ぼくは昔から自分に自信がなく、どちらかというと厭世的な人間である。他人と比較して自分はなんて愚かな人間だろうと考えてしまい、そんな世界の不条理について絶望してしまう。
一度だけ、そんなぼくでも自信を持つことができたことがある。それはお笑い芸人を志していたころである。その自信はいわゆる根拠のない自信であったと思うが、その自信はぼくを突き動かし、ぼくならできると判断し、信念を持ってお笑いと向き合うことができた。
しかし、お笑いに挑戦し、自分の実力を知ることで、少しずつ自信を失っていく。つまり、ぼくはお笑いの世界で通用しなかった。思い通りにいかない現実と、根拠のない自信に魅せられた理想。現実と理想がこれほどまで違うのかとぼくは絶望した。そして、ぼくは現実に直視し、我に返るとその自信は跡形もなく消えてしまった。
それから十数年たった今でもぼくが自信がもてないのは、その挫折が大きく関係していると思う。もともとコンプレックスが多い人間のくせに、追い打ちをかけるようにそんな経験をしてしまったのだから仕方がないのかもしれない。だからかどうか分からないが、ぼくはお笑いをやっていたことを誰にも言わずに生きているし、そんなコンプレックスを克服するために生きている。それはつまり、過去を捨てるために生きているようなものである。
そしてである。半年ほどまでに屈辱的なことを言われたことで、ぼくはさらに追い打ちをかけるように自信を失ってしまった。それは酔っ払ったやつの何気ない言葉なのかもしれないが、ぼくはその言葉に大変傷ついた。なぜ、そのようなことを言うのか。そんな答えのないことに対してぼくは思考が乱され、自分の中にその根拠があると思い込み、そのようなネガティブな思考が止まらなくなってしまった。いわゆる「とらわれ」の状態である。ぼくはそのような状態がしばらく続き、冷静になるまで時間がかかった。
しばらく時間が経ち、少し冷静になることができたので、その「とらわれ」というものについてぼくなりに考えてみた。その痕跡が、「世の中の不公正さや不平等さについて」、「不条理の器」などのブログとして残っている。
その記事の中で、ぼくはこの世界の不公正さや不平等さについて書いた。それは出自、経歴、容姿など。生まれ持った環境や能力、そして属性に対して不当だと感じてならないからだ。恵まれている場合と恵まれていない場合で、その後の人生に少なからず影響を与え、人生の評価は大きく変わってくる。はじめから持ち合わせている者が社会に貢献し、評価され、享受する。SNSでは、そのような人々が楽しそうな写真を投稿し、幸せそうに何不自由なく生きているように思う。もちろん、それは人生の一部を切り取った場面でしかないのだろう。だが、ぼくにはそれすら羨ましく感じてしまう。そしてぼくにはその切り取る一場面すらなく、そのような現実が不当に感じられてならないのだ。他者の活躍している姿や、幸せそうな姿をみるだけで、自分は何のために生きているのかという意味のない命題に直面してしまうのである。
そもそもなぜ人によってこれほどまでに置かれている環境が異なるのか。それは、この世界の原理原則が偶然性によって成り立っているからである。しかし、その偶然性というものは、わかるようでわからないことが多い。一体全体、偶然性とは何なのだろうか。そして、その偶然性というものに、ぼくは不条理だと感じてしまうのはどうしてだろうか。
「有と無の接触面」について
偶然性とは、予期し得ないことが起こる現象である。つまり、ぼくたちが予想していなかったことが、何らかの条件が重なることで「ありえた出来事」だといえる。そして偶然性はたまたま存在したものにすぎない。何らかの志向性が、そこに向かわなければ、そもそも出来事として認識されずに、それは「無」でしかなく、存在し得る可能性のあった出来事ということでしかない。つまり、偶然性とは、「無」から生じた現象ということである。
九鬼周造は、偶然性を「有と無の接触面」と考え、「有に食い入っている無」と説明する。偶然性とは、実態として存在しているわけではなく、また存在し得ないものでもない。繰り返すが、それはただ、双方の間で何らかの条件が満たされた場合に、現象として生じる出来事にすぎない。そして、それ自体を予期できないため、それに対して不安に感じたり、恐れたりしてしまう。そのため、ぼくたちは偶然性に対して負の感情を抱きがちなのである。
それはでは、不条理とはどのような現象と言えるだろうか。偶然性と不条理はとても近い概念だと言える。不条理とは、非合理的なもので、無意味な状況を表す言葉である。それは、無から立ち現れた偶然性に対して志向性が向かい、その偶然性に対して条理だと判断したものが否定された場合に立ち現れる現象である。ようするに、たまたま遭遇した事柄に対して、ぼくたちは意味付けを行い、それ自体を評価する。その際に否定的な判断をしてしまった場合に、それが不条理として認識されるのである。つまり、意味づけをするか否かということがとても重要な点だと言えるだろう。不条理とは、自分自身との関係性の中で位置づけられた出来事であり、つまり、たまたまでは片付けることが出来ない個人的な出来事。それが不条理である。
人生が思い通りにならないというのは、自分が「真」と仮定していた未来が、「真」ではない状態で現実化された場合に感じられる状態である。ぼくたちは、その不一致な状態に苦しみ、はたまた絶望してしまう。この世界の認識は人それぞれ異なるが、基本的にはこの世界はどうにもならないことが多く、誰もが不条理だと感じながら生きていることだろう。さきほど取り上げたいわゆるリア充とされる人々でさえ、この世界を不条理だと感じているに違いない。それは偶然性というものは、生きている限り誰にでも共通して遭遇する現象だからである。
ぼくたちは、そこから逃れることはできない。偶然性をコントロールすることなど不可能である。しかし、この偶然性に満ちた世界を少しでも行きやすいように、(それはつまりぼくたちが偶然性に振り回されないように)、社会システムや国家による統制、そして集団の中でのルールが必要とされている。普段、ぼくたちが、偶然性を意識しないのは、そのためである。しかし、それはある意味まやかしである。偶然性の上辺に取り繕われた弱い必然性でしかない。今回のコロナのような、強い偶然性を前にしては、社会システムのような弱い必然性など通用しない。そのようなシステムなど簡単に瓦解してしまう。偶然性をコントロールしようという事自体がバカげていると思う。
繰り返すが、ぼくは自信がもてない。この世界がセピア色に見え、死にたいという比喩に身を委ねながらこの世界を彷徨っている。後述するが、「被投的投企と弱い偶然性」というタイトルは、不条理に対してどのように向き合うべきかということと関係している。少なからずそれは自己啓発に近しいあり方であるが、ぼくなりの答えを提示できたらなと思う。それはとても抽象的な答えであるが、アイデンティティを見失っている人にとって、いかにこの世界と向き合うべきというヒントになるとは思っている。それはつまり「よりよく生きるためにはどうすればいいか」ということである。
ニーチェ、ドゥルーズ、九鬼周造。そして、宮野真生子の哲学を参考に本論を展開できればと思う。後述するが、それはこの世界の必然性と偶然性の問題である。ぼくは、お笑い論をやっている人間だが、本論は哲学よりの内容となっており、これまでとは違ったアプローチができたらなと思っている。