なごやんのBCL史(20)初めてのドイツ語報告書
BCL史は原則として1回おきにヨーロッパを訪れます。今回はドイツ連邦共和国です。
【背景】
以前にも書きましたが、私は小さい頃から各国の民謡と並んでドイツ歌曲(ドイツリート)が好きでした。中学生になるとその思いはますます強くなり、いつかはドイツ語で歌いたいと思っていました。
そんなこんなもあり、高校生の時、NHKラジオ講座でドイツ語をほぼ毎日勉強しました。それについては少し前に書いた通りです。4月に開始し、半年くらいすると少しは読み書きができるようになり、ドイツ語の放送も聴くようになりました。そんな時に受信したのがケルンにある「Die Deutsche Welle(ドイチェ・ヴェレ、ドイツの波)(DW)」のドイツ語放送でした。
【Hier ist die Deutsche Welle.(こちらはドイツの波です。)】
DWではベートーベンのオペラ「フィデリオ」でフェルナンドが歌う「♪Es sucht der Bruder seine Brüder (兄弟(単数)が自分の兄弟たち(複数)を調べてる)」の部分がインターバルシグナルとしてチェレスタで奏でられ、次いで「Hier ist die Deutsche Welle.」とアナウンスされました。
習いたてのドイツ語で耳をそばだてて聴きました。最も難しかったのは周波数の聞き取りでした。
【初めてのドイツ語受信報告書】
それでもなんとか聴き続けた私は、クリスマスイブに聴いた放送のレポートをドイツ語で書いて送りました。
当時、私には報告書等、こちらから送るもののコピーをとっておく習慣がなかったため、どのように受信レポートを作ったかはわかりませんが、それなりにしっかりしたものを書いた思います。
しかし、放送局からは何の返信もありませんでした。私のドイツ語が通じなかったのか、手紙が届かなかったのか、受信報告はあまり歓迎されていないのか・・・
そうこうするうち、年明けも年明け、翌年の3月になって受信証が送られてきたのです。でも、せっかくドイツ語で書いたのに、返事は英語(日付、宛先)でした。
これで気を良くした私は、あまり受信状態のよくないこの局を頻繁に聴くようになりました。ニュース、音楽と基本的に真面目な放送局で、落ち着いて聴けました。
英語放送でドイツ語講座を聴いたりもしていました。
番組表は結構大きなものでした。
【DW キガリ】
DW はルワンダのキガリに中継局を持っていて、それも聴きました。アフリカ向け放送です。
その受信報告に対してはこんな図案の受信証が送られてきました。
【日本語放送開始】
DW は1969年に日本語放送を始めました。まずはその試験放送です。予め試験放送のことをを知っていた私は放送開始初日に受信しました。
試験放送に対して日本語で受信報告を送りました。最初と同じデザインの受信証が送られてきました。もうチョット気を利かせて記念受信証くらい作ればいいのに。
その後もしばらく日本語放送(本放送)を聴いていましたが、必ずしも安定した受信状態が得られるわけでなく、結構苦労しながら聴いた覚えがあります。
日本語放送の受信証や手紙に対しては、簡単な肉筆の返事が送られてきました。
【DW のその後と今】
1983年、DW は開局30周年を迎え、記念の受信証が発行されました。各地の中継所が示されています。
この局は結構立派なリーフレットを発行していました。
1990年に東西ドイツが統合すると、ドイツ民主共和国(東ドイツ)の放送局、ラジオ・ベルリン・インターナショナルの一部がDW に加わり、DW の本部はベルリンに、放送局はボンに置かれることになりました。
それから更に4分の1世紀が経過した今、DW は各国の国際放送が消滅する中、なんとか持続され、現在も30言語で放送を続けています。ただし、日本語放送は1999年12月に終了しています。
よく知られているように、インターネットではライブテレビにアクセスできます。
財政的にはまだまだ厳しさが続いているようです。
次回はアジアの予定です。
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