安倍政権は新潟原住民を懐柔せよ 28.10.19
2つは、安倍首相の態度だ。

  8月13日に泉田知事が退任挨拶周りで官房長官の所に行こうとしていたところ、急遽安倍総理との会話が行われたと報道されている。
しかし冷静に考えてみると知事のスケジュールを事前に知り、且つ官房長官への挨拶をキャンセルさせられるのは首相しか、その権限にない。自民党の二階俊博幹事長が設定したかのような報道だが、「自民党」の幹事長は「国家」の首席に進言する立場にはないし、首相の行動を直前で変更させる権限などある筈もなかろう。逆に首相なら、与党の幹事長に命令できる。
「俺様から言い出せば俺様の格が下がる。お前がセッティングしたことにしろ。御前の手柄にして遣る」

  唖屁氏は、兎に角遣る事成す事「幼稚」なのである。何故、幼稚に映るかと云えば、企みが餘りに見え見えだからであろう。怖ろしく「子供っぽい」印象の人なのだ。エラク高級なスーツをお召しになってはいても、本質は最初から最後まで「トッチャン坊や」なのである。幼稚、と云う形容を充てて特段不自然でない。
この人の功績は、アメリカユダヤ様が後ろ盾に付き、CIAが輔弼翼賛してゴーストライターになれば「ぼくちゃん」にも政治家が演技できることを立証したことにあろう。

国会論戦で野党が思わず安倍首相を「ぼくちゃん」と一人称で呼称してしまったが、竟(ツイ)「ぼくちゃん」と呼ばせるところがある。「ぼくちゃん」で違和感がないし、一等シックリするのである。
実際、国会答弁では、漢字に振り仮名の付いた原稿を、業(ワザ)とらしい身振り手振りで大仰に棒読みしているのだから、矢張り「ぼくちゃん」であろう。
実父の出自から行くと「朴ちゃん」であったことを暗に指摘されてしまった。それで、場所柄も弁えず取り乱して激怒遊ばされた。
野党もお人が悪い。「ウッカリ」朴ちゃんと声掛けする次なる機会を虎視眈々と狙っておいでだ。

佐藤栄作総理は「栄ちゃんと呼ばれたい」と語ったが、確かに気易く人を寄せ付けない孤高の雰囲気が在った。国家の最高責任者としての緊張感と使命感がビリビリ漂っていた。見識と学識も相応に深かった。


だから「普通」の総理なら、仮に「ぼくちゃん」と呼ばれたならば(安倍氏以外有り得ないことだが)、親しみを覚えて貰ったとして、却って好意的に受け取ったろう。
少なくともそれを諧謔やユーモアとしてを受け止める余裕があった。それを受けて、どう切り返すかで器量が分るし、器量を証明できることを楽しんだ。
 
 しかし日本人ではない唖屁氏には土台、無理なのである。前提となる文化的素地を欠いている。脳が「ぼくちゃん」を日本的なユーモアや諧謔として理解し受け止めることが不能なのだ。鮮人様の行動様式では怒り散らすしか他にないのである。哀れではある。


「県知事が退任の挨拶に、首相の俺様の所に来た。」=「新潟県知事は俺様の子分」
「俺様が話をして遣って光栄と感じ入っていた」=「首相の俺様の言いなり」

  それを見せつけて遣った気分なのだろうが、新潟県民に限らず国民の全ては、亜屁氏の業(ワザ)とらしい「ヤラセ」にツクヅク辟易しているのだ。安っぽくて子供っぽさ丸出しなのである。御本人が得意満面なだけに、国民としては、居た堪れなくなり、身の置き場も無くなる思いなのである。

  中越地区の新潟弁に「しょーしい」があるが、正に唖屁氏の振舞は文化伝統的な美意識に照らして「ショーシイ」のである。
「新潟の原住民などは、俺様が声を掛ければ、有難がって尻尾振ってやって来る」
  安倍氏の上記メッセージを受けて、日本国民全部が
「唖屁のボクちゃんの言い成りになってなるものか!!」
と、決意を新たにしたことであろう。
それを受け新潟県民がコシヒカリブランドの筵旗(ムシロバタ)を掲げ、独立の狼煙を上げた。