直近一回りを顧みる | わたしの夢はどこに・・・

わたしの夢はどこに・・・

私ってなに?本当にGIDなんだろうか?まだまだ彷徨っています。
その中で多くの方のブログを見させていただいて、いろいろなことを教えていただきました。
このブログは自らの心の整理と、一つの事例として他の方の参考になったらお返しになるかな
と思って開きました。

今年はわたしの干支! ・・・・ ちなみに、上の子も同じ干支です(^O^)/

                 四回り違いですが(^O^;)

                 小さいころには「お父さんと同じ守り神様だね!」

                 と言っていました

先日の誕生日の時に、この一回りを振り返ってみようと思っていたのですが

  うまくお時間が取れなくて、できませんでした

 

わたしのトランスは移行の直接的な行動はこの12年間に収束しています

  またこの12年は最後の会社に勤めた期間でもあり

  在職トランスして、曲がりなりにも天職と思えるお仕事を想いの性で成し遂げる”ことに

  チャレンジした期間でもありました

 

わたしは元々結婚前の30代の頃から70まではお仕事していたいな、と思っていました

  それが人様よりはずいぶんと遅くはなりましたが、縁あって結婚し

  コウノトリさんのナビが狂っていたようで

  少し遅くなりましたが二人の子供達にも出会えました

わたしは貧しくても、当時の月授業料1000円という施策のおかげもあって

  大学まで出られました

  あの四年間は自分の人生において、とっても素晴らしい四年間だと思っていますので

  出来たら子供達にも、親や社会の束縛から一番緩やかな

  あの四年間を過ごして欲しいな、と思ったのですが

  そうすると子供たちが社会に出るのはわたしが72!

  いずれにしても元々70までは働くつもりだったので

  72そのものは問題ないのですが

  ”子供たちのために72まで働く”と思うと

  どうしても”私がお前たちのために、こんなにがんばっているのに”と思ってしまうので

  あくまでも子供たちのためではなく、自分がやりたいからであって

  そのための一つの目標として、もう一人の私の子供であるシステムが50年になる

  78まで頑張ろうとしたのです

 

そうしたことを自分史的に年代を追って振り返っていきます

 

前の会社では、その所属しているグループ企業体での枠組みで

  60歳定年で、その後65歳までの継続雇用制度がありました

それで前回の私の干支2009年の12月に定年となり

  そのまま雇用継続に移行しました

  ちなみに私自身は中途採用ですが、ちょうど20年勤めて

  わたしがその会社での第一号定年退職者でした(^O^)

ただ、定年の前年に最後に勤めた会社から

  「定年になったら、内に来ないか?」と声をかけていただいていたのですが

  その時に前の会社に私のやってきたお仕事を、今後も継続するのか?」と聞いたところ

  「継続するつもりです」とのことだったので、雇用継続をお願いしていたのです

ところが、いざ12月に定年になり、来月の1月から継続雇用になる時に

  来年の営業方針として、私のやってきたお仕事は継続しない方針が出されたので

  それでは、わたしが居る意味がないので、すぐに転職手続きに入りました

  社長は怒っていたそうですが、そうは言っても前提条件が変わったのだから・・・

  でも実際に転職したのは、仕事の区切りをつけるために、10か月後でした

 

その翌2011年に、、いろいろあって、もう我慢がしきれずに家を出ようとしたのですが

  この年は、上の子の高校受験の年

  それほど受験勉強をしていたとは思わないのですが

  それでも余計な悩みを増やさないように

  家を出るのは一年先延ばしして、一年間自分の気持ちを確かめました

ただ何もしないのも時間がもったいないので

  今後必ずやらなければいけない脱毛と

  フライングですが1A/4Wでデポ注を開始しました

 

そして翌2012年、上の子の高校が決まって、その近くに家を借り

  GW直前の4/28、会社から帰って、奥さんと子ども二人を集めて

  「女の子になるために家を出る」と、勝手にRLEを始めました

わたしはその時にすべてを手放すつもりで離婚届を彼女(元奥さん)に渡したのですが

  彼女としては、子供たちが社会に出るまで、少なくとも成人になるまでは

  籍はこのままにしておきたい、と言うので

  この段階では離婚とはなりませんでした

 

まったく見ず知らずの地縁も血縁もない地での暮らし

  プライベートの場では少しずつ女性性での生活を始めました

そして独り暮らしを始めて一年

  翌2013年にはいろいろなものを本格的に始めました

 

先ずは2012年の7月に、自助グループのGIDしずおかのフォーラムに参加したのですが

  そのあとも非会員で毎月の定例会には参加していたのを

  翌1月に正式に会員になりました

ここでのお話のこともあって

  ガイドラインに沿ったカウンセリングを6月に始めました

  その前後して,このブログも始めました

そしてこのブログを通して

  この地に転勤で来ていて、同じようにこれから始める方とお友達となり

  その後は互いに影響しあいながら、改名/会社へのカム/除睾/SRSと進みました

  彼女との関係が

  それぞれ自分達の想定よりも早くトランスが進んだのではないかなと思います

 

カウンセリング自体は順調に進み

  8月には家裁での改名申請も通り、誕生日に合わせて役所に改名届を出しました

  そして10月には、会社に改名届という形で

  在職トランスのためのカミングアウトをしました

 

この年2013年はGID絡み以外でも

  ヨガ/リンパマッサージ/メイク教室等、いろいろな講座に参加しだしました

  また一年間の早朝ウォークから、6月にランに切り替えたのですが

  はじめは100mを走るのがやっとだったのが

  8月には10kmに延ばし10月には10km70分の最初の目標をクリアして

  12/30にはハーフの距離を走られるようになりました

 

翌2014年の2月には

  前年に改名した結果、健康保険証の被保険者名が変わるのに彼女が耐えられず

  二人そろって正式に役所に離婚届を提出してきました

そしてこの年の誕生日に

  ”本来のSRS”である除睾手術をHRTの主治医の先生にしてもらいました

 

この年2014年は本格的にマラソンにエントリーしだし

  2月の初エントリーは、浜松シティマラソンの5km

  4月に秋葉さくらマラソンの10km

  そして6月には、ハーフ最高地点マラソンのヴィーナスマラソンを完走

  10月にも諏訪湖マラソンで完走し、そのタイムは練習時を含めてハーフ自己最高でした

      この時には、部門順位ですが50位と言うことで

      完走者リスト以外の上位者リストにも載っちゃいました

 

そしてこの年には、パ-ソナルカラー診断を受け

  静岡市の公民館活動以来何十年ぶりに

  県の生涯学習講座の「薬膳料理教室」に参加しだしました

 

翌2015年は、GID絡みでは特には特記するようなイベントはなかったのですが

  翌年のSRSに向けてのカウンセリングが続いていました

ここでわたしのカウンセリングは

  次の3人の先生方にお世話になりました・・・・HRT主治医の先生

  最初は、亀谷先生に13年6月から14年3月の期間で9回行っていただいて

    改名、会社への届け、除睾での承認審査を

  次にSRSのためのファーストとして針間先生に

    14年8月から15年6月の期間で10回

  セカンドとして松永先生に

    15年7月から16年3月の期間で7回を受けました

 

この精神科専門医によるカウンセリングについての是非にはいろいろな意見があり

  単に書類を整えるために一回で診断書を出してくれたり

  セカンドはついでだったりするケースもあります

ただ私の場合は、3人の先生はみなさんそれぞれがGIDについての見識があり

  それなりの症例数を経験した方ばかりなのですが

  私はそれなりの期間と回数をかけています

しかしながら、ブログを拝見していると

  その同じ先生が一年でも二年でも、10回でも20回でも、継続診察していたりします

  この差はなにかというと、それは受診者の心が定まっていないのだろうな、と思います

 

針間先生が言われているように、、GIDは自己申告であり

  「先生、私って何でしょうか?」と聞いて

  先生が「君はGIDだよ!」と言ってくれるものではないのです

そうではなくて、先生方はこの患者がトランスしてから迷わないかを見極めているだけで

  それが感じられない間は、診断書を発行しない、ということなのだと思っています

 

そして翌2016年5月にやっとSRSをナグモGIDセンターで行いました

  わたしは歳が歳ですので、この先使うこともないだろうし

  どこまで行っても♀になれるわけでもなく、女性性で生きていければよいだけなので

  コストやお仕事を中断する期間のことも考えて

  造膣なしで”形態のSRS”を行いました

 

またこの年のGID学会は東京大会で、大会長が松永先生だったこともあり

  「当事者が語る、仕事、家族、人生」というテーマ

  中高年当事者6名のうちの一人として

  登壇して、お話させていただいたことは、とても良い思い出となりました

  この大会には上の子も参加してくれたりしたし・・・

 

この年、SRS前には練習ベースですが、名古屋ウィメンズマラソンの関門時間もクリアして

  抽選も通って、ティファニーのペンダントを目指していたのですが

  事務局といろいろと話し合って、結局はDNSしてしまいました(-_-;)

SRS後は半年間のドクターストップもあり、なかなかモチベーションも上げられず

  その後はよく翌々年のシティマラソンの5kmと、さくらマラソンの10kmだけで

  ハーフには一度も参戦できずに、ずるずるとレースからは遠のいてしまいました(^O^;)

 

習い事としては、いつか自分で振り袖を着たいと

  着付け教室に通い出しました

  この後いくつかの市の講座や、着物屋さんのイベントに参加して

  練習を繰り返してきたのですが

  お家での復習はしないので、なかなか身に付きませんでしたが

  先日の最終講習で、なんとか独りで着付けられるようになりました(^O^)/

 

そして下の子が成人になる、翌々2018年には

  下の子の誕生日に戸籍の改性申請を家裁に提出しました

  その後は7/10に審判が通った通知があり7/26に戸籍が変わりました

 

これでわたしのGIDに関する手続きはすべて終わりました

  後はそのことの上でいかにわたしが想いの姓を生きていくかを試されているのだと思います

お仕事での多くは、以前からの(長い方は40年以上)お客様とのやり取りなので

  会社の方針もあり、なかなか完全なる女性性での立ち振る舞いは難しいのですが

  トランス後にお付き合いを始めた新しいお客様の処では

  女性としてお仕事させていただいています

それも昨年の誕生日、”子供体が社会に出るまで”と言うのには半年ほど早かったのですが

  一区切りとして半世紀に渡った会社人としての生活から抜けました

 

この会社人リタイヤの一年前の2019年10月に、彼女からのお誘いもあり

  この間に彼女のご両親が亡くなって

  空き家になっていた隣の家に戻ってくることになりました

  これで7年半に渡った「勝手にRLE」も終了です

 

今年2021年の春には下の子も社会人となり、家を離れました

  しばらくは子供たちはそれぞれが社会での居場所作りに注力しなければなりません

  この先もしばらくは親のことを気にしないでもいいように

  親は親同士で互いに様子を見あって、子供たちが心配しないでもいいように

  のんびりと、自分らしく、生きていこうかと思っています

 

これまで書いてきたように

  わたしのトランスは、すべてのことが還暦以降でのお話です

もちろん、わたしにしても今が20代、せめて30代ならば

  と思わないではありません

  でも過去にも何度も書いてきていますが

  この生まれ時期だから、これが5年早くても、5年遅くても

  いまのわたしのお仕事はなかったのだろうなと思っています

その意味では天職を見つけたわたしには後悔はないし

  GIDのわたしも還暦以降でのトランスでも

  ギリギリ間に合ったのだと思うので

  まっ、よかったかな、と思っています

 

今日は、明日より早い!

  トランスにもう遅いはないのだと思います

  自分を見つめ

  できないこと探しをするのではなく

  どうしたら出来るのかを考え、行動していきましょう(^O^)/

 

【注記】 青太文字部分は元記事が参照されています

        その部分をWクリックしていただければ、当該記事にジャンプします