あらためて最近気になることもあったので
リブログというよりも、少し追補改訂して再掲することにしました
ここ数年、読んでいる本の主題がこの世のものでないもの
神とか妖の物語がたくさんあります
そのなかで繰り返し言われていることが
どんなに私達の及ばない力を持っていても、私達の信仰がなくなれば
私達から忘れられ、意識されなくなり、名も知られなくなれば、
存在できなくなる!
逆に、私達が何かを認知し、認識し、それを記憶に留め、他の人と共有するには
そして存在するには
言葉が必要です!
わたしは、思いを形作るのには言葉を必要とします
もしすべての概念、事象を、ぜ~んぶ自分で定義できるのであれば
自分でそれに合う言葉を産みだしますので、それはそれで構わないのです(^O^)
ですから自分の創ってきたシステムでは、新しく造語したり
すでにある言葉でも、そこに新たな意味を与えた言葉群を
✖✖語といって、使っていました
しかしながらすべてのことに対して、自分だけでは定義することはできない!
できない事象が存在します
そしてそれが自分自身に現れたことに対して、定義できない、表現できない
となると、心は大きく揺さぶられることになります
その一つが、わたしの”女の子になりたい”想い ・・・・”戻りたい”ではないのです
小学生の頃に意識しだして、ず~っと思いのすぐ下に隠し持っていた心
なぜなのか? どうしてなのか? は、わからずじまいだったけれど
ず~っとその思いを抱えて、その時々で、母の下着を身に付けたり
何件ものお店をめぐって、やっと田舎のお店に飛び込んでの初めて購入した下着
そのうち行きつけのお店で、メイク用品やら下着にお洋服を購入しだしたりしました
そうした中で初の女装誌「QUEEN」を、まだ季刊誌だったころに知って
あとでバックナンバーも全部そろえて
創刊号から廃刊間近まで、はじめは西日暮里で、後に名古屋で購入し続けました
この時、世の中ではぜ~んぶひっくるめて「女装者」
もちろんこの時代には既に「おかま」や「ゲイボーイ」「ブルーボーイ」という言葉はあり
「ニューハーフ」という言葉が生まれ、定着しつつある時代でした
上の子も教わったM先生も、このころはカリスマ女装者で論客の一人
後に自らも女装することをカムアウトした作家さんも・・・・好きなお話を書かれていました
このころはまだかくしていたり
今だったら男の娘として有名になったであろう方も一女装者でした
多くのことを「QUEEN」誌で教えてもらいました
でこの時代には、私達素人を表す言葉は「女装者」しかなかった
当然わたしも”わたしは変態女装者”と思うしかなかったのです
それでしか、自分の想いをこなすことが出来なかったのだから・・・
わたしが結婚する時も、彼女にはそう伝えていました
わたしは、それで伝わったと思っていたのですが
彼女はそうではなかったのです(*_*;
それで後に「勝手にRLE」として、家を出ることになったのですが・・・
それがさらに時が経ち、埼玉医大で法令順守下でのSRSが行われ
金八先生で上戸彩がFTMの生徒を演じ、特例法が施行されて
「GID:性同一性障害」という初めての言葉に触れたのでした
この時点で、もう結婚はしていたのです(*_*;
医大での手術時にはまだ子供がいませんでしたが
特例法が出来た時には子供もいました
もし結婚前でしたら、多分結婚はしていないのかな???
その時は”ああ、これでわたしが何者かが分かったのか”と思ったのですが
その言葉の意味を知るようになると、近くにはいるのだろうがなんか違う!
特に当時は「中核群」「周辺群」という言葉が横行していて
中核群の”自分の性に対する違和感というよりも
”拒否感が協調されている”ことに対して
何かが違っていたのでした
それで一時は、”わたしはなにか?”という思いに決着がつくかと思ったのですが
またさまよいだしたのです
これがわたしのハンドルネームの由来です
その後松永先生を知り、その先生の論文(SS181)から
”自分らしい独自の生き方を創造する中で
ジェンダーを人格の性的側面と捉え
性同一性を自我同一性へと統合していく”
という先生の考え方に触れ
DMS-Ⅴでの”割り振られた性別とは異なる他の性への思い”という
GIDからGD(Gender Dysphoria):性別違和への解釈の変更に伴って
わたしはやっと自分を定義する言葉を、自分で持ったのでした
このあたりのまとめは、私が会社に改名届する時に、併せて提示した資料
ー在職トランスをスムーズに行うためにー に書いています
わたしは、自分の想いが定義さえされれば
あとは迷うことなく歩み続けることが出来ます
その意味では私のメンタルはかなり強いと思います
だからこそ、わたしは「私の言葉」をいつも求め続けています
すべてのことを定義づけていきます
結果、わたしは私の過去を振り返った時
ほとんど右だ左だとふらつくこともなく、遠回りはしても一本の道を
少なくともそういう風にこじつけられる範囲で生きてきました(^O^)/
中学一年の時、日本短波で聞いていた「電子計算機講座」
途中で対象がHWからSWに変わったけれど
社会に出て50年、たゆまず創り続けて天職になりました
わたしのジェンダーと対をなす、もう一つの私の側面です
そうなんです実際に改名する何十年も前に
その時は将来本当に改名できるなんて思いもしない時にでも
その時々で最大限やれることとして
その名前での通帳やクレジットカードまで作っていたのですから(^O^;)
わたしは、結婚した時に彼女の求めに応じて彼女の姓にしたし
トランスに当たっての戸籍の届け名は自分でつけたので
親からもらった姓名は、いずれもなくなりました
そうはいっても、わたしの新しい名は
自分の定義した言葉で、自分の心を納得させられたならば
わたしは、それで十分
次のステップも迷うかもしれませんが
少なくとも悩まずに
踏み出していくことが出来ます
そしてわたしの生き方は、先ず”想いありき”
想いなくして、ただ無闇に動いても、ただウロウロするだけ
しかしながら、想いがあっても動かなければ、何も成し遂げられません
それは想っていないのと同じこと!
想い、走ることで、創られる のだと思っています
私のPIキャッチです
これをベースに、先日は”なんちゃって戒名”まで作ってしまいました
想いさえあれば、あとは迷わず進んでいくことが出来ます
いつか到達できると信じて(^O^)
そしてわたしは 夢想者であるとともに、とっても現実主義者!
女♀になりたいと思っても、(見てくれは多少は近づいても)
女♀にはなれるわけがない! (これも各人の言葉の定義です)
いつしか、IPS細胞から子宮が創られかもしれませんが
わたしの生きているうちには・・・
でも特例法が出来
女性性で生きることは、公に認められ
実現可能な具体的な目標になります
達成できる目標なら、人よりも時間がかかろうが
切れずに続ければ、いつしか達成できます
できることを目指す!
なかなか”このできること”というのを見極めるのがむずかしいのですがね・・・)