センテンスサワー -35ページ目

センテンスサワー

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感想もお待ちしております!!

前回の劇場版から17年経ち、完全新作として先日公開となった。一週間もしないうちに動員数が100万人を超え、ドラゴンボールの根強い人気には驚かされた。

原作・キャラクターデザインは鳥山明が担当しているらしく、ますますワクワクすっぞ。「神と神」という意味深なタイトルもシズル感をそそる。ますます、見たい、見てえ、見てえぞ。

さりとて、内容は見てみないとわからないし、足踏みしてても始まらないし、戦闘力も上がらない。それならそうと一刻も早く見るしかない。


てな感じで、映画を鑑賞してきました。

まあ、ネタバレしないように気をつけて感想を書こう。

まず、全体的コメディ(ギャグ)要素の強い内容だった。いい意味でアラレちゃんぽい感じかな。ドラゴンボールの世界観やキャラクターの設定を上手く利用し、緊張と緩和で笑い誘い、ファンの期待を裏切らない程度に世界観を壊した感じかな。

それでも、戦闘シーンは迫力あったし、ノスタルジックな場面もところどころあったし、個人的には満足だな。



ドラゴンボールの魅力を一言で語ることはすごく難しいけれど、強いていうならば、あらゆる敵を包摂していく共同体としての魅力である。

ついこの前まで殺し合いの戦いをしていた者同士が、新たな強敵が現れると手を取り合い仲間となる。家族になることだってある。その不思議さと不条理さがぼくは大好きだ。

知らない人はいないと思うけど、サイヤ人は宇宙人であり、地球人ではない。それを知らずに悟空と結婚したチチはまだ理解できるが、ブルマはそれ(ベジータが宇宙人ということ)を知った上で結婚し子供を生んでいる。この差別意識の無さは異常であり、セクシャル・マイノリティとして片付けたら元も子もないが、性愛を超越しているとしか思えない。

それでは、なぜ彼らは差別意識がないのだろうか?

それは利害関係の無い繋がりであることと、孫悟空という抑止力が関係している。つまり、孫悟空が強い存在であることで平和が担保されているので、差別する必要が無いのである。

今作品でも、孫悟空の成長がテーマであることは間違いないし、最後の最後まで見応えたっぷりである。ドラゴンボールを初めて見る人はどんな印象をうけるだろう。面白いと感じるのか、???なのか。まあ、とりあえず、見てほしいかな。

以上。

昨日、久しぶりに友だちと会い、近況報告から始まり、ぺちゃくちゃと朝方までくっちゃべった。

脈絡なく話すこともあれば、真剣に語り合うこともあり、本音で話すことで自分の考えを整理できたし、対話の大切さを改めて実感した。

夢というか、今後の展望というか、互いのビジョンというか、そんなことを語ることってすごく恥ずかしいことかもしれないけど、ぼく的にはモチベーションが上がったし、やらねば感に苛まれている所存でございます。

まあ、内容に関しては云々かんぬん、斯く斯く然々ということで。



反省点をあげるなら、自分の意志を的確に表現できないことのもどかしさがあったり、説明過多になり、言葉数が多くなり過ぎていたことがすごく悔やまれる。

ぼくの悪い癖で、窮地に陥ると少しづつ論点をずらしたり、言葉数でごまかしたりしてしまうことがあるから後で後悔するんだよね。

難しい言葉を使おうとすることも反省だなww

もっと的確な言葉を使って、端的に説明することが出来れば、さらなる成長が期待できると思う。



てことで、今後重要だと思うことを箇条書きしてみよう!!

・自分の考えを深く掘り下げていくことも重要だけど、それを他人に話すことで違う意見を取り入れたり判断(確認)することが重要。

・抽象的な表現は誤解を招きやすい側面があるため、できるだけ実体験を話したり、具体的に話す。

・下ネタは丑三つ時の前後二時間程度が望ましく、百四十文字までとする。ち◯こはいいけど、ま◯こはダメ。お○ぱいはイントネーションによって何度使ってもOK。チクビは文脈によってOKだが、ネタバレ注意(伏線で使うことは許可する)。サンバのリズムにのっている場合、ア◯ル(アヒルではない)と大声で叫ぶことが可能。

ということで、上記のことに気をつけながら、またデ○ベートしましょう!!

以上。

日常生活の中で、「ブス」や「デブ」などの言葉をぼくらは当たり前のように使っている。

この言葉の中に含まれているのはもちろんネガティブなものであって、「ブス」や「デブ」と言われて傷つかないはずがない。

だが、この言葉を使って誰かを傷つけたとしても、大して咎められることもなく、ひとつの表現方法として片付けられてしまう。

差別的な発言として認識されることもなく、誰かが傷ついて終わるだけ。

どちらかと言うと、言われたほう(ブス・デブ)に責任があるといった風潮すらある。

「ブス」や「デブ」にしてみれば、たまったもんじゃない。



なぜ、「ブス」や「デブ」は差別的な発言とされないのか、考えてみたいと思う。

現在では、放送禁止用語や差別用語など、人権団体などの圧力で日に日に規制は厳しくなってきている。

公の場でキチガイ、カタワ、コビトなどと決して発言できない。

それは歴史的な背景があり、現在でもこの言葉によって、傷つく人がいるからである。

そしてこれらに該当する人々はマイノリティであることがあげられる。

つまり、偏見や差別の対象とされやすく、社会的に弱い立場に置かれてしまうのである。

そして、マイノリティであるがゆえに、マジョリティから理解を得られず、社会的弱者とされてしまうのである。

そのため人権団体のちからが必要となり、規制することが解決への対策なのである。

それでは、「ブス」と「デブ」に話を戻して考えてみよう。


「ブス」と「デブ」はマイノリティか?

これは個人的な見解だけど、マイノリティではないと思っている。

むしろマジョリティではないだろうか。


町を歩けば「ブス」と「デブ」に出くわすし、三人に一人はそれである。というのは個人的な見解だけれど。

けれど、本当の「ブス」と「デブ」に、「ブス」と「デブ」とはいえないのも事実。

本当の「ブス」と「デブ」はマイノリティであるにちがいないし、その定義が曖昧で、どこからどこまでが「ブス」と「デブ」かも疑わしい。

「ブス」や「デブ」と面と向かって言えるならば、それは正真正銘市民権を得た「ブス」と「デブ」であり、傷を舐めなう同士がたくさんいるのである。

だから、あえて差別用語にもならず、愛嬌のある言葉として存在しているのである。

つまり、市民権を得た差別用語なのである。



で、ここからはキチガイという言葉について日頃から抱いている不満を書こうと思う。

単刀直入に言うと、キチガイという言葉が差別用語であることに不満である。

キチガイという言葉の響きのおもしろさ、言葉としての自由度のバランス、使い勝手の良さなど、この言葉のいいところをあげたらきりがない。

確かに、この言葉を聞いて不快になる人もいるだろう。

けれど、そこはもう少し寛容になり、被害者面するのはやめて欲しい。

冗談で「キチガイだな」ぐらいは許してほしい。

関西では「アホか」というツッコミは褒め言葉だと聞いたことがある。

このアホというのは、頭が悪いという意味ではなく、ポジティブな含みがあるのだ。

普通の人がしないことをしたり、突き抜けたことをしたり、尋常ではないことをした人に対しての賞賛である。

アホとキチガイを同列に並べるのは無理があると思うが、キチガイにはこのポジティブな印象を感じるのだ。

だから大声を出して言いたい。

「キチガイという言葉に市民権を!!」

以上。

 

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