【再読】 広島テレビ放送 編『いしぶみ 広島二中一年生 全滅の記録』 ポプラポケット文庫
本日は八月六日、広島平和記念日です。
それに因んで、こちらの作品を再読しました。
広島テレビ放送制作の過去作品である、「碑」というドキュメンタリー番組の草稿をもとにして書かれた一冊です。
「はじめに」は元社長の吉野友巳さん、「あとがき」は番組の元プロデューサー・薄田純一郎さんによって書かれています。
タイトルの通り、原爆死没者とその遺族について描いた作品となっています。
以下、内容についての記載あり。未読の方はご注意ください。
この作品は、八月六日の原爆投下で亡くなった人々の中でも、当時まだ子供だった広島二中の子供たちについて取り上げて記録したものです。彼らが戦時中にどのように暮らし、そしてどのように死んでいったのか、遺族の方などの証言をもとに、詳細に記されています。
原爆から五百メートルの距離にいた彼らは、それが爆発する瞬間を目撃しました。
多くの人が一瞬で黒焦げになり、爆風で吹き飛ばされ、瓦礫の下敷きになりました。この瞬間だけでおよそ三分の一の生徒が焼け死んだそうです。なんとか生き残った子たちは、燃える砂から這い出し、近くの川に向かって必死で逃げましたが、その途中で力尽きた者や、川の中で溺れてしまった者も多くいたといいます。
あたりは一面火の海、周りからは同級生たちのうめき声や父母を呼ぶ声が聞こえる。想像するだけで恐ろしい光景ですが、実際は文字で書かれているよりもずっと悲惨なものだった筈です。
最初の爆発から生き延び、爆心地からの脱出に成功した子供たちも、最終的には火傷のために皆亡くなってしまいました。
彼らは、焼け焦げてあちこち爛れた身体を引きずりながら、家族のもとに帰るため何キロもある道を必死で歩きました。家に帰り着き、家族に看取られて亡くなった子もいれば、道の途中で力尽きてしまった子もいます。火傷で顔が腫れ、名札がなければ誰かも分からないような悲惨な有様の子も多く、彼らは苦しみながら死んでいきました。
更には、どこでどのように死んでいったのか、未だに分からない子たちもたくさんいます。
皆、十二、三歳の少年たちです。
東京や大阪から、空襲がないと言われる広島に疎開してきた子たちも多かったそうです。
親御さんたちが、必死に我が子を探す様子には本当に胸が痛みました。
子どもたちにしろ、恐怖と混乱の最中、一人一人が生き残るために懸命に行動している様子がこれ以上ないほど伝わってきて、読んでいるのが辛いほどでした。
感情的な表現は少なく、淡々と綴られているのが逆に心に刺さります。
ページ上部に、生徒の顔写真や形見の写真などが貼られているのですが、難しい入学試験を突破してきただけあって、どの子も賢く、真面目で実直そうな顔つきをしています。この子たちがどうして、こんなひどい目にあって、苦しんで死ななければならなかったのか、それを考えるとやりきれない気持ちでいっぱいになります。
広島二中一年生、三百二十一人の生徒と四人の先生は、八月十一日の午前八時十分、最後の生き残りであった櫻美一郎くんの死をもって全滅しました。この櫻美くんは八月六日が誕生日だったそうです。
彼らの半分近くは遺体すら見つかっていません。
あとがきの後ろに名簿があり、第一から第六学級までの全一年生と、先生四人の名前が記載されています。
小学生でも読めるように、難しい表現は避け、漢字にもふりがなをふって書かれているので、ぜひ今の子供たち、特に小学校高学年から中学生くらいの子たちに読んでもらいたい作品です。
というか、読むべき、だと思います。
私は、唯一の各被爆国の国民として、広島・長崎の悲劇は知っておかなければならないことであり、決して過去の事として風化させて良いものではない、と思っています。
悲しいことに、私の周りには二県に原爆が投下されたのが何月何日かさえ知らないような人も少なからずいます。まあそれ自体はある意味現代の「平和」の表れでもあると思うので、そういう人たちの無知や無関心を責めるつもりはありません。けれど知識として、過去に何が起きたのか、核兵器がどれだけ恐ろしいものなのかは、知っておいて欲しいと思っています。
興味がある方は、ぜひ。
最後になりましたが、原爆死没者の方、戦争で亡くなった多くの方々のご冥福をお祈りいたします。
それでは今日はこの辺で。