日報は県民の導き 28.10.21

4つは、新潟日報の偏向性だ。

  何をトチ狂ったのか、地方紙が県知事に咬み付いた。
咬み付かれた泉田知事は、理不尽振りに往生した。嫌気が差したというか、相手の訳の分からない振舞に辟易したのだろうか。
然も咬み付いた理由がチートも判然としない。公務員に大っぴらに咬み付くとしたら普通は贈収賄疑惑であろう。
検察や警察の広報から仄めかされただけで、新聞社は鬼の頚でも取ったかのように大燥ぎする。取材能力が無いから役所の垂れ流しで簡単に情報操作される。だから逆から見ると、燥いでいる雰囲気も無い事から贈収賄ではない様だ。
では横領か。背任か。だが、どの事実関係を摘示しようとしているのかそれすら不明の様だ。報道だから責て事実関係くらいは、すっきりと提示しても良さそうなものなのにそれもない。
咬み付くことを目的として咬み付いたとしか言えないなら、新聞としては悲惨過ぎる話だ。新聞として生きる前に『自殺』している。歩くより先にコケている。新聞の存在そのものがスキャンダルになっている。世話が無い。

抑々(ソモソモ)日本の地方新聞は「自分では何も考えない」を自明の約束事としていたのではないのか。社説ですら此処30年以上、御自分で書かれたことがない。少しでも頭を使う記事は共同通信社の丸写しである。テニヲハ程度は替えるのかと思ったら正真正銘の丸写しなのだ。呆れ返って二の句が継げない。

私が新潟市に定住したのが昭和63年からだが、新潟市に来た時点で地元でも15分で読み終える新聞として有名だった。無料サービスだといって1週間とか2週間とか事務所に届けて呉れたが、その謂れが理解できた。広告が殆どだ。熟読する記事が無い。15分じゃなくて10分の誤りだろう。
        
恐らく大口の広告主に義理立てしようとして、血気に逸ったものであろうが、下手打てば逆に広告主に切られることになりはしまいか。他人事ながら心配である。

 自分で考えることもない人間が、パトロンに使嗾されて、柄にもなく知事に咬み付いた。咬み付いたばっかりに、営業的に大怪我した、にならねば良いがと願うばかりだ。漫画より漫画的だもん。

  ご自慢の地元ネタとやらを小マメに漁っては、大袈裟に報道する、従来のスタイルが似合っているのではないのか。ただ私は下越地区に居るのだが、上越地区の地元ネタを展開されても分らない。それでも子供の頃は中越地区に居たので少しは中越の見当が付くが、生粋の新潟っ子は中越ネタにも縁があるまい。
多分、情報として現実的に最も価値があるのは死亡欄だろう。市会議員などで早朝に死亡欄だけ目を通す人も居る。死亡欄の閲覧に月4000円払う価値を見出す者は購読を続けるだろう。

  個人的に記者さんも2・3知ってはいるが、印象としては「販売網に胡坐を掻いている」である。凡そ特ダネに記者生命を賭けるなどと言う姿勢とは無縁だ。精々、警察や検察から餌の臭いを嗅がされて、無力な餌に向かって我勝ちに飛び付く位であろう。飛び付かない事には次からネタを恵んで貰えないから、そりゃ事件記者気取りで襲い掛かるでしょうよ。春風駘蕩。
成程、県内に張り巡らされた販売網は大したものだ。ほぼパーフェクトに市場独占している。俺たちは、新潟市を新聞販売網で水も漏らさぬ位に稠密に把握している、と幻想するのも無理からぬ所がある。
その市場独占の解(ホツ)れとなったのが社内エリート記者による「泉田知事への咬み付き」だった、にならねばよいがと、陰ながら念じる次第。

 

 

二階俊博先生が新潟を救う 28.10.20
3つは、二階幹事長が新潟入りしたことだ。

  同日整形外科の待合室でテレビを見ていたオバチャン達がポツリと漏らした。
「何でこんなに人相悪いの」
「時代劇の悪モンにもヨウおらんわ」
人様の容貌を論(アゲツラ)うのは現代社会では原則タブーだ。だが論われても文句の言えない商売がある。俳優と政治家だ。何れも見た目を賞味賞玩される立場にある。観客や有権者に見た目をあれこれ批判されて、始めて存在価値を獲得する御商売なのだ。因果でも何でもない。衆人凝視の中にご自分が晒されることを、御本人が100%承知して、否、寧ろ望んで業界に入って来られたのだ。

  二階俊博幹事長の御面相は確かに新潟では見ないタイプだ。見たことないし、見たくもない面付(ツラツ)きである。
  それに輪を掛けて不快なのが知性と教養が露骨に欠落していることだ。欠落ぶりが尋常ではない。失言集がネットに載っているが失言ではないであろう。本人の主観としては失当でも誤謬でもないと思われる。本人のお頭(ツム)としては精いっぱい背伸びして気取った発言なのである。インテリジェンスが売り物の政治家としては稀有な存在ではないのか。

  政治家の凄味についても氏には誤解があるのではないのか。まず政治家は常人を超える本質的な頭の良さが求められる。更に凡俗の及ばぬ教養の分厚な蓄積が必要である。加えて国際情勢・情報に精通して居なくてはならない。それがあってこそ、温厚謹厳な紳士が影でバッサリ人を斬るから凄みが出るのである。
平素の物言いや振舞まで破落戸(ゴロツキ)紛いに凄んでいては凄みにはなるまい。脅しの言動を顕在して誇示したら,凄みの効果は減殺されよう。
  人様を悪く言いたくないが、要は会話も容貌も品性が無さ過ぎる。

  10月12日に森民夫候補への「テコ入れ」と称して新潟入りした。氏の肩書は、自民党幹事長、土地改良事業団体連合会会長、二階派会長、政界の寝業師、等々で飾られている。
講演では先ずは土地改良事業費として、第二次補正予算に約1000億円を盛り込んだ御自身の実績を盛んに強調。自画自賛、自慢話に花咲いた。
話の流れでは誰が聞いても
「土地改良予算を増やして遣ったから、自民推薦の森民夫氏に投票しろ」に聞こえる。

  更に森氏が建設省出身で政府との「パイプ」が太い事を力説。
普通の文脈で解せば
「森民夫氏に投票すれば、土地改良予算も建設土木予算も増やして遣る。逆らえば予算が減るのを覚悟しろ」
になる。
それ以外に読めと言うのが無理であろう。

恐らく中央が抱く新潟県民のステレオタイプとして「従順」「権威に弱い」且つ「忍耐強い」「我慢強い」がある。
新潟の田舎者など「脅せば言う事を聞く」との先入観が何となしにある。テレビ時代劇が作ったところの「水飲み百姓」のイメージが牢固として在る。「新潟県民」=「(時代劇の)水飲み百姓」観である。
都会人は新潟県の事など普段は誰も興味がないのだから、出来合いのステレオタイプに依存するのは無理もない話である。

我々新潟県人にしても東京人と云うと「口先が上手い」「札束で頬を叩く」「美食・贅沢・外車」「IT 上手」「英語で喋る」「速足」「腰をクネクネさせる」「眉毛を抜いている」「コロンを付ける」と云った固定観念から入って認識して行く。

  しかし勝手に紋切型で裁断された新潟県民は大いにムカッと来た。それでも温厚な新潟県人は顔には出さずに心の裡で思った。
「国とのパイプを恩に着せられるくらいなら、此方でお断りだ。」
「国に頼らなければ何も出来ないと思われるなら、いっそ国など要らない。」
「我々は東電や政府の圧力に屈しない。新潟だけの手で新潟独立王国を建設する。」

惜しむらくは二階氏は余りに悪役面が似合い過ぎた。嵌り役過ぎた。エグ味の少ない新潟県人に対し、悪代官、悪商人に収まり切れない凶悪のイメージが深刻に残像となった。

  ただ安倍首相とすれば二階氏の存在は心強かろう。傍らに悪役面が控えていれば、その効果で御自分が善玉に映る。露骨な利益バーター政治を演じて呉れれば、その口直しで安倍氏が妙に品良く見えてくる。
エゲツない、エグい、アクが強い、強引、を担ってくれる御仁を侍らせたのは、人事のヒットと言えよう。

 

 

安倍政権は新潟原住民を懐柔せよ 28.10.19
2つは、安倍首相の態度だ。

  8月13日に泉田知事が退任挨拶周りで官房長官の所に行こうとしていたところ、急遽安倍総理との会話が行われたと報道されている。
しかし冷静に考えてみると知事のスケジュールを事前に知り、且つ官房長官への挨拶をキャンセルさせられるのは首相しか、その権限にない。自民党の二階俊博幹事長が設定したかのような報道だが、「自民党」の幹事長は「国家」の首席に進言する立場にはないし、首相の行動を直前で変更させる権限などある筈もなかろう。逆に首相なら、与党の幹事長に命令できる。
「俺様から言い出せば俺様の格が下がる。お前がセッティングしたことにしろ。御前の手柄にして遣る」

  唖屁氏は、兎に角遣る事成す事「幼稚」なのである。何故、幼稚に映るかと云えば、企みが餘りに見え見えだからであろう。怖ろしく「子供っぽい」印象の人なのだ。エラク高級なスーツをお召しになってはいても、本質は最初から最後まで「トッチャン坊や」なのである。幼稚、と云う形容を充てて特段不自然でない。
この人の功績は、アメリカユダヤ様が後ろ盾に付き、CIAが輔弼翼賛してゴーストライターになれば「ぼくちゃん」にも政治家が演技できることを立証したことにあろう。

国会論戦で野党が思わず安倍首相を「ぼくちゃん」と一人称で呼称してしまったが、竟(ツイ)「ぼくちゃん」と呼ばせるところがある。「ぼくちゃん」で違和感がないし、一等シックリするのである。
実際、国会答弁では、漢字に振り仮名の付いた原稿を、業(ワザ)とらしい身振り手振りで大仰に棒読みしているのだから、矢張り「ぼくちゃん」であろう。
実父の出自から行くと「朴ちゃん」であったことを暗に指摘されてしまった。それで、場所柄も弁えず取り乱して激怒遊ばされた。
野党もお人が悪い。「ウッカリ」朴ちゃんと声掛けする次なる機会を虎視眈々と狙っておいでだ。

佐藤栄作総理は「栄ちゃんと呼ばれたい」と語ったが、確かに気易く人を寄せ付けない孤高の雰囲気が在った。国家の最高責任者としての緊張感と使命感がビリビリ漂っていた。見識と学識も相応に深かった。


だから「普通」の総理なら、仮に「ぼくちゃん」と呼ばれたならば(安倍氏以外有り得ないことだが)、親しみを覚えて貰ったとして、却って好意的に受け取ったろう。
少なくともそれを諧謔やユーモアとしてを受け止める余裕があった。それを受けて、どう切り返すかで器量が分るし、器量を証明できることを楽しんだ。
 
 しかし日本人ではない唖屁氏には土台、無理なのである。前提となる文化的素地を欠いている。脳が「ぼくちゃん」を日本的なユーモアや諧謔として理解し受け止めることが不能なのだ。鮮人様の行動様式では怒り散らすしか他にないのである。哀れではある。


「県知事が退任の挨拶に、首相の俺様の所に来た。」=「新潟県知事は俺様の子分」
「俺様が話をして遣って光栄と感じ入っていた」=「首相の俺様の言いなり」

  それを見せつけて遣った気分なのだろうが、新潟県民に限らず国民の全ては、亜屁氏の業(ワザ)とらしい「ヤラセ」にツクヅク辟易しているのだ。安っぽくて子供っぽさ丸出しなのである。御本人が得意満面なだけに、国民としては、居た堪れなくなり、身の置き場も無くなる思いなのである。

  中越地区の新潟弁に「しょーしい」があるが、正に唖屁氏の振舞は文化伝統的な美意識に照らして「ショーシイ」のである。
「新潟の原住民などは、俺様が声を掛ければ、有難がって尻尾振ってやって来る」
  安倍氏の上記メッセージを受けて、日本国民全部が
「唖屁のボクちゃんの言い成りになってなるものか!!」
と、決意を新たにしたことであろう。
それを受け新潟県民がコシヒカリブランドの筵旗(ムシロバタ)を掲げ、独立の狼煙を上げた。

 

 

錯乱の新潟県民 28.10.18
  10月16日に新潟知事選が行われ、投票の結果、日本共産党・社民党等が推薦する米山隆一氏が選出された。自民党公明党推薦の森民夫氏に6万票以上の差を付けての、堂々の新知事当選だ。

  個人的な感慨を述べさせて頂きたいが、原発反対もそうだが、安倍政権への「ノー」の意思表示が原動力になっては居まいか。
「新潟県民此処に在り」
「国や中央に見下されてばかり居ない」
「意地でも新潟県民の心意気を見せて遣る」
「安倍政権の言いなりになるのは真っ平」

  その本音が突き動かしたのではなかろうか。私個人は斯く感じた。
  人は誰しも、他人から馬鹿にされているとか舐められているとか感じると、意地でも抵抗した行動を取ろうとする。私にもその心情は痛いほど分かった。
新潟県民は「バカにすんじゃねぇ」との思いを共通して抱いた。米山隆一氏の当選は、バカにした連中に対して「留飲を下げる」現象となったのである。
では、どの辺りが新潟県民を愚弄していたか、また新潟県民に屈辱感を覚えさせたのか。

1つは、森民夫氏の態度だ。

報道された同氏の態度が、人々の目には尊大と映ったのではないのか。それと策に走り過ぎて人としての品位に欠けた。

  ①泉田知事の任期の最終年になるや同知事に弾劾文書に送りつけた。
  ②任期の終わりと見るや市町村長を抱き込んで露骨な反泉田包囲網を形成
③矢鱈と国とのパイプを強調。太いパイプで国の支援を引いてこられると力説。
④原発再稼働の可否の明言を回避。能書ばかりで言いたいことが曖昧。

  ①と②によって、逆に反森のシンパシーを形成したのではないのか。所謂判官贔屓だ。「泉田さんが苛められて可哀想」
「何で泉田氏を苛めるのか」との心情が湧いた。
共通の判官贔屓メンタリティーが醸成され、それが反森民夫ダイナミズムを生む心理的原動力となったのではないのか。

③で「国の支援など無用」の反骨心を刺激してしまったのではないのか。
ただでさえ安倍政権で所得は激減するわ、年金は減るわ、貯金は減るわ。他方で、県市民税は増えるわ、消費税は増えるわ、社会保険料は増えるわ、非正規雇用の身に堕されるわ、で何一ついいことが無いのだ。
新潟県民に限らず国民の本音は
「安倍政権の前に帰りたい」
ではなかろうか。
寧ろ、本音の部分で國とは係りたくなかった、との心理が醸成されていたのではなかろうか。

同時に
「国の金銭的援助が無けりゃ、お前等新潟県民は普通の生活も出来ないだろうが」
といった蔑みのニュアンスを県民は感じ取ったのではなかろうか。
「官僚出身の俺様が国のパイプを引いてやらなきゃ、お前等土民は出稼ぎせにゃなんめえが。」
と聞こえてイラッとしたのではあるまいか。

④は、宛ら東電の説明を聞かされているような気分にさせられた。アンタの信念は何なんだ、と問い質したくなったのではなかろうか。原発に関し、利いた風な能書ばかり、立て板に水と流すが、果たしてお前さんは何に対して責任を負うのだ、と人々は思ったのではなかろうか。「この人は小利口ぶって、俺っちを口先で丸め込もうとしている」、と人々は直感して受け取った。

 

 

平等なる格差社会 28.10.17
消費税の真の目的は「日本を、格差社会にする」だ。
中産階級を弱体化させ、一握りの富裕層と圧倒的多数の貧困層から成る二極社会にさせることが目的だ。
その為には日本の消費税法は装置として実に良く出来ている。

「消費税を梃子として『所得、消費、資産等に応じた格差社会』を構築する。」
「消費税により形式的平等を敷衍することで、『実質的不平等』を深耕し推し進める」

  何故、格差社会を財務官僚と政府は推し進めるのだろう。
  端的に、収税し易いからだ。
  細(コマ)いのが何十万社、何百万人あっても、面倒な分、収税側はチットモ嬉しくない。それよりも一握りの大企業や富裕層を相手にしていた方が、ナンボか効率が良い。
圧倒的多数は貧困層で良い。貧困層から富裕層が搾り取る、零細貧乏人から大企業が収奪する。その富裕層や大企業から財務官僚が召し上げる。
何と賢くスマートな収税構造であろうか。
中小・零細企業から搾り取って大企業を優遇すればよい。貧乏人は資産が持てない様にして金持ちを恩遇すればよい。そして大企業や大金持ちが潤ったところで、彼らから召し上げる。愚民共をして互いに収奪に競わせ、その挙りを国家が巻き上げれば足りる。
「俺様、何て頭が良いんだろう!!」
財務官僚様は有頂天だ。

  国全体の経済が拡大するだの、中産階級が資産を蓄積させるだの、そんなことはドーデモ良いのだ。大切なのは以下だ。

  ① 財務官僚が効率良く収税できること
②  財務官僚が優越感を満足させられること。

意外かもしれないが日本の官僚の圧倒的多数は「国家社会主義」を信奉している。
国家社会主義とは、国家が社会主義ならびに社会主義的諸政策を推進する思想である。
  消費税などは施策の典型であろう。官僚がプロパガンダしていたのは主に以下だ。

  1.消費税は全額、社会保障に充てます
2  消費税により日本の社会福祉は100年安泰となります。
3.消費税により税の公平を図ります
  4.消費税により世代間の社会負担の平等が実現します。

  何ともナチスも真っ青のスローガンではないか。否、ナチスも此処まで白地(アカラサマ)ではなかった。
国家社会主義を標榜する点に於いて、日本の財務官僚より、ナチスの方が控え目で躊躇気味である。日本の官僚はナチス以上の筋金入りの国家社会主義者と云へやう。
  日本の財務官僚は二言目には平等とか公平とか宣うが、少なくともナチスは形式的平等が実質的不平等を深め悪化することを知っていたから気恥ずかしくて使えなかった。日本の財務官僚に廉恥だの忸怩だのと言っても字も知らない。「なに、それ?」蛙の面に小便であろう。

  日本的「国家社会主義」とは、社会主義を、国家の手で実現する思想である。ここでの国家は官僚とほぼ同義である。何故なら日本的国家社会主義は官僚が抱く思想であるからである。従って全て官僚が抱くイメージで構成されるが、先ず「国民」とは官僚のイメージだと「無産階級」となる。平たく言えば我々貧乏人、低所得者層のことだ。
残りの一握りの超富裕層と寡占的大企業は国家の上部に位置する。そして官僚は即ち国家であるが国民ではない。国家として国民の上位に位置して国民を管理する立場にある。

此処で気が付くが官僚がイメージする日本的国家社会主義では、国民と云う名の無産者階級と、それ以外の「超富裕層+寡占的大企業+官僚」に世界が二分されている。即ち99%の無産の国民を、1%の超資産家が支配する世界である。その1%の超資産家が、99・999%の国家資産を管理する
  日本の官僚が理想としてイメージする日本的国家社会主義の完成図が描かれる。

 

 

消費税の甘美な想ひ出 28.10.16
消費税が施行された当時、私は、私は主に資格商売を自営していた。
  当初は売上額3000万円まで免税事業者であったが、周りに4千万円とか5千万円とかの売上を申告していた同業の知合いが結構居たのだが、申告期が来て、押し並べて彼らが言う科白が以下だった。
「納付の時には金が無い」
資格で保護されて消費税分をしっかり頂いている筈にも拘らず、そうした事務所にしてからが「3月の納期限になってもお金は無い」だった。

不動産鑑定士や税理士の先生ですら、
「納税期になっても、ナンカ、金が足りないんだよな~」
だった。「金が足んない」の不毛な念仏を聞きながら、私は或る予感を抱いた。当時、ボンヤリとではあるが、以下の推測が湧いた。

  ① どの道、消費税を払えない事業者が出て来るのではないか
  ② 払える人は元々資本力があるか財務が強い事業者であろう。
③ 払えない事業者は早晩淘汰されるか駆逐される。
④ 消費税が梃子となって払える人と、払えない人が階層化される。
⑤ 払える人も次第に絞られていく。

実際、施行と同時に信用金庫や地銀では消費税納付の為のローンなるものが早速商品化された。久々のヒット商品だ。信金の若い行員が忙しく駆け回っていて、知人の所にも営業が無理に作った笑みを顔に貼り付けて来たという。
  当時、私はノンバンクの仕事も請け負っていたのだが、納付期限に伴い俄かに担保設定の仕事が増えた記憶がある。当該顧客は、専ら小規模・零細事業者であったが、その借入の理由が何とも痛々しく「納税の為」であった。
  顧客の自宅に抵当権を設定登記をしながら、
「税金納付で借金して居たら世話無かろう。ダブルに負担になるのにアホかいか」
と思ったものだ。
案の定、ノンバンクの社内では秘かに「不動産売却ローン」と呼ばれていた。相当の率で任意売却や不動産競売に回ったやに仄聞する。

そうした記憶が残っていたので、消費税が8%に上る直前に、最後の会社も解散して早々に閉じた。税金を払うのに借金するようになったら事業者として疑い様も無く赤信号であることを、経験として知らされていたのが、良かった。
納税で借金するなら、仕事しないでジッと逼塞していた方が余程マシだ。
今は納税の資金繰りから解放されて、心からの安息と平穏を得た。あの儘続けていたら今頃は、骨と皮だけとなった頚を、荒縄で括っていたことだろう。

  消費税の高波を受ければ零細事業者は溺死が避けられない。消費税で溺死しないためには、最低でも自己が消費税難民であることを自覚することではなかろうか。高波が来てからではすでに遅い。高波が遥か沖合に垣間見えた瞬間に、全てを捨てて、即ち事業を放棄して、少しでも離れた所まで駆けて逃げることではないだろうか。
高波に抗ったり、対応しようとするのは、正気の沙汰ではない。短期には運良く堪え得ても長期には必ず水没する。三十六計逃げるに如かず、ではないだろうか。

 

 

赤字会社こそ消費税を納付させよ 28.10.15 
  制度破綻の2点目と思われるのが、消費税は集計してみないと分からない。と言う実態である。事業者の一人一人が、受け取った消費税を集計(甲)し、同時に支払った消費税を集計(乙)し、甲から乙を引いてみないと納税対象となる消費税が分らないという、のが実態なのだ。だがこれは致命的な欠陥を孕んでいないだろうか。
「事業者の一人一人が、受け取った消費税を集計(甲)し、同時に支払った消費税を集計(乙)し、甲から乙を引いてみないと納税対象となる消費税が分らない」
ナーンカ、間が抜けていないだろうか。

「だからロクに集計も出来ない前らの為に簡易課税制度を創設してやったのだ」
と財務省の高官は宣うが、抑々(ソモソモ)簡易課税制度を設けねばならなかった点に於いて、消費税は制度的に破綻している。と私は考える。
こんな「イーカゲン」で「テキトー」な制度を自ら創設しておいて、公平も平等もないモンだろうよ。簡易課税制度を設けたということは、財務省自身が(大企業は別として)事業者が厳密に消費税分だけを集計し切れる訳が無いと認識していることを、図らずも自白している。語るに落ちるとはこのことではないのか。

しかし「実際の課税仕入れ等の税額を計算することなく」と同制度が謳う意図は、もう一段深い意図があるのかもしれない。いや、明確な意図が潜んでいる。簡易課税制度も税務署の口車に乗って迂闊に採用すると大怪我するのではないのか。

  売上に係る消費税は、いざとなれば税務署側で問答無用で決め付けることが出来る。事業者は売上は必ず申告せざるを得ない。仮令赤字であろうともだ。否、赤字事業者ほど、申告すべきことになる。
  私の個人的体験からで恐縮だが、税務署は売上から逆算して「売上に係る消費税額」を先ずはザックリながら見積って来る。だから税務署の見積額と、消費税申告書の「売上に係る消費税額」とに乖離があると、徹底して突っ込まれることを覚悟すべきことになる。仮に売上額3000万円なら消費税額は240万円とか、精々200万円となる。これが50万円とかの記載だと「何だ、コイツは」となり俄かに目付きが鋭くなって、生き生きして来る。一旦マークされると地獄の果てまで徹底追及される。

  悪魔の税制たる由来の2つ目は「消費税を請求しませんでした」が一切通用しないことにある。
「消費税をサービスしました」は絶対禁句だ。口が裂けても言ってはならない。
確信犯と断定される。「サービス」分は100%自腹を切らされる。この時は税務署も意地になる様だ。(飽くまで私個人の体験に基づくが)
「お前如きの勝手な裁量で消費税をサービスすることなど断じて罷りならん」
事業者に課税裁量など認めたら財務官僚様の面子丸潰れだ。裁量権があるのは唯一財務官僚様だけであることを、骨の髄まで叩き込んでやらねばなるまい。
まだ「忘れました」とか「ついウッカリ課税し損いました」の方がいいのではないのか。尤もそれで通用するとは思えんが。


  悪魔の要素の3つ目は「当該事業者が赤字黒字に係らず納税義務を負う」
此処まで来ると天才的だ。消費税が人様の預り金とすれば、預かり主の事業が赤字だろうが黒字だろうが全く関係ない事になる。
「お前が経営者として無能だろうが有能だろうが知ったこっちゃねぇ。さっさと預り金を差し出せ」
  税務官様のイメージとしては、消費税だけ別会計で専用の通帳でもある感じだ。おそらく財務官僚に、そう躾けられているのであろう。
現に施行当時、財務省はテレビタレントを使い、税金を惜しみなく投入してプロパガンダを頻りに展開した。頭の良さを売りにする女優が「預り金なのに猫糞して酷(ヒド)いね」といった趣旨のデマゴーグを朝晩垂れ流していたやに記憶するが。
  我々愚民の脳髄をして、「消費税=預り金」のディスインフォメーションで洗脳することに財務省は成功したのである。

 

 

愚民共を徴収に使役せよ28.10.14 
  何故、一般の民間会社が源泉徴収票を作らねばならないか、世人は疑問でならない筈だ。何故、会社が社員個々人から所得税や社会保険料を源泉徴収して納税し、且つ申告して遣らなければならないのか、中小零細の企業経営者は深刻な疑問に日々直面している。
しかし口に出すのはタブーだ。それだけで睨まれ兼ねない。
そのために経理職員を余分に雇わなければならない。更に消費税担当で1名経理職員が追加になる。零細事業者ほど「ヤッテラレッカ」と叫びたく成ろう。

それで私は会社を閉じた。敗軍の将は兵を語らずで、語ってはいけない所だが、実感として資本力のある大手・巨大企業しか残れないのではないのかと思える。負け惜しみにしか聞こえまいが。
何でも訊くところでは、敗戦後源泉徴収の施行当時は税務署が会社に手数料を払ったり、税務職員が会社に手伝いに来た事も在ったやに税の来歴書に記されている。余り好い加減なことも書けないが、もし事実とすれば、筋としては寧ろ正しかろう。会社が個々の社員の所得税等を計算して書類を作り且つ申告の代行までするというのは、抑々根拠も理屈も欠いている。だいいち現実に零細事業者ほど負担であろう。

  聡明なる財務官僚様がお考えになるのは、如何に愚民共を利用して税収効果を上げるかであろう。愚民共を動員するためには時として飴をシャブらせることも必要と割り切っておられる。動きの鈍い愚民共を煽て透かしして差配する俺様は「何と能吏なことだろう!」と自画自賛しておられるに違ひない。

  つくづく感心するが財務官僚様は頭が良い。源泉徴収制もそうだが、消費税にしても「愚民を利用して」「愚民自ら課税業務に使役」している点だ。惚れ惚れする。
もしアメリカユダヤ様のご指導でなく、純然として財務官僚様の発案であったとしたら、私は躊躇なくノーベル賞を進呈したい(ノーベル税務賞か? 経済学賞はユダヤ人でないと無理)。素晴らし過ぎる。「頭良過ぎマッセ」

 

 

財務省は国家内国家と成れ28.10.13
  何故、財務省の「面倒だから」ないし「徴収コストが合わない」が通るのだろう。
最も根本的な問題は歳出を司る財務省が、歳入を司る税務署を支配下に置いているシステムの構造そのものにあろう。財務省だけで歳入歳出が完結し、宛ら独立王国の様相を呈しているのだ。日本国の中に財務省が在るのではない。財務省の植民地として日本国がある。
国内で怖いものなし。文字通り日本最強の官庁。日本人相手となれば無敵最強となる。何人も財務省に立ち入ることなど不可能だ。検察も税務署の前では丸裸にされパンツの色まで把握されている。隙(スキ)だらけの政治家など赤子の手を捻るが如し。凶暴な金玉でさえ財務官の掌の裡にあり、縮こまって里芋の如し。
外人様が国外に何を持ち出そうが、どれほど膨大に持ち出そうが財務省は見て見ぬ振り。(そう言えば角栄先生の逮捕理由って外為法違反じゃなかったでしたっけ。)
触らぬ神に祟りなし。外人様は神様である。徹底して借りてきた猫。外人様はご主人様である。
その分、日本人相手となるとトコトン高飛車で高圧的となる。神様とご主人様に奉仕した分を、そっくり日本人から取り戻さねばならぬ。

国税庁は財務省の外局であり、平たく言うとか税務署は財務省の公式な岡っ引きを担っている。財務局は差し詰め同心だ。国税が与力になる。財務省の政策に盾突くような政治家や、批判的で気に喰わない起業家は、岡っ引きや目明しを使って駆り立てる。財務省に対し少しでも批判的な報道機関(現実には存在しない)は、問題が無くとも税務署に上げられ国税に立ち入られることを甘受せねばならない。
  他方、税務署は財務省の政策論を盾にして業務を進める。
  要は財務省が法であり憲法なのだ。財務省が決めたら何人も文句が言えない。
現に憲法裁判にでもなれば、裁判官は100%財務官僚の肩を持つ。高度な政治的判断ならぬ高度な行政判断とやらで、「ワシャ知らん」と逃げ出すに決まっている。裁判官とて、財務官僚の手下の税務官に身辺をウロチョロされるのは堪らない。

  私見だが財務省と国税庁は分離されるべきだ。でないと財務政策を強行する手段として国税庁の調査権・捜査権が暗黙の裡に利用されてしまうからだ。日本の財務政策に強烈な偏向が掛かっているのはこのためだ。財務省が捜査権を持つが故に、誰も財政の立て直しに口出しも手出しも出来ない。下手に批判めいたことを口にすれば、数週間後には税務署が事務所や会社に入る。仮に建設的意見であっても、それでは従前の財務省が非建設的だったことになり、断じて容認できる所ではない。
斯くして財務省の独善と独断が何十年にも渡り大手を振って罷り通った結果、日本の財政政策が歪み、挙句に財政そのものが破綻に瀕してしまったのである。

  然るに財務省それ自体が歳入と歳出を握り自己完結していることにより、国家内国家となり国家そのものを自己から疎外してしまっており、国家と自己との関係を損失してしまっている。日本の財政が「大バラコイタ(北蒲原弁)」状態にあろうと、自己と本質的な関係があるとは到底思えない。
一般論で言っても植民地が荒廃しようと破産しようと、本国にとっては、最終的にはカンケーナイ、である。日本の財政は既にハチャメチャだが、国家内国家の財務省には、基本的にはドーデも良いことである。植民地が滅びた方が、本国は栄え易い。

 

 

重税の下の平等 28.10.12 
財務省の都合に立った算盤勘定で、徴税するだの、徴税しないだのを決めているのだ。
  儲かるから徴税する、儲からないから徴税しない。
斯かる人間に公務、それも選りに選って財務、税務を任せるのは危険極まりないと思うが、思うのは私一人だろうか。
税務署が怒鳴りつけて門前払いするように、私の方が奇怪しいのであろうか。ならば早々に、お得意の立入り捜査でもして頂きたい。素っ首刎ねて頂きたいものである。

  民間企業であれば、コストパフォーマンスで製造やサービスを判断するのは全く正しい。合理的、というより当たり前過ぎる経営姿勢である。
  だが、税務署が民間企業気取りで「儲け」原理に則ることは果たして公務の履行として適切な事なのか。

  何が言いたいかというと、それは増税に直結せずにはおれないし、増税に正統性を与えてしまうという事だ。
消費税率3%だと非課税ラインは3000万円、8%だと非課税ラインは1000万円になった。「徴税コストに見合う」とは正にこのことだ。
  この流れだと消費税を20%にすれば非課税ラインは500万円、と云った所に落ち着きそうに見える。
逆に言うと
「非課税ラインを落として課税の公正を実現するという。その為に増税する」
と言う倒錯論理が大義名分になってしまう。
増税の錦の御旗を財務省に与えことになる、ということだ。

何度も言うがコスト対ベネフィットと云う発想は民間では正しい。
  財務省のシナリオは、宛も金採掘やオイル採取の採算ラインの計画を思わせる。
金でもオイルでも比較的簡単に採掘採取できる範囲は粗方終わってはいる。但し現実には地中や海底に手付かずで膨大に埋蔵されているとされている。
  金が最も分り易いが、採掘コストと比較し、利益が取れる臨界点で、採掘が止まっている。卸価格や販売価格が上昇するなりして利益が大幅に取れるようになれば、敢えて採取採掘コストを高めても構わないことになり、構わない範囲で採掘が広がる。
  上記は民間の原理としては、正にその通りであろう。
だが、公共の税に適用することが果たして妥当なのか。

金価格を上げてくれるなら、採掘技術に手間暇を掛けても良くなるから、もっと掘れる。コストを掛けてもペイできる。同様に税率を上げコスト割れしない様にすれば、それだけ愚民共から根こそぎ掘り尽すことが可能だと、財務官僚様は算段しておられる。

  消費税率20%なら非課税ラインを500万円にしても徴税コストはペイする。消費税率30%なら非課税ラインを100万円にしてもいい。此処まで来ると事実上の非課税制度撤廃だ。
  これにより憲法違反の痕跡が消せる。財務官僚様が理想とする重税の下の平等が実現する。筋金入りの国家社会主義者の理想が実現する。
  しかし30%まで行かないと止まらない消費税とは、何所か奇怪しくないだろうか。