不正選挙のエロティズム28.10.26
エロティズムは又、反社会性と深く結び付いている。例えば文学では「背徳とエロティズム」が大昔から普遍的テーマとされており、一大分野となって今に至る。
背徳とは反社会性の事だ。その時代、その社会で、共通して認識される社会性と背馳した考え並びに言動だ。或る時代では女生徒と手を繋ぐことが反社会的とされた。逆に或る時代では武人が陣中に美童や稚児を侍らすことが戦中の嗜みとされた。或る社会では同じ宗族の異性と結婚することはタブーとされ、ある社会では早世した兄弟の未亡人を娶ることが慣習とされる。従妹結婚をタブーとする社会と、タブーとされない社会とで、「社会性」、即ち秩序は大きく異なる。
  現代日本でも浮気や不倫は反社会的であることは変わりないが、余りに通俗化すると最早、文学としての緊張が維持出来なくなる。

社会からの離反と、偶像との一体化とはワンセットなのだ。相反する情動が一体化することで、エロティズムが醸成されるのだ。死と生が同時に押し寄せることでエロティズム誕生の土壌が形成される。
不貞や不倫だけではなく、正常な恋愛にあっても反社会性が不可欠とされる。ロミオとジュリエットにしても、恋愛それ自体は色気づき始めた十代後半同士の有触れたものであって、恋愛そのものに反社会性はない。
当事者が不倶戴天の教皇派と皇帝派の領主に連なる者、という社会的ポジショニングに反社会性の源泉が求められる。血で血を洗う宗教戦争の敵対旗頭の一人息子と一人娘だから、「禁断の恋」と云う「特権」が与えられたのである。普通に見たら、オッチョコチョイで短気な御曹司と、浅慮で気の利かない御令嬢に過ぎないだろう。どんな美男美女かは存じ上げないが、親が大金持ちだからスターになれただけの話だ。
  ティーンエイジャーの何処にでも在る凡俗な色恋が、普遍の文学対象となるためには「部族の掟に逆らった」と云う反社会性が絶対に不可欠なのだ。

下世話な譬えだとヤクザが、親分から下される命令が理不尽である程、感激するようなものであろうか。敵対勢力に殴り込めだの、敵の顔役を仕留めてこいだの、凡そ理不尽極まりない反社会的な命令が下されることで、子分はそこに自己の使命に出会い恍惚となる。反社会である程、自己の「運命」を実感する。自分が生れて来たのは、此の為だったかと納得を得る。自己存在の必然性を確信し、大いなる「自己肯定」に至る。
  キーワードは「個人崇拝」「反社会」「自己肯定」だ。

世人は、何故、将来ある若者が、前科持ちの犯罪常習者の為に、大切な人生を棒に振るのが理解できない。
  だが文脈としては、「個人崇拝」の対象から「反社会」的課題を与えられ、それを実現することで「自己肯定」に至る、になるが正しかろう。すると何等の矛盾も無くなる。
  何故「反社会」的になるのか。「反社会」的な程、偶像と自己とは、特別な世界を共有できるからであろう。よりディープ且つ隠微な一体感に浸かることが出来る。自分とだけの「排他的且つ独占的」な一体感を得ることが出来る。

  同様に、投票用紙を擦り替えろだの、反対派の投票用紙を回収して廃棄しろだのと、指示が反社会的である程、信者は使命感に燃える。反社会的である程、教祖様は信者が使命を担う事をお悦びになる。信者として反社会的な分だけ、教祖様をお助けすることになる。信者であれば拒む理由は何処にもない。寧ろ達成した時の一体感、一体感から導かれる深い自己肯定に惹かれる。

普通に考えれば、選挙に行きたくもないジジ・ババやプータローの類を無理やり投票場に駆り出すことであっても、反社会的な行為である事位は分りそうなものだ。厳密には金品や甘言で釣って投票に誘う事であっても、選挙違反だろう。
処で最近は電話も来ないし新聞の投げ込みもないし訪問もないと思っていたら、疾うに旧手法としてアウフヘーベンされていたようだ。生温(ヌル)い手法として廃棄されていたらしいのだ。不正選挙は技術的に進歩し、より高度に洗練された。