併気違い、合併オタクなのだ。二言目には合併、合併である。凡そ有りと有らゆる産業分野をして、寡占的独占に誘導しようと画策している。
それこそが経産官僚の聖なる使命と信じて疑わない。自動車、瓦斯、鉄鋼、素材、船舶、石油、医療、果ては小売りに至るまで、経産省(旧通産省)は憑依(ツカ)れた様に合併誘導に狂奔して来た。
そして合併指導に従わぬ者は徹底して排除され冷遇された。無視や排除で済んだら御の字である。白地(アカラサマ)な妨害や潰しを覚悟せねばならぬ。

  官僚は「自由な市場参加」だとか、「自由な競争」だとかを心底憎んでいる。何故なら、自由競争は官僚の干渉を許さないからだ。官僚の干渉と相容れない。自由競争や自由な市場参加は、官僚の存在価値を限りなく低減させる。官僚とすれば糞面白くないことこの上ない。何がでんでも潰さねばならない。それは学生が机上の空論、経済学の遊戯として弄(モテアソ)ぶ代物であって、段じて現実に存在してはならない
官僚が生理的に受け付けない観念は、自主独立、独立覇気、自立自尊。不撓不屈、勇猛果敢。自由市場、完全競争。
お役人様の前でウッカリ「自由市場」だの「完全競争」だのと口を滑らせれば、凄まじい形相で睨み付けられる。それは官僚不要と同義だからだ。
  官僚が民間に求めるのは、官僚依存、官僚迎合、御上大事、お上意識、公共事業依存、甘え、癒着、談合、天下り。
どれだけ官僚の顔色を窺い、官僚に迎合したかによって、お役所から見た企業価値は決るのである。世紀の大嘘たる「戦後日本は官僚の統制経済で作った」を後生大事と信奉する会社代表者でないと、役所の有形無形の圧力を甘受せねばなるまい。

 

 

 

 

国家の前の平等 28.10.28
此処に於いて官僚の優越感は、十全な満足を得る。
官僚様は今や御自身の手により「完全な平等」が実現したと考える。
完全な平等を実現するためには、国家の資産は100%国家に帰属されねばならない、官僚は斯く確信する。そして官僚のみが唯一的に管理に当たる。
この時、管理と所有は境界を失う。即ち官僚が国家そのものを「所有」する。
何となれば、所有は他の競合者を全て排除し、占有が独占化したものと見做すことが出来るが、官僚は他に競合者を持たないので、管理することを以て事実上の所有を獲得したものと観察されるからだ。
例えば熱帯の孤島にボートで漂着した人間を考えてみるが良い。彼は単に島全部を独りで占有しているに過ぎないのだが、競合者が存在しないことにより、事実上の所有者となる。島は一年中暖かで、夜も昼も寒くなることが無い。一年中熱帯の果樹が実り、バナナだろうがマンゴーだろうが絶えることなく実る。島では泉が湧き出、100tボートには生活に必要な一切が山のように積んである。この時、以下が成り立つ。

  「独占的管理」≒「排他的占有」≒「所有」

  国家社会主義とは、国家エリートにより国家財産が一見合法を装って私的に簒奪される支配形態と云えよう。その為にも大衆は国家によって「平等」に疎外されねばならぬ。
  国家エリートは自己の支配を正当化するために頻りに「公平」「平等」というスローガンを繰り返す。日本の財務官僚様が「平等な社会負担」「消費税による公平な税負担の実現」だのと、税金を惜しげもなく蕩尽してプロパガンダするのがそれだ。歴史を振り返っても官僚が「公平」「平等」を宣伝し始めると、国家社会主義の時代が押し寄せると準備しておいた方が良い。

  成る程、国民は国家の前で平等に「させられる」。但し等しく無産者、即ち貧乏人としてだ。
此処に於いて日本の官僚が中産階級を目の敵にしていることに気付こう。日本の官僚は中産階級に対し潜在的な憎悪を抱いている。
  官僚がお友達になりたいのは寡占的大企業や超富裕層である。それ以外の99%の国民は全て一律貧困層で良い。官僚より歴然と「下」の無産階級であるべきなのだ。
目障りなのは中産階級なのだが、数を減らして只管弱体化させることになる。一定規模以下になれば政治的にも無力な存在となろう。と官僚様は計算しておられる。中産階級は国家社会主義の危険な批判者になり兼ねない。彼らの口を噤ませる為には、資産を国家が吸い上げて、彼らを下層階級に叩き落す事だ。余程骨惜しみなく努力した者か、図抜けた能力に恵まれた、ごく例外的な者だけが沈みゆく中産階級から抜け出す。富裕層の仲間入りを果たせることが可能となろう。

  我々貧困層も「平等」のレトリックを知っておくべきだろう。通常、お役人様が「平等」とか「公平」とかを声高に唱える時、お役人様御自身は決して、「平等」や「公平」を求めてはおられないと云う真相を、だ。欲しいのは「特権」や「特別」だ。何故なら、「平等」や「公平」は自分以外の者に向けられているからだ。
御自分は棚の上にあげておいて、御自分以外の一般大衆を「平等」、即ち十把一絡げ、一山百円にしろと仰っているのだ。御本人様は、その平等な大衆を棚の下として、その棚の上においでだ。国家機構は、云わば棚の役目をして、強制力を伴って、棚の下と上とを截然と区分けする。                                                               
  官僚様が求めておられるのは、棚の上に乗っかった、この優越感なのである。
 

国政の不正選挙を準備しろ28.10.27
今回の選挙で明らかになったのは、当たり前の話だが、不正選挙の実行には、① 十分な準備期間、② 不正作業に手慣れたスタッフの存在が必要だという事実である。
今回の様に対立候補に締切り6日前に立候補されるようなケースだと、事実上、準備は不可能だ。
指摘されるように与党候補側に余裕と自信が有り過ぎたことも災いしたのかも知れない。何も不正選挙のリスクを冒さなくても,悠々勝てる、と。
唖屁政権はCIA直伝の不正選挙を展開するには、一定の準備期間が必要だという事、油断は禁物である事を肝に銘じたことであろう。 


今回の新潟の県知事選挙によって、国政選挙に於ける不正の存在は更に濃厚になったのではないだろうか。個人的には斯く思ふ。
私の不細工で短い指でどう勘定しても計算が合わないのである。国民の15~18%程度しか支持していない自民党政権が、あれだけの数の議席を取ったということがである。しかも野党の有力議員は勿論、与党の重鎮に至っても、挙(コゾ)って落選の憂き目を見ているのだ。一家言を持った煩型が悉く葬られているのに気付く。偶然と云うには状況証拠が揃い過ぎている。如何に小選挙区制といっても奇怪し過ぎるのである。


新潟知事選にあって公示の時点では安倍総理を始め、二階幹事長も、森民雄候補も、概ね以下の様な先入観を抱いていた筈だ。
新潟県民は「保守的」「狷介」「臆病」「旧套墨守」である。且つ「権威に弱い」「偉い人の言う事は聞く」。更に義理人情に厚く、状況に流され易い。

だから即ちエライ人が「森民夫」氏に投票してくれと頼めば、『断り切れない』筈だ。

  自民党・公明党推薦の森民夫氏は長岡市長に5回当選している。平成21年には全国市長会会長にも就いている。東大出身の建設省のキャリア官僚。
他は有象無象の泡沫だ。放っておいても、森民夫氏の圧勝。
  それ以外の選択肢など思い付く筈もない。
  処が、いざ選挙をしてみると、6万票以上の差を付けて米山隆一氏が当選した。「反原発」ワンフレーズで勝ってしまった。「反原発」が呪言となったかのように、52万8千なにがしを得票してしまった。

  何故か。国政選挙と違って不正選挙が介入しなかったからだ。
  素直に選挙させて、投票結果を正直に集計すれば、実はアッと驚くような事実が存在していることが分る。投票結果から不正工作を排除するだけで、目から鱗の「民意」が浮かび上がって来る筈なのである。

  だから此処1年~5年に渡って行われた国政選挙の投票に付いても、投票結果を調査し、投票用紙の一枚一枚に至るまで精査して見る価値は充分にある、と考える。
  勿論、証拠は紛失・隠匿されていることであろう。だが、保存すべき資料が紛失・隠匿されている事実を明らかにすることが大いに意味あることなのだ。どの投票用紙が、誰が管理していた、何時の時点で、どれ程消されたか、或いは入替られたか、事細かに調査されねばならない。
仮に同一筆跡の投票用紙が数枚見付っただけでも成果在りと考える。

徹底した調査がなされただけでも次の不正選挙は極めて遣り難くなる筈だ。それだけでも効果があると言わねばなるまい。

  現在の野党に役割があるとすれば、過去5年間の投票用紙の保管状態を先ず調査することであろう。

 

不正選挙のエロティズム28.10.26
エロティズムは又、反社会性と深く結び付いている。例えば文学では「背徳とエロティズム」が大昔から普遍的テーマとされており、一大分野となって今に至る。
背徳とは反社会性の事だ。その時代、その社会で、共通して認識される社会性と背馳した考え並びに言動だ。或る時代では女生徒と手を繋ぐことが反社会的とされた。逆に或る時代では武人が陣中に美童や稚児を侍らすことが戦中の嗜みとされた。或る社会では同じ宗族の異性と結婚することはタブーとされ、ある社会では早世した兄弟の未亡人を娶ることが慣習とされる。従妹結婚をタブーとする社会と、タブーとされない社会とで、「社会性」、即ち秩序は大きく異なる。
  現代日本でも浮気や不倫は反社会的であることは変わりないが、余りに通俗化すると最早、文学としての緊張が維持出来なくなる。

社会からの離反と、偶像との一体化とはワンセットなのだ。相反する情動が一体化することで、エロティズムが醸成されるのだ。死と生が同時に押し寄せることでエロティズム誕生の土壌が形成される。
不貞や不倫だけではなく、正常な恋愛にあっても反社会性が不可欠とされる。ロミオとジュリエットにしても、恋愛それ自体は色気づき始めた十代後半同士の有触れたものであって、恋愛そのものに反社会性はない。
当事者が不倶戴天の教皇派と皇帝派の領主に連なる者、という社会的ポジショニングに反社会性の源泉が求められる。血で血を洗う宗教戦争の敵対旗頭の一人息子と一人娘だから、「禁断の恋」と云う「特権」が与えられたのである。普通に見たら、オッチョコチョイで短気な御曹司と、浅慮で気の利かない御令嬢に過ぎないだろう。どんな美男美女かは存じ上げないが、親が大金持ちだからスターになれただけの話だ。
  ティーンエイジャーの何処にでも在る凡俗な色恋が、普遍の文学対象となるためには「部族の掟に逆らった」と云う反社会性が絶対に不可欠なのだ。

下世話な譬えだとヤクザが、親分から下される命令が理不尽である程、感激するようなものであろうか。敵対勢力に殴り込めだの、敵の顔役を仕留めてこいだの、凡そ理不尽極まりない反社会的な命令が下されることで、子分はそこに自己の使命に出会い恍惚となる。反社会である程、自己の「運命」を実感する。自分が生れて来たのは、此の為だったかと納得を得る。自己存在の必然性を確信し、大いなる「自己肯定」に至る。
  キーワードは「個人崇拝」「反社会」「自己肯定」だ。

世人は、何故、将来ある若者が、前科持ちの犯罪常習者の為に、大切な人生を棒に振るのが理解できない。
  だが文脈としては、「個人崇拝」の対象から「反社会」的課題を与えられ、それを実現することで「自己肯定」に至る、になるが正しかろう。すると何等の矛盾も無くなる。
  何故「反社会」的になるのか。「反社会」的な程、偶像と自己とは、特別な世界を共有できるからであろう。よりディープ且つ隠微な一体感に浸かることが出来る。自分とだけの「排他的且つ独占的」な一体感を得ることが出来る。

  同様に、投票用紙を擦り替えろだの、反対派の投票用紙を回収して廃棄しろだのと、指示が反社会的である程、信者は使命感に燃える。反社会的である程、教祖様は信者が使命を担う事をお悦びになる。信者として反社会的な分だけ、教祖様をお助けすることになる。信者であれば拒む理由は何処にもない。寧ろ達成した時の一体感、一体感から導かれる深い自己肯定に惹かれる。

普通に考えれば、選挙に行きたくもないジジ・ババやプータローの類を無理やり投票場に駆り出すことであっても、反社会的な行為である事位は分りそうなものだ。厳密には金品や甘言で釣って投票に誘う事であっても、選挙違反だろう。
処で最近は電話も来ないし新聞の投げ込みもないし訪問もないと思っていたら、疾うに旧手法としてアウフヘーベンされていたようだ。生温(ヌル)い手法として廃棄されていたらしいのだ。不正選挙は技術的に進歩し、より高度に洗練された。

 

 

成太作師に心から仕えよ28.10.25
創○学会特別部隊による不正選挙活動は、献身的で涙ぐましいものがある。現実に都議会議員、都職員、警察、検察、選挙委員、選挙管理委員、等に網の目の様なネットワークが組み込まれており、実に有機的且つ効果的に機能している。彼らが一枚岩となり連携連帯して不正選挙に挺身する姿は、宛ら○会のマスゲームを見る様で、感動ものだ。
実際、役所にも官憲にも、メンバーが浸潤しているのだから大したものだ。常に何処かで目が光っている。迂闊に批判などすれば、知らぬ間に消される。

  彼らには不正選挙の実行部隊となっているという自覚はなかろう。
ただただ成太作(ソンテチャク)先生を喜ばせたいという「純粋」な気持ちがあるだけだ。
  日本語で言うと「至誠」になろうか。
  成太作(ソンテチャク)先生の御心に適う事が、即ち救済となる。至誠天に通ず。「御心=救済」である。御心に適った言動を行えば、そこに救済が約束される。
それどころか特別に命令を賜れば、これに勝る名誉は有るまい。命令を実行して成功に至れば、現世での幸福が約束される。師が現実の富と権力をお授け下さるのだ。

  個人崇拝は何より分り易い。然も太古のアニミズム世界と波長が合う。
  人間は生まれながらに、偉大な人物を崇拝したい。との願望が無意識下に潜在しているのではなかろうか。アニミズムと個人崇拝は深層心理の中で分ち難く結び付いている。
  偉大な人間に帰依したい、強い人間に支配されたい、富と権力を持つ人間に服属したい。との個人崇拝願望は、ある意味生物として自然なものであろう。
唯一神のみと契約しろだの、偶像崇拝するなだとか、現世の執着を断って因果の法則に覚醒せよとか。宗教の教えの方が、断然、不自然ではある。

  個人崇拝が魅力的なのは、崇拝対象者から個別に命令が下されるからではなかろうか。一神教では指示内容はコーランや聖書等に既に細々と記されている。仏教なら先ずは戒律厳守だ(但し日本仏教は異なる。無戒律が特色)。仏典に定められた戒律を厳守することによって悟りや覚醒に至らねばならない。
  この点でも個人崇拝が宗教でないのは明らかだ。宗教から最も遠く離れたものが個人崇拝であろう。

個人崇拝では崇拝対象者から個別に命令が下されるのが魅力の源泉となっている。何故、魅力かと云うと、そこに個人崇拝の持つエロティズムが潜むからだと理解される。ここで言うエロティズムとは、① 偶像と自己が同一化すること、② 並びに同一化により自己肯定・自己実現が達成されること、と定義したい。
偶像は本来、自己とは同一化できない対象であるから偶像なのだが、その偶像と同一化しようとする時、そこにエロティズムが生まれる。
  信者は成太作(ソンテチャク)先生から命令を下されただけで、ゾクゾクとしたエロティズムを覚えて堪らなくなる。体と頭が火照り興奮を覚える。
命令を実行し首尾よく実現・成功すれば、① 成太作(ソンテチャク)師と一体化するのを覚える。② その時、成太作(ソンテチャク)師が絶対で最高である様に、自己も最高の存在となる。深い自己肯定に至る。
信者は深いエロティズムを体験する筈だ。エロティズムに酩酊し、その甘美から離れられなくなる。
  このエロティズムは古代アニミズムに連なるものであろう。アニミズムに伴う、踊り・呪術・儀式等にはエロティズムが濃厚に漂うが、個人崇拝もエロティズムを受け継ぐことで成り立つ。おそらくエロティズムが退色し薫りを放たなくなった時、個人崇拝も萎む。個人崇拝は神通力を失う。

 

 

カルトが日本を救う 28.10.24
創○学会、即ち成太作(ソンテチャク)教、ないし池○教とは、朝鮮朱子学に則った、朝鮮古来の個人崇拝教ではないだろうか。

例えば北朝鮮では何故、金日成、金正日、金正恩と、金王朝支配が続くのか。言うまでもなく文化的社会的素地として個人崇拝を不可欠とする土壌があるからである。人民が個人崇拝を激しく希求し、個人崇拝無しでは現実の社会も、理念としての世界観も支えられないからだ。
この世は万事、需要があって供給がある。需要が無い所に供給も有り得ない。我々は金王朝が北の人民を支配していると思い込んでいるが、それは大いなる誤解というものだ。北朝鮮の人民が朱子学位階序列の頂点の存在として完全無欠の人格の存在を信じずにおれないのだ。万能で強力な統治者による支配を強烈に願望して居るのだ。将軍様は「在らねばならぬ存在」として人民が希求したことより存在する。人民が作り出したものなのだ。押し付けられたのでも何でもない

今や韓国に於いても北の将軍様はアイドルである。将軍様を支えているのは韓国人民であることに気付かねばならない。
世界は韓国にも北朝鮮にも関心はない。ミサイルを放つ時だけ思い出したように振り向く。斯くも南北統一を妨げる要因は存在していない。にも拘らず南北統一しないのは、朝鮮自身が南北統一を頑なに拒否しているからに他ならない。
何故、拒否するか。統一すれば、北朝鮮の朱子学位階序列に韓国が精神的心理的に飲み込まれるより他ないことを自覚しており、それを怖れているからではないだろうか。朱子学位階秩序無くして朝鮮社会は維持し得ない。そして位階序列は最上位者を決定的に不可欠とする。統一すれば南北は朱子学位階イデオロギーの下、最上位者を頂点とする位階序列を再構成せざるを得ないのである。

  同様に日本でも、個人崇拝を熱烈に希求する一団が存在しているという事である。彼らは宗教を求めている訳ではない。欲しいのは現世の利得であり世俗の権力である。
その為に彼らは、民族の伝統である個人崇拝を選んだ。
個人崇拝の対象たる成太作(ソンテチャク)師が、信者に対し信心の程度に応じて、富と力を与えて下さる約束である。約束が実現されれば益々信心に励む。信心の深さと尊崇の高みの対価として、現世利益が実現される。信心と云う名の個人崇拝と現世利益とが手を携え互いに支え合い、相乗効果を生む。正に「信心御利益スパイラル」だ。
  投資乗数などと言う紛い物数値より遥かに現実的で確実な「信心乗数」がそこに在る。

然も日本では便宜上「宗教」と名乗りさえすれば、大手を振って天下御免で原住民信徒から財物を寄進させることが可能なのだ。日本の法律の方から宗教を利用してどうかシコタマ儲けて下さいとカルトにお伺いを立てている有様なのだ。利用しない奴こそ阿保であろう。彼らは日本で金脈を発見した。日本はカルトにとっての黄金の国だった。

結論から云えば世界中で日本だけが法的に、カルトにお墨付きを与えている。そして現に個人崇拝を不可欠とする何十万人単位の人々が実在し、カルトとして法的にも社会的にも認知が与えられている。財務官僚も与野党政治家もヤクザもタレントもマスゴミも検察も警察も、カルト利権に与り、カルトと密接不可分、運命共同体の関係にある。
カルトと雖も社会に組み込まれ、現に法や政治と抜き差しならない複合体を形成している以上、一概に否定はできないのが今の日本の状況と云わねばなるまい。


 

選挙をコントロールせよ28.10.23
何故、新潟知事選で米山隆一氏が勝利したのか。実は最も根本的な理由は「不正選挙を遣る暇がなかった」からではないであろうか。
  泉田氏の辞退も唐突だったし、米山氏の立候補も直前だった。
それで偽造投票用紙も準備できなかった。不正選挙スタッフが揃えられなかった。が真相なのではなかろうか。
或いは地方はカバーしきれないのか。最初からアメリカユダヤ様にはジャップの地方などは視野に入っていなかったのか。確かに国政選挙だけしっかり押さえておけば日本を支配することは可能なのであろう。逆に地方まで手を染めると襤褸が出かねない。合理的判断と云えよう。

  現実的な話として多分、地方だと不正選挙スタッフの絶対数が揃わないのではないのか。
地方はどこも在来仏教が強い。浄土宗、浄土真宗
、禅宗、天台宗、真言宗、融通念仏宗、等々のお寺が林立し、何世代にも渡り檀家を務めている。新潟県だと例えば日蓮宗も昔から根強い。
日蓮宗徒が多いという事は、○価学会への本能的忌避と生理的嫌悪があるという事だ。神聖な法華経が強欲カルトに穢されたことに対し、伝統法な法華宗衆徒には激しい憎悪が潜在している。日蓮大聖人とその教えを財務とか称する金儲けの道具にし、宗教を私物化する姿勢には、檀家信徒は耐え難い怒りを抱えている。
御本尊を私的に発行するなどカルト側は遣りたい放題である。実際、多くの外国ではカルト指定を受けており、麻薬覚醒剤の供給ルートの一端を担う存在として外国当局から厳しくマークされている。

実は私も生まれた時から御太鼓叩いて南無妙法蓮華経を唱えていた口だ。チャンチャンコの上にお襷して、涎でベトベトになった御数珠で綾取りしていた。代々の檀家だし、本家は檀家の惣代を何代にも渡り務める。その私から見ると、○価学会とは端的に成太作(ソンテチャク)教、ないし池○教のことである。何となれば成太作(ソンテチャク)氏の個人崇拝を目的としているからだ。従って法華経とも無縁だし日蓮宗とも無関係と考えている。

  成程、日蓮宗は日蓮上人の強烈なパーソナリティと分かち難く深く結び付いた法華経宗派である。それは私も認める。だから日蓮宗なのだが、日蓮上人の個人崇拝に留まっては誤りと云わねばならないだろう。仏教の普遍の因果律原理に到達する手段として上人様はご自分の人格を差し出された。命さえ差し出されたのだから人格など屁でも無かろう。
陀羅尼品には「寧ろ我が頭の上に上るとも法師を惱すこと事勿れ」とある。釈迦牟尼でさえ、自身より「仏・法・僧(サンガ)」を上に置いた。

   繰り返すが、日蓮上人の個人崇拝に溺れたらそれは既に日蓮宗ではない。誤解があってはいけないが、日蓮上人が生きておられたなら「日蓮宗」という言葉を、たぶん許さなかったであろう。口にしただけで破門だ。「日蓮宗」とは飽くまで、日蓮宗徒以外の人々が日蓮宗徒を指して呼んだ言葉であるからだ。自らは口にしてはならない。
事実、日蓮上人が個人崇拝を訴えたこともないし、在る筈もない。
個人崇拝は、実は宗教とは最も相容れない概念なのである。個人崇拝には宗教の本質的否定がベースにあるからだ。

成太作(ソンテチャク)氏の個人崇拝を目的とする点に於いて創○学会は既に定義上の宗教ではない。個人崇拝を目的とする以上、歴然としてカルトである。
従って、いっそ日蓮宗の看板を利用せず、端的に池○教、ないし成太作(ソンテチャク)教と称すれば、宗教上の問題もなくなろう。
  憖っか、宗教の体裁を取ろうとするから、無用な文化摩擦や、宗教混乱を招くのであって、素直に池○教とか成太作(ソンテチャク)教と称し、宗教でないことを明示すべきであろう。それにより個人崇拝に基づく超法規的利権集団として正確に定義される。それは正にカルトだ。日本では立派に「合法カルト」として居場所を得る。

私は皮肉や詭弁を弄しているのではない。事実として日本ではカルトは合法なのだ。何となればカルトを非合法とする法的根拠が日本にはないから。


 

 

秀逸なる怪文書28.10.22
5つは、森民夫陣営がバラ撒いた怪文書の存在だ。

  どうやら全県に撒かれた様子だ。私の生息地は市街化区域の端っこだった為か、投票日の3日前頃にポストに投函されていた。10日くらい前から動きがあったのではないのか。
  米山隆一氏を誹謗する内容なのだが、怪文書であるから勿論、米山隆一氏の名前も森民夫氏の名前も無い。匿名である。恰も「心ある愛郷の志士」が已むに已まれず出した体裁になっている。
勿論、森民夫氏に問えば、知らないと言うに決まっている。
「跳ねっ返りが勝手なことをした。遺憾である」
「監督不行き届き、反省する」」
精々でこんな所であろう。

B4版の両面印刷チラシ1枚ものである。良質の光沢紙を使ってあり印刷もしっかりしている。万遍無く撒かれた様だから、可成りの枚数になろう。どう見ても数百万円か掛っている。
  シンパが伊達や酔狂で撒いたものではない。第一、内容が内容だ。際どい内容もあって、これだけ立ち入ったことを本人に無断で出せる訳が無い。逆効果とか裏目とかいう事態も、状況次第で充分在り得るからだ。


それで、現に「逆効果」となった。
絵に描いた様な「逆プロパガンダ」になっている。
  このチラシを見て森民夫氏に愛想尽かしした人も多いのではないのか。品性下劣に過ぎて目に余る。怪文書の文章もC級だし、怪文書を出したという行為自体がC級だ。
責めて、もう少し頭のマシな人物に書かせるべきだったのではないのか。だって、一世一代の怪文書なのだから。

  実は私自身は知事選に全く興味が無かった。選挙期間に入った事すら分らなかった。だが、自宅ポストに捩じる様に投げ込まれて居た、この3分の2が緑色のチラシに何気なく目を遣った次の瞬間、カッと来た。結果的に寝てる子を起こしてしまった。
私は森民夫氏も米山隆一氏も全く知らない。にも拘わらずこのチラシを目にした途端、森民夫なる人物に「だけは」投票してはなるまいと、世捨て人の私をして決意に至らしめてしまった。挙句に投票に行かせたのだから、このチラシの効果は大きいと言わねばなるまい。おそらく澎湃として全県下に反森民夫ムーブメントを巻き起こしたのではないのか。

先ず明らかに失敗していると思われるのが、一番大きい字で書いてある
「赤旗を県庁に立てさせてもいいのですか?」
  のキャッチコピーだ。

普通は電通や博報堂のプロの政治プロパガンダチームに作らせるところだろうが、今回は素人が作ったコピーではないのか。
米山隆一氏が公示6日前になって立候補した。予想外に県民の支持を得て森氏と拮抗してきた。
森民夫陣営は慌てて焦りが生れたことは想像に難くない。その焦りが見事な失敗作に結実してしまった。

どうにもフォローの仕様もない「飛躍」がある。飛躍が極端すぎて現実性を離れ、浮き上っている。それが受け手に白けを生じさせてしまっている。
  同時に陳腐でステレオタイプの発想が仄見える。
「共産党とか赤旗とかで脅しておけば、田舎のジジ・ババ連中はビビる筈だ」
餘りに浅墓。餘りに安易。発想がワンパターンで古過ぎる。ゲンナリ。

  たぶん太字のコピー3本は森民夫氏の本音なのであろう。
或る意味、心の叫びだと、せめて受け止めてあげたい。
「共産党・社民党がコントロールする県知事を誕生させてはならない」
「共産党・社民党主導の知事では国から見放されてしまう」
  一面の真理だろう。個人の信念としては全く正しい。
氏がそれを信念としていることは全く結構なことだ。それ自体は問題ない。

だが、怪文書に仕立てたら、それこそすべてが「怪しく」なってしまう。
  氏は自分で自分の信念を裏切っている。
氏には「周囲に嘲笑されても」自分の政治信念を訴える気迫や胆力がないことを、自分で宣伝してしまっている。
  氏に出来るのは周囲の顔色を窺いながら逃げ腰で、且つ匿名で訴えることだけだ。例えば、今般の怪文書を出すことだ。だが、これでは政治家ではない。精々PTAの役員選挙レベルだろう。しかも女性だから愛嬌があって許されるのであって、ムサくて鬱しい大のオヤジがやることではない。


我々は怪文書に記された氏の信念を云々しているのでは一切ない。問題なのは我々県民が怪文書に記されたと同程度の発想をしていると、怪文書で「決め付け」られている事が耐え難いという事である。

  森氏の個人的信念としては全く問題ない。我々が我慢ならないのは、我々が怪しい連中の同類の可能性ある対象者とされて、一方的に怪しい文書を放り込まれた、そのことなのである。
  「そこまで県民を『舐め切って』いるのなら結構です」としか言葉を返しようがない。