成太作師に心から仕えよ28.10.25
創○学会特別部隊による不正選挙活動は、献身的で涙ぐましいものがある。現実に都議会議員、都職員、警察、検察、選挙委員、選挙管理委員、等に網の目の様なネットワークが組み込まれており、実に有機的且つ効果的に機能している。彼らが一枚岩となり連携連帯して不正選挙に挺身する姿は、宛ら○会のマスゲームを見る様で、感動ものだ。
実際、役所にも官憲にも、メンバーが浸潤しているのだから大したものだ。常に何処かで目が光っている。迂闊に批判などすれば、知らぬ間に消される。

  彼らには不正選挙の実行部隊となっているという自覚はなかろう。
ただただ成太作(ソンテチャク)先生を喜ばせたいという「純粋」な気持ちがあるだけだ。
  日本語で言うと「至誠」になろうか。
  成太作(ソンテチャク)先生の御心に適う事が、即ち救済となる。至誠天に通ず。「御心=救済」である。御心に適った言動を行えば、そこに救済が約束される。
それどころか特別に命令を賜れば、これに勝る名誉は有るまい。命令を実行して成功に至れば、現世での幸福が約束される。師が現実の富と権力をお授け下さるのだ。

  個人崇拝は何より分り易い。然も太古のアニミズム世界と波長が合う。
  人間は生まれながらに、偉大な人物を崇拝したい。との願望が無意識下に潜在しているのではなかろうか。アニミズムと個人崇拝は深層心理の中で分ち難く結び付いている。
  偉大な人間に帰依したい、強い人間に支配されたい、富と権力を持つ人間に服属したい。との個人崇拝願望は、ある意味生物として自然なものであろう。
唯一神のみと契約しろだの、偶像崇拝するなだとか、現世の執着を断って因果の法則に覚醒せよとか。宗教の教えの方が、断然、不自然ではある。

  個人崇拝が魅力的なのは、崇拝対象者から個別に命令が下されるからではなかろうか。一神教では指示内容はコーランや聖書等に既に細々と記されている。仏教なら先ずは戒律厳守だ(但し日本仏教は異なる。無戒律が特色)。仏典に定められた戒律を厳守することによって悟りや覚醒に至らねばならない。
  この点でも個人崇拝が宗教でないのは明らかだ。宗教から最も遠く離れたものが個人崇拝であろう。

個人崇拝では崇拝対象者から個別に命令が下されるのが魅力の源泉となっている。何故、魅力かと云うと、そこに個人崇拝の持つエロティズムが潜むからだと理解される。ここで言うエロティズムとは、① 偶像と自己が同一化すること、② 並びに同一化により自己肯定・自己実現が達成されること、と定義したい。
偶像は本来、自己とは同一化できない対象であるから偶像なのだが、その偶像と同一化しようとする時、そこにエロティズムが生まれる。
  信者は成太作(ソンテチャク)先生から命令を下されただけで、ゾクゾクとしたエロティズムを覚えて堪らなくなる。体と頭が火照り興奮を覚える。
命令を実行し首尾よく実現・成功すれば、① 成太作(ソンテチャク)師と一体化するのを覚える。② その時、成太作(ソンテチャク)師が絶対で最高である様に、自己も最高の存在となる。深い自己肯定に至る。
信者は深いエロティズムを体験する筈だ。エロティズムに酩酊し、その甘美から離れられなくなる。
  このエロティズムは古代アニミズムに連なるものであろう。アニミズムに伴う、踊り・呪術・儀式等にはエロティズムが濃厚に漂うが、個人崇拝もエロティズムを受け継ぐことで成り立つ。おそらくエロティズムが退色し薫りを放たなくなった時、個人崇拝も萎む。個人崇拝は神通力を失う。