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本の虫凪子の徘徊記録

新しく読んだ本、読み返した本の感想などを中心に、好きなものや好きなことについて気ままに書いていくブログです。

八月九日、長崎に原爆が投下されてから、今日で七十七年になるそうです。
原爆で亡くなった多くの方々のご冥福をお祈りいたします。


【再読】  武田登竜門『あと一歩、そばに来て』 ビームコミックス(KADOKAWA)

 

さて、本日はこちらの作品を再読しました。

漫画です。

『BADDUCKS』の作者、武田登竜門先生による短編集で、今年の四月初版です。表紙に一目惚れして購入しました。
この圧倒的画力。シンプルに絵が上手い。
個人的に、この塗り方もかなり好みです。
それでは感想を書いていきたいと思います。

 

以下、内容についての記載あり。未読の方はご注意ください。

人物、特に女性が非常に魅力的に描かれています。
最初の王女が特に印象に残りました。表紙の女の子です。まつげバッサバサ、目もキラッキラ。そして何より表情が豊か。監禁時には目隠しで顔が半分隠れているにも関わらず、怯えて不安そうな様子がしっかりと伝わってきます。
武田先生は、表情やポーズを書くのが本当に上手いと思います。全編を通して、一枚絵としての完成度もさることながら、しっかりと動きもあり、美麗なイラストが上手く漫画に落とし込まれている、といった印象を受けました。

収録作品は全部で七つ。
舞台となる地域や時代設定はバラバラです。日本が舞台だったり、架空の国が舞台だったりします。
私が一番好きなのは『初夜はつつがなく』ですね。大国の皇帝と、彼に嫁いだ小国の姫君のお話。甘さはありませんが、艶っぽく、どこか駆け引きめいた二人のやり取りにドキドキしました。あと姫君が滅茶苦茶美人です。

それから、男同士の関係を描いた『悪くはねえけど』も特に気に入っています。男同士の、当事者にしか理解できないような稀有な友情を描いた作品。始めと終わりが写真なのが良いです。最後の、和田のニヤけ面と隠れて中指立ててるタケには笑いました。

最終話の『大好きな妻だった』は何度読んでもうるっときてしまいます。台詞回しも秀逸で、完全にこちらを泣かせに来ている。
「神様は数日後に彼女を殺した」というモノローグからは、主人公の色々な感情を感じ取ることができて、本当に辛いです。
傑作です。仮にこの話単体が一冊と同じ値段(810円+税)で売られていたとしても、間違いなく買っていたと思います。それくらい好みドンピシャでした。

どれもストーリーが若干文学的というか、安易なハッピーエンドではなく、含みを持たせた終わり方になっています。『その時がきたら』と『大好きな妻だった』は、切ない系のお話が好きな人には結構刺さるんじゃないでしょうか。
あと何気に、あとがきの、作者による収録作品の説明がかなり面白かったです。
興味がある方は、ぜひ。
それでは今日はこの辺で。

 

 

 

 

【再読】  広島テレビ放送 編『いしぶみ 広島二中一年生 全滅の記録』 ポプラポケット文庫

 

本日は八月六日、広島平和記念日です。

それに因んで、こちらの作品を再読しました。

広島テレビ放送制作の過去作品である、「碑」というドキュメンタリー番組の草稿をもとにして書かれた一冊です。

「はじめに」は元社長の吉野友巳さん、「あとがき」は番組の元プロデューサー・薄田純一郎さんによって書かれています。

タイトルの通り、原爆死没者とその遺族について描いた作品となっています。

 

以下、内容についての記載あり。未読の方はご注意ください。

 

この作品は、八月六日の原爆投下で亡くなった人々の中でも、当時まだ子供だった広島二中の子供たちについて取り上げて記録したものです。彼らが戦時中にどのように暮らし、そしてどのように死んでいったのか、遺族の方などの証言をもとに、詳細に記されています。

原爆から五百メートルの距離にいた彼らは、それが爆発する瞬間を目撃しました。
多くの人が一瞬で黒焦げになり、爆風で吹き飛ばされ、瓦礫の下敷きになりました。この瞬間だけでおよそ三分の一の生徒が焼け死んだそうです。なんとか生き残った子たちは、燃える砂から這い出し、近くの川に向かって必死で逃げましたが、その途中で力尽きた者や、川の中で溺れてしまった者も多くいたといいます。
あたりは一面火の海、周りからは同級生たちのうめき声や父母を呼ぶ声が聞こえる。想像するだけで恐ろしい光景ですが、実際は文字で書かれているよりもずっと悲惨なものだった筈です。
最初の爆発から生き延び、爆心地からの脱出に成功した子供たちも、最終的には火傷のために皆亡くなってしまいました。
彼らは、焼け焦げてあちこち爛れた身体を引きずりながら、家族のもとに帰るため何キロもある道を必死で歩きました。家に帰り着き、家族に看取られて亡くなった子もいれば、道の途中で力尽きてしまった子もいます。火傷で顔が腫れ、名札がなければ誰かも分からないような悲惨な有様の子も多く、彼らは苦しみながら死んでいきました。
更には、どこでどのように死んでいったのか、未だに分からない子たちもたくさんいます。
皆、十二、三歳の少年たちです。
東京や大阪から、空襲がないと言われる広島に疎開してきた子たちも多かったそうです。

親御さんたちが、必死に我が子を探す様子には本当に胸が痛みました。
子どもたちにしろ、恐怖と混乱の最中、一人一人が生き残るために懸命に行動している様子がこれ以上ないほど伝わってきて、読んでいるのが辛いほどでした。
感情的な表現は少なく、淡々と綴られているのが逆に心に刺さります。
ページ上部に、生徒の顔写真や形見の写真などが貼られているのですが、難しい入学試験を突破してきただけあって、どの子も賢く、真面目で実直そうな顔つきをしています。この子たちがどうして、こんなひどい目にあって、苦しんで死ななければならなかったのか、それを考えるとやりきれない気持ちでいっぱいになります。

広島二中一年生、三百二十一人の生徒と四人の先生は、八月十一日の午前八時十分、最後の生き残りであった櫻美一郎くんの死をもって全滅しました。この櫻美くんは八月六日が誕生日だったそうです。
彼らの半分近くは遺体すら見つかっていません。
あとがきの後ろに名簿があり、第一から第六学級までの全一年生と、先生四人の名前が記載されています。

小学生でも読めるように、難しい表現は避け、漢字にもふりがなをふって書かれているので、ぜひ今の子供たち、特に小学校高学年から中学生くらいの子たちに読んでもらいたい作品です。
というか、読むべき、だと思います。
私は、唯一の各被爆国の国民として、広島・長崎の悲劇は知っておかなければならないことであり、決して過去の事として風化させて良いものではない、と思っています。
悲しいことに、私の周りには二県に原爆が投下されたのが何月何日かさえ知らないような人も少なからずいます。まあそれ自体はある意味現代の「平和」の表れでもあると思うので、そういう人たちの無知や無関心を責めるつもりはありません。けれど知識として、過去に何が起きたのか、核兵器がどれだけ恐ろしいものなのかは、知っておいて欲しいと思っています。
興味がある方は、ぜひ。

 

最後になりましたが、原爆死没者の方、戦争で亡くなった多くの方々のご冥福をお祈りいたします。
それでは今日はこの辺で。

 

 

 

 

【再読】  三島由紀夫『お嬢さん』 角川文庫

 

本日はこちらの作品を再読しました。

同作者の『愛の渇き』と迷いましたが、ドロドロした話よりはスッキリした話が読みたい気分だったので、こちらに決定。

あまり劇的な展開ではないものの、好きな作品です。

それでは早速、感想を書いていきたいと思います。

 

以下、内容についての記載あり。未読の方はご注意ください。

 

ヒロインである社長令嬢のかすみは、二十歳になる女子大生です。ちなみにかなりの美形。ノーメイクで出歩いても許されるレベルの美形です。
朗らかではあるものの思慮深く控えめな性格で、大人っぽい一面もあれば無邪気な一面もあり、まだ「少女」を抜け切らないような、複雑かつ繊細な心の持ち主です。ただ恋愛に関しては、この年頃の女性にしては珍しく、冷め切っています。

この物語の中心となるのは、そんな彼女の「恋愛」と「結婚」です。日々をぼんやりと過ごしていた彼女の心が、一人の男性によってかき乱されていく様子が丁寧に描かれていきます。
かすみのお相手である沢井は軽薄で遊び人風の男ですが、箱入りのお嬢さんがこういった類の男に興味を持ち、その興味が次第に形を変えていく、という流れには嫌にリアリティがありました。秘密の共有から始まる関係、というのもまた、かすみの高揚を煽ったのでしょう。
激しい恋ではなく、手探りの、健全で微笑ましい交際期間を経て二人は結婚し、新生活がスタートします。そして結婚してからのかすみは、沢井の女性関係を疑う、嫉妬深い妻に早変わり。

いやあ、やっぱり可愛いですね、かすみ。
このかすみちゃん、すましてはいるものの、根は負けず嫌いで意地っ張り、そして結構思い詰めるタイプ。思い込みが激しく神経質で、良くも悪くも「女の子」という感じです。はっきり言って面倒臭い性格の女だと思います。おしとやかに振る舞ってはいても、時折見せる気まぐれな一面、育ちの良さから来るプライドの高さ、傲慢さのせいで、「鼻持ちのならない女」だと感じてしまう場面も多々ありました。要は、根っからの「お嬢さん」気質です。
が、個人的には、かすみの魅力はこの部分にあると思っています。
クールを装っていても実は感情に振り回されている、って可愛くないですか。

まあさすがに、夫と兄嫁の関係についての邪推は、浅ましい疑念だと言わざるを得ません。
夫を信じ切れない気持ちは分かりますが、秋子さんに対してあまりにも失礼だったと思います。彼女が義妹の子供っぽい嫉妬も寛大に受け止めてくれる人だったのが幸いでした。
この兄嫁の秋子さん、聡明で察しが良く、気遣いも上手い、本当に出来た女性です。登場人物の中で一番好きですね。

かすみの夫となった沢井は、昔は確かに遊び人ではありましたが、結婚してからはかすみ一筋で、浮気もせず、心の底からかすみ一人を愛しているようです。これから先もずっとそうであれば良いと思います。

最終盤の、夫の過去の恋人・浅子とかすみの会話は何度読んでも良い場面です。
沢井を疑い続けるかすみを、静かに諭す浅子。
彼女の、「あなたのヤキモチは小細工ばかりで醜いわ。そんなの、ほんとに女の滓だわ」というセリフが好きです。さすが、振られたあてつけに新婚の家に押しかけ、投身自殺を図った女は言うことが違いますね。情熱的な彼女らしい発言だと思います。
かすみが吹っ切れるように手助けをするのが、元恋敵の浅子という展開がまた良い。浅子がこちらの言いたい事を全部言ってくれるので、最後は本当にスッキリしました。

ハッピーエンドで綺麗に終わるので、読了感も良い感じです。
会話文が多めでスラスラ読むことのできる作品です。ヒロインが育ちの良い「お嬢さん」なので、嫉妬する場面にしてもどことなく幼稚というか、厭らしさが少なく、全体的にテンポの良いカラッとした雰囲気があります。そこが気に入っています。
三島由紀夫の作品の中でも最も多く読み返しています。


それでは今日はこの辺で。
 

 

 

 

【再読】  H・P・ラヴクラフト『ラヴクラフト全集2』宇野利泰訳 創元推理文庫

 

前回に引き続き、本日もラヴクラフト全集を再読しました。第二巻です。

代表作の一つである『クトゥルフの呼び声』を含めて、全部で三つのお話が収録されています。

全ページ数の四分の三くらいは『チャールズ・ウォードの奇怪な事件』が占めていますね。

それでは早速、感想の方を書いていきたいと思います。

 

以下、内容についての記載あり。未読の方はご注意ください。

 

『クトゥルフの呼び声』
クトゥルフ登場です。何度読んでもわくわくするお話です。クトゥルフ神話世界、コズミックホラーへの導入作品としては、これに勝るものはないんじゃないでしょうか。
遠方より飛来した古き神々たちについての説明もばっちりなので、世界観を把握しやすいと思います。
同時期に世界各地で起きた以上現象、狂気と悪夢、太古から伝わる邪悪な宗教。情報が集まっていくにつれ、少しずつおぞましい真実が明らかになっていく過程は実に読み応えがあります。
【死せるクトゥルフが、ル・リエーの家で、夢見ながら待っている。】
呪文はこちらの訳が一番好きです。ルルイエという響きも不気味で良いとは思いますが。

好きな場面は何と言っても、海中からこのル・リエーが浮上してきた場面です。
緑色の粘液が滴る巨石の都。あらゆる線と形が狂っている、という部分の描写は少し想像するのが難しいですが、凹状の部分が次の瞬間には凸状になっている、というのは若干トリックアートっぽいと思います。錯視画像を立体化したような歪み方をしているのかもしれません。だとすると確かに相当気持ち悪いですね。

あの大祭司クトゥルフから逃げ切ったヨハンセンは本当に凄いです。私なら見た瞬間に発狂死しそう。巨体や触手は良いとして、中途半端に人型なのがちょっと生理的に無理。水生生物みたいな見た目の癖に、陸上を二足歩行できて、翼まで生えているのがずるいです。

そして主人公、真実を知って後悔しているにも関わらず、なぜ記録を残してしまうのか。遺言執行者が自分の二の舞になるとは思わないんですかね。


『エーリッヒ・ツァンの音楽』
こちらはかなり短いお話です。
登場人物もたったの二人で、「わたし」と、同じ下宿の屋根裏に住むヴィオル弾きの老人、エーリッヒ・ツァンのみ。
音楽に狂い、ヴィオルを掻き鳴らしながら暗黒世界に引きずり込まれて行ったエーリッヒ・ツァン。音と共に、異界への扉がふっと開く一瞬が、本当に恐ろしい。
あの町自体が存在しなかった、という落ちも含めて非常に不気味な作品です。


『チャールズ・ウォードの奇怪な事件』
チャールズ・ウォードという青年が精神病院から脱走した、というところから物語が始まりますが、これは一連の事件の結末、時系列的には一番最後の部分です。
その後から始まる、第三者による事件全体の振り返りが本編になります。ごく普通の青年であった筈の彼が正気を失い、精神病院に収容されるまでになった経緯が描かれていきます。
物語の中心にいるのは常にウォードかカーウィンですが、実質的な主人公は老医師のウィレットさんだと思っています。

作中最重要人物であるジョゼフ・カーウィンは、ウォード青年のご先祖です。異端禁制の書物を集め、怪しげな実験を繰り返す得体の知れない人物、年を取らないことから悪魔の使徒と噂された気味の悪い男。
この先祖に興味を持ってしまったことが、最終的にウォード青年の身の破滅に繋がりました。

突然、神秘学に傾倒し始め、自室に閉じこもって邪悪な研究と儀式に没頭するようになったウォード青年。何を考えてカーウィンを甦らせてしまったのかは不明ですが、滅多な事はするもんじゃありませんね。殺されてしまったのも半ば自業自得のような気がします。
この世界で血筋について調べ始めると、大体ろくな結末になりません。
クトゥルフ神話世界の人間たちは、なぜいつも後戻りできない所まで来てしまってから後悔するのか。

ストーリーの進行が遅いのと、遠回しな表現が多いため読んでいてもどかしいですが、そこがこの作品の味でもあります。

好きな場面はウィレット医師の地下探索です。
悪臭に満ちた竪穴の中で蠢く、多数の醜悪奇怪な化け物たちなどは想像しただけでもぞっとします。翌日には地下洞窟の入り口自体が跡形もなく消えているというのも怖い。
恐怖で死ぬ思いをした後にもまだ調査を続けるウィレット医師は勇敢すぎます。精神的にも肉体的にもタフすぎ。とても老齢とは思えません。彼をここまで突き動かすのは、ウォード家に対する善意と、医者としての使命感でしょうか。まったく主治医の鑑です。
ラストでは精神病院にいるウォード青年の正体が、彼に成り代わったカーウィンだと看破し、呪文でもって撃退しました。格好良いです。
もうこれは、主人公のウィレットが邪悪な黒魔術師を追い詰めて退治する話だと言っても過言ではないでしょう。さすが、カーターの友人であるだけのことはありますね。暗黒世界への耐性が強い。


以上、全三編でした。
一番短いのは『エーリヒ・ツァンの音楽』ですが、読みやすいのは『クトゥルフの呼び声』の方だと思います。後者の方が、恐怖の正体がハッキリしているのでより怖さが分かりやすいです。前者は、音と暗闇が織りなす不気味な雰囲気というか、悪夢のような捉えどころのない恐怖を楽しむ作品といったイメージです。
『チャールズ・ウォードの奇怪な事件』は、細かい部分まで想像しながら、ゆっくり時間をかけて読むのが楽しいです。敵は一応人間なので、それほど怖くありません。推理小説のような感覚で読むことができる作品です。
どれも少しずつテイストが違い、それぞれに違った面白さがあるので、飽きずに一気に読めてしまいます。
本日も良い読書時間を過ごすことができました。
それでは今日はこの辺で。
 

 

 

 

【再読】  H・P・ラヴクラフト『ラヴクラフト全集1』大西尹明訳 創元推理文庫

 

本日はこちらの作品を再読しました。

クトゥルフ神話、大好きです。作品としてはラヴクラフトのものが一番好きですね。

何度も読み返しているので、表紙が若干ボロボロです。

それでは早速、感想を書いていきたいと思います。

 

以下、内容についての記載あり。未読の方はご注意ください。

 

『インスマウスの影』
主人公の「わたし」による一人称小説です。
薄暗く陰気で、排他的な港町のインスマウス。
地図にも載っていない町、というのがもう既に不穏です。荒廃しているのに魚だけは山ほど獲れる、という異様さ。聞こえてくる噂も不気味なものばかりで、まともな神経の人間なら、訪れようなんて気も起きないような不吉な土地です。が、主人公の「わたし」は好奇心の赴くまま、単身でそんなインスマウスを訪ねます。血は争えないというか、何か引かれるものもあったのかもしれません。

死の影がちらつく、荒れ果てた街。醜く生臭い住民たち。文字を追っているだけで嫌な気持ちになるくらい、この街の気味の悪さがこれでもかと強調されています。
聞き込みをしたザドック老人の喋りが上手すぎるのも、余計に恐怖を煽ってきます。主人公に知りうるすべてのことを話してしまったザドック老人ですが、彼がその後どうなってしまったのかはあまり考えたくありません。
そしておぞましい秘密を知ってしまった主人公の方も、町に住む「何か」たちから狙われることになってしまいます。不気味な夜の町を、追ってくる異形の者どもから死にもの狂いで逃げ回る場面は、逃げ切れると分かっていてもいつもドキドキしてしまいます。

まあ個人的には、より怖いのはインスマウスを出てからの方だと思っています。インスマウスで見た、人と海底に住む怪物たちとの混血であるあの異形の者ども。彼らと自身の生まれの真実を結びつけてしまった主人公が、少しずつ狂気と悪夢に飲み込まれていく様子は、何度読んでもぞっとします。何かに絡め取られて、そのまま暗い海の底に引きずり込まれるような、そういった重苦しい恐怖を感じさせる作品です。


『壁のなかの鼠』
こちらも一人称小説です。
不吉な悪の一族の血を引く主人公(本人は普通の人)は、初老になってから何を思ったのか曰く付きの祖先伝来の屋敷を買い取り、そこで余生を過ごすことにしました。
しかし、引っ越して早々、壁の中を移動する夥しい数の鼠の気配に悩まされることになります。夜毎に彼の眠りを妨げる鼠たち。しかし、その鳴き声も足音も、「わたし」と猫にしか聞こえません。

彼が見る悪夢が非常に印象的です。
汚物で満ちた洞窟、魔物の豚飼いとぶよぶよしたけもの、何もかもを食い尽くす鼠たち。

白ウサギを追って穴に落ちたアリスよろしく、壁の中の鼠を追って地下室の更に地下、人骨にまみれた薄暗い洞窟に降りた主人公は、そこで仲間と共に、ド・ラ・ポーア家の忌まわしい歴史を読み解いていくことになります。ここが物語のピークですね。カタカナが羅列されだしたあたりで、もう主人公のSAN値はゼロです。
現実と幻が入り乱れ、何が何やら。結局鼠たちは実在したのか。語り手である「わたし」が正気を失っているため、読み手にも何が真実なのか判断できません。確かなのは、彼が祖先から受け継いだ人肉食いの衝動を抑えられなかった、ということくらいでしょうか。ノリス大尉は災難でしたね。
前話にしろこちらにしろ、遺伝的な問題というのはもう、当人にはどうしようもないことだと思うのですが、どうなのか。


『死体安置所にて』
うっかり死体と共に死体安置所に閉じ込められてしまった葬儀屋・バーチの恐怖体験。こちらに収録されているものの中で一番短いお話です。
日頃の不真面目さの報いを受けた形なので、ある意味自業自得というか、それほど怖くは感じませんでした。


『闇に囁くもの』
若干SF的な趣のある作品です。
登場する怪物は、金属採掘のために別の惑星(冥王星)からやって来た者たちで、見た目は翼のある蟹です。実際は菌類らしいですが。
人間を殺戮するようなことはありませんが、深い森の奥に潜み、じっと人間世界を観察しています。ラウンド山は彼ら宇宙種族の前哨基地だそうです。今のところ地球を征服しようなどという動きは見られないものの、彼らの真の目的などは一切不明で、不気味です。

彼ら宇宙人についての研究をしている男・エイクリーと、それに興味を持つ主人公の文通、という形で物語が進んでいくのが特徴的です。面白い手法だと思います。秘密を知ってしまったエイクリーに迫る危険。徐々に忍び寄る宇宙人たちの魔の手。夜毎に近付いてくる彼らの気配に対して必死に抵抗を続けるエイクリーの恐怖が、手紙のやり取りを重ねるごとにどんどん強まっていく様子が巧みに描かれています。送られてきた筈の手紙、こちらから送った筈の手紙が何度も途中で行方不明になっているのが怖いです。どこまで宇宙人に監視されているのか、考えただけで背筋が寒くなります。

最終的に二人とも生き延びはしているものの、エイクリーは人間ではなくなってしまいました。宇宙人の仲間というか、手下というか。脳髄だけが円筒に入れられ、保存されている状態です。この状態で翼を持つ者たちに運んでもらい、遠い暗黒の宇宙を旅するそうです。あまり楽しそうではありませんが、まあ、エイクリー本人がそれで幸せなら良いんじゃないでしょうか。
常識的な人間が、未知の種族や彼らの行いに対して嫌悪感を抱くのは当然のことでしょうし、その場を逃げ出した主人公の判断自体はごく正しいものだったと思います。君も脳髄だけになって一緒に宇宙旅行に行こう、と言われて、躊躇いなく「はい」と答えられる人間の方が少数でしょう。ちょっと心配になるくらい好奇心旺盛な主人公でしたが、まだ理性は残っていたようで安心しました。

このお話に登場する種族は、人間と交信したり、複雑な機械やら手術やら、地球上にはない高度な技術を有しているあたり、「怪物」というより「宇宙人」感が強いんですよね。邪神のような禍々しさ、目にしただけで発狂するような異様な存在感は薄めです。彼ら自身が、より邪悪な存在(シュブ=ニグラス)を崇拝する立場なので、逆に言うと彼らよりもずっとおぞましく強大なものが多数存在しているということでもあり、そこが恐怖のポイントだと思います。
見た目の気持ち悪さは「インスマウス面」の方が上なんじゃないでしょうか。


以上、全四編でした。
どれも好きな話ばかりです。
『インスマウスの影』のダゴンの宝冠や、『闇に囁くもの』のラウンド山の黒い大石など、神秘的でありながら見るものを不安にさせるような、この世のものとは思えないグロテスクな遺物の描写が特に好きです。説明を読んでも全然想像がつきませんが、それを自分で想像してみるのがこの小説の醍醐味だと思っています。

全集本の古い怪奇小説、と言うと少しとっつきにくい印象ですが、訳が非常に読みやすいので、興味のある方はぜひ。
私の主観ですが、ポオの怪奇小説よりは万人受けすると思っています。

それでは今日はこの辺で。