なごやんのBCL史(30)廃墟の中からよみがえる | なごやん

なごやんのBCL史(30)廃墟の中からよみがえる

 今回はヨーロッパの順番で、旧東ドイツのドイツ民主共和国へ行きます。
 (20)ドイチェ・ヴェレ(DW)と対をなします。

【背景】
 第二次世界大戦で敗戦国となったドイツは1949年、西側陣営のドイツ連邦共和国(西ドイツ)と東側のドイツ民主共和国(東ドイツ)に別れ、それぞれの道を歩むことになりました。首都ベルリンも英、仏、米が統治する西ベルリンとソ連邦が影響力を持つ東ベルリンに分断されました。東ベルリンは東ドイツの首都になりますが、西ドイツは西ベルリンを実質的にコントロールしながらも首都はボンに置きました。

 東ドイツでは東西分裂前の1946年にドイツ共産党(KPD)とドイツ社会民主党(SPD)が併合してドイツ社会主義統一党(SED)を作り、復興の道を歩こうとしていました。最初はSPD党員で、後にKPDに移ったヴァルター・ウルブリヒトが1950年に第一書記になると、東ドイツの復興を強力に牽引し、当時の東ヨーロッパ全体に影響を及ぼす工業国として発展していきました。
SED創設20周年記念(左)とウルブリヒト(右)の切手

【廃墟からの復興】
 東ドイツでは1945年にドイツ民主放送(Deutscher Demokratischer Rundfunk)が設立され、1959年にはラジオ・ベルリン・インターナショナル(RBI)が短波で世界に向けて発信していました。最大出力500KWのこの局はドイチェ・ヴェレと並び世界中で多くの聴取者を得ていました。何といっても、ニュースや解説を理詰めで報道する姿勢が支持を集めていたのです。
 当時の東ドイツ国歌の冒頭「♪ Auferstanden aus Ruinen (廃墟から甦る)」をインターバルシグナルに使っているため、すぐに局名を同定できた放送です。
 私がこの放送を聴き始めたのはドイチェ・ヴェレより少し遅かったのですが、それでも熱心に聴いていました。
国営放送開局25周年記念切手(ペアの左はRBI)

 私が聴いていたのは主として東南アジア向け英語放送でした。
東南アジア向け英語放送プログラム

 受信報告に対してはもちろん受信証が送られてきました。
RBI ベリカード(受信証)

 この局はグラフなどの様々な資料や書籍を送ってくれたのですが、私の引っ越し等のためか紛失してしまいました。ペナントはペナントとして別にファイルしてあるため健在です。

          ビニール袋入りRBI ペナント

 季節のあいさつも普通に毎年送られてきました。
新年のあいさつ

 引っ越し用段ボール箱にこんな絵葉書が残っていました。
ゾンダーハウゼン(町の名)

【レーニン生誕100年記念作文コンテスト】
 以前、(12)モスクワ放送の記事でも触れましたが、1970年、レーニン生誕100周年を記念し、当時の社会主義国の放送局合同で作文コンテストが行われ、レーニン主義者ではない私もそれに応募しました。日本語ではモスクワ放送へ、英語ではラジオ・プラハへ送りました。

 すると、秋になってRBI からLPレコードが届き、中にはラジオ・プラハから「特別賞」のお知らせが入っていたのです。レコードの内容は世界的なソプラノ歌手、マリア・カラスが主演するオペラ「椿姫」の全曲で、東ドイツ国営レコード会社のクラシック部門、「エテルナ」からリリースさてれいて、3枚セット、箱入りの立派なものです。
マリア・カラスの椿姫

 いきさつがよくわからなかった私ははがきでRBI に問い合わせました。「あのレコードはとても気に入りましたが、レーニン作文コンテストの賞品なのでしょうか?」
 そして返事をもらいました。やはり、その通りでした。
「You are right.」と言われても・・・

【RBIの終焉】
 RBI へはその後もたびたび受信報告を送りました。受信証もたくさんあります。
RBI 受信証の一部

 しかし、1989年、ベルリンの壁が破壊されると、東西ドイツ再統一の機運が一挙に高まり、1990年に実現します。
 東西ドイツ再統一の前日、RBI はDW に吸収される形で30余年の幕を閉じました。最後の英語放送では、RBI がDW に「乗っ取られた」いきさつとこれまでRBI が果たしてきた役割が誇り高く語られました。

 ドイツの放送の話題はまだいくつかあります。追々小出しにしていきます。
 31回はどこへ行きましょうか。北米?アフリカ?

BCL史の過去記事はこちらをご覧ください。

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