ボブ・ディランいろいろ
ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞しました。厳密には受賞者に決まった~まだ本人と連絡がとれていないらしいので~というい段階でしょうが。
かつてのサルトルのように受賞辞退の可能性がないわけではないとも思いますし。
著名な小説家等の中には彼の受賞を批判する人もいるようですが、フォークの時代の私としては素直に嬉しく思います。単にシンガー/ソングライターというだけでなく、彼の詩をじっくり読めば、そこに込められた強烈な思いが伝わってきます。
「ノーベル音楽賞を作ればいい」などという意見もあるようですが、それは違うでしょう。文学賞は彼の「詩」に与えられたものであって、音楽そのものではありません。
もっとも、詩はそもそも音楽的なものであり、日本の俳句だって短歌だって、音楽そのものという言い方すらできると思います。
このニュースは寝耳に水みたいに報じられていますし、米国のニューヨーク・タイムズでも驚いているらしいのですが、実は以前にもディランとノーベル文学賞について論じられたことがあります。
当のニューヨーク・タイムズでも、2013年のここにあります。ポジティブであろうとニュートラルであろうと、はたまたネガティブであろうと、自ら論じておいて今更「びっくりした!」はなかろうと思うのですが。
英国の新聞テレグラフでも同じ年、この通りでした。テレグラフでは①フィリップ・ロス、②村上春樹と続き、ボブ・ディランは第9候補でした。
米国にフォークファンが集うBBSがあり、私も参加してワイワイやっているのですが、当然のことながら、その中でもディランのノーベル文学賞受賞について論じられています。
概ね受賞を歓迎する書き込みですが、中には批判もあります。
そこで見つけた書き込みによれば、私が先月のブログで書いたポンピドゥー・センターで今月初旬まで「ビート・ジェネレーション(Beat Generation)」という企画があり、その中で、ボブ・ディランの「Subterranian Homesick Blues(ホームシック・ブルース)」が壁に映し出されていたそうです。
♪Johnny's in the basement
Mixing up the medicine
I'm on the pavement
Thinking about the government・・・
ジョニーは地下でヤクを調じ、オレは舗道で政府(恐らく国家権力の意味)のことを考えている・・・
1960年代に米国のヒッピーたちに熱狂的に受け入れられ、一見退廃的にもみえるこの曲ですが、社会、制度、政府に対する痛烈な皮肉と批判が込められていて、これを堂々と展示するポンピドゥー・センターは偉い! と思います。
この企画はもう終わりましたが、プロモーションビデオがここに残っていますので興味のある人は覗いてみてください。
以上、とりとめもない話でしたが、つれづれなるままに書きました。
相互リンク⇒アクティブなごやん(ゴートクのHSV、数的不利でも敵地でドローにもちこむ!)
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なごやんのBCL史(44)もうひとつの国際放送
イタリアやポルトガル、ブルガリアなど、まだ記事にしていないヨーロッパの国も多数あるのですが、今回は(20)ドイチェ・ヴェレ、(30)ラジオ・ベルリン・インターナショナルに続く3つ目のドイツネタです。
【背景】
ドイツの電波事情というのは少々複雑です。というのも、第二次世界大戦が終わった後、「敗戦国、犯罪国」ドイツでは使うことのできる放送電波が限られていたからです。
そしてまたドイツでは、ナチス時代のように放送に政治が介入することを許さないという視点から「ドイツ公共放送連盟(ARD)」という非政府組織を作り、国内各地の放送局を統括しています。ドイツの放送局は地域割がしっかりしていて、NHKのような全国統一の放送はありませんでした。
一方、第二次世界大戦後に分断されたドイツの東部分(ドイツ民主共和国;東ドイツ)では長波による自国の情宣放送がドイツ連邦共和国(西ドイツ)に向けて発信されていました。
【Deutschlandfunkの始まり】
東ドイツからの西ドイツ向け情宣放送に対抗するため、ARD傘下の北西ドイツ放送が長波を使って東ドイツ向けに放送をし始めましたが、西ドイツ政府としては地方放送に属さない放送局を立ち上げ、東ドイツの人や東ヨーロッパに住むドイツ人、ドイツ語を母語ないし主言語とする人に向けての放送を始めることにしました。そして本社をケルンに置いたのです。これが「Deutschkandfunk(DLF)(ドイチラントフンク、ドイツ放送)」です。
【国際放送DLF】
DLF は上述のように当初は「同胞向け」に放送されていましたが、次第に守備範囲を拡張し、ポーランド、チェコ、セルビア、クロアチア語、さらに英語でも放送するようになり、長波および中波によってヨーロッパ、とりわけ北部ヨーロッパ全域にまで送信範囲を拡大しました。出力は最大800KWと強力です。
インターバルシグナルにはベートーベンの交響曲第9番の「歓喜の歌(An die Freude)」の最初、「♪Freude,schöner Götterfunken,Tochter aus Elysium」の部分が使われ、英語では「This is Germany.You are listening to the English Service of Deutuschlandfunk broadcasting from Cologne.」とアナウンスされました。
一方、DLF 以外のARD傘下の地方局でも西ドイツ以外にまで聴取範囲が広がっていることがあり、ARDではこんな「国別聴取可能放送局早見盤」を作ったりもしていました。一部の放送は日本でも聴取可能でした。
聴取可能放送局早見盤
(小円盤のピンク部分を大円盤の国に合わせると、窓に出た●●●に該当する局が聴取できる。)
受信報告に対しては他の放送局と同じように受信証が送られてきました。
こんなおしゃれなデザインの受信証もありました。
Treffpunkt Bahnhof(待ち合わせ駅)なるほどね
DLFの番組表は詳細でわかりやすいものでした。
DLFでは情報誌を年4回(季刊)発行していました。 英語版もありました。
DLF情報誌(Deutschlandfunk Informationen)
私は放送されたり手紙で送付されたりしたアンケートには積極的に答えるのですが、上の情報誌にはその結果が細かく解析、掲載されていました。いかにもドイツ的です。
【DLFのその後】
ご存じのように、1989年、東西ドイツが再統合されました。東ドイツにあった「ラジオ・ベルリン・インターナショナル(RBI)」は西ドイツの「ドイチェ・ヴェレ(DW)」に抱合されました。
そして、東西ヨーロッパ冷戦下で生まれたDLFもその役割を終えます。
独立性を失ったDLFのヨーロッパ部門(国際部門)はドイツの国際放送、DW に移行されました。
もっとも、DLFとDW はもともと親密な関係にあり、私がBCL 史(余話)私の言語学習で少し紹介した「ラジオドイツ語講座(Auf Deutsch gesagt)」のテキストはDW、DLF 合作によるものですし、放送内容も同じでした。
ラジオドイツ語講座テキスト(DWのものと同一)
本来のDLF はDeutschlandradioとしてFM放送を行っています。
そして、同局のHPによれば、来年の夏、再びDLFとして蘇ることになっているようです。
ドイツの放送については、話題がまだたくさんありますので、これからも追々書いていきます。
次回は「その他の地域」で、北米を予定しています。
海外放送の過去記事はこちらをご覧ください。
相互リンク⇒アクティブなごやん(再開ブンデス、ゴートクは先発外れそう)
秋です⇒

今年の皇后杯
日本サッカー協会は10月11日、第38回皇后杯全日本女子サッカー選手権大会の日程を発表した(PDF)。
アルビレックス新潟レディース(アルビL )は第2回戦から登場し、初戦は新発田市五十公野公園陸上競技場で行われる。勝つと、次はコカ・コーラウェスト広島スタジアムだ。
更に勝ち進むと準々決勝はユアテックスタジアム仙台、準決勝は味の素スタジアム西が丘、決勝はフクダ電子アリーナだ。
例年なら早い時期に藤枝総合運動公園サッカー場での試合があったのだが、今年はない。いや、そのサッカー場で試合はあるのだが、アルビL の試合がないということだ。
これまで新潟の人たちは皇后杯の試合をなかなか現地で応援できなかったであろうことを思えば新発田で試合があるのはよいことなのだが。
今年は四日市へ新潟医療福祉大の試合を見にいこうかな。新潟医福というより、いずれはまたアルビレックス新潟へ戻ってきてくれるであろう奥山監督の采配を見に。(笑)
その頃、仕事がバタバタしていると思うので、日曜日に時間がとれるかどうかわからないが。
相互リンク⇒アクティブなごやん(ブンデスリーガも再開だ)
アルビブログです⇒

なごやんのBCL史(43)ポルトガルの支配下で
今回はアフリカ南東部にあるモザンビークの放送局です。
モザンビーク関連のグッズは何かないかしらと探していたら、ありました。チョウ(1枚はガ)の切手です。
【背景】
モザンビークには他の多くのアフリカ諸国同様、数百万年前から人類が住んでいたと言われますが、ヨーロッパ人たちの目に留まるようになったのはポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマがこの地に来た15世紀末、実質的には16世紀になってからのことです。
ポルトガルは17世紀のうちにモザンビークを植民地にし、首都をモザンビーク島に置きました。
現在の首都、マプトが、「ロウレンソ・マルケス」の名で作られたのは18世紀末のことです。
ポルトガルの圧政に苦しむモザンビークだけでなく、第二次世界大戦終了後、アフリカ諸国では独立の機運が高まり、1960年は一挙に17か国が独立する独立の年になりました。
そんな中でモザンビークでは 独立を目指す3勢力を合同した「モザンビーク解放戦線」が結成され、支配者のポルトガルに対して武力闘争を行いました。
モザンビークが独立したのは、実に1975年になってからです。
【モザンビークラジオクラブ】
私がこの国からの放送を聴いたのはモザンビークで独立闘争が盛んに行われていた時代です。
一般の国民たちが、その闘争に、そして独立にどの程度関心を持っていたのかわかりませんが、日本ではそれほど大きな話題にはなっていませんでした。
当時の私のアフリカ情報は英国のBBC放送やオランダのRNW、南アフリカのRSAから、そして西ヨーロッパからの独立闘争を支援するソ連邦、モスクワ放送からのものが主でした。
モザンビークの放送局としては「ロウレンソ・マルケス・ラジオ」が有名でしたが、私はそれを聴いたことがありません。私が聴いたのは「モザンビークラジオクラブ(Rádio Clube de Moçambique)という放送でした。
1933年に放送を開始したこの局の出力はわずか25KWと小さかったのですが、時には良好な受信状態が得られました。ポルトガル語で「Aqui Lourenço Marques, Rádio Clube de Moçambique presentando(?) no(?) ondas curtas.(こちらはロウレンソ・マルケスです。モザンビークラジオクラブが短波でお送りします。)」とアナウンスされました。

ポルトガル語放送で、国内向けか国外向けかはよくわかりませんでした。私はポルトガル語で自分の考えを表出することができないため、英語でポルトガル語放送の受信報告を送りました。
受信証が約1か月後に葉書で送られてきましたが、プログラム等は送られてきませんでした。
この放送局のその後の歩みはよくわかりませんが、現在、ラジオ・モザンビーク(Rádio Moçambique)という名称になっています。これはおそらく1975年の独立後のことではないかと思われます。同局のホームページを見てもはっきりは書いてありません。
というところで、次回はまたヨーロッパへ行きます。
短波、海外放送の過去記事一覧はここにあります。
相互リンク⇒アクティブなごやん(W杯予選オーストラリア戦のゴートク)
夏は暑い国らしい⇒

プロ野球のことだけど
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つぶやきというよりウダウダ
今日、プロ野球セントラルリーグのクライマックスシリーズ(CS)とやらでDeNAが讀賣に勝ってCSファイナルステージに進出することが決まったとのことだ。
で、レギュラーシーズンを振り返ってみると、DeNAは勝率50% に満たないんだ!
そもそも6チームしかないリーグで3チームの争いって、半分より上にいればいいってことだ。
もし、DeNAが広島に勝って、しかも日本シリーズでパリーグのチームに勝ったらDeNAが日本一ってこと?
サッカーも含め、讀賣・日テレ一味が大嫌いな私としては讀賣が脱落してくれたのは嬉しいのだけど、それにしても、この制度て・・・
プロ野球も何かもう一工夫しないと前途多難だなぁ。
サッカーを見倣ったらいいと思うのだけど、サッカーが真に国際的なスポーツなのに対し、野球は基本的に米国発祥の限られた地域でのスポーツだから仕方ないのかもしれないが。
リーグのでき方からして、サッカー(J リーグ)とは違うのだし。
野球ファンの人はもっと声を上げればいいのに。
と、ヒトゴトながらぼやいてしまった。
アルビの試合がないといつもグダグダになる私だ。
あっ、でも今日はレディースが大勝してよかったよかった。
沙弥香もゴールしたし。(^ ^)V 楓までも!
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