「ある」がまま 被投的投企と弱い偶然性(仮)② | センテンスサワー

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不条理はどうにもならない。本論を展開していく上でそれは、大前提である。では、どうすれば、前述した個人的な悩みを解決することができるのか。そのような不条理に対して、実存主義的な考え方では、「自殺」、「盲信」、「受け入れる」ということが提案されている。「自殺」とは、不条理に抗うことは不可能なので人生を終わらせるしかないということである。続いて「盲信」は、不条理を超えたものを信仰することで、不条理を無効化し、つまり思考停止することで乗り越えるということである。そして「受け入れる」というのは、条理を否定せず、また不条理から逃走するわけでもなく、ただただ受け入れるということである。現実的に考えて、「受け入れる」という選択肢が、一番妥当である。しかし、果たして、それは可能なのだろうか。

 

上記で説明したように、ぼくは不条理な出来事に「とらわれ」ており、その悪循環から抜け出せなくなっている。ぼくが不条理と感じているのは、過去のトラウマや未来への不安。そのような根拠のない妄想に執着し、いわゆる神経症の一種だろうが、「とらわれ」の状態から抜け出せなっている。「とらわれ」とは、心を何らかの事柄に捉えられ、それに支配されてしまい、自由に思考できなくなっている状態のことである。それが、不合理だと分かっていながら強い不安や強迫観念、抑圧されてしまう。それは気分変調性障害というように位置づけられるが、これ自体は誰にでも起こりうる神経症の一種である。

 

うつ病や神経症、また不安障害では、過去の嫌な経験や将来の不安が過剰に反芻される状態にあり、DMNの障害という見方もある。DMNとは、脳科学で注目されている「デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)」という脳の神経活動の働きのことである。それは意識して何かを考えていない場合でも、脳は活発に動いている領域があり、そのため、無意識のうちに脳が疲労してしまうというのである。DMNがうまく機能していれば、情報を収集したり、情報を処理することで、脳内を整理してくれることになる。しかし、DMNに異常が生じた場合に、注意力が散漫になったり、余計なことを考えたりするため、不安にさいなまれることになるのである。

 

脳は、常にアンテナをはっており、外界からの情報に対して予測を立て、感覚刺激から受け取った情報をもとにシュミュレーションを行っている。その予測がうまく機能しなかった場合に、不安定な状態に陥ってしまうのである。

 

神経科学者のリサ・フェルドマン・バレットは、著書『情動はこうしてつくられる──脳の隠れた働きと構成主義的情動理論』の中で、そのような状態について次のように説明している。

 

不安障害を抱える脳はある意味で、抑うつを抱える脳の対極にある。抑うつでは、予測が重視され、予測エラーが軽視される。したがって過去にとらわれる。それに対し不安障害では、外界に起因する予測エラーが過剰に受け入れられ、そのせいであまりにも多くの予測が失敗に終わる。予測が不十分であれば、次の瞬間に何が起こるのかがわからなくなる。すると、生きていくのが困難に感じられるようになる。まさにこれが、典型的な不安障害だ。

 

「とらわれ」ている状態というのは、脳がうまく機能していない状態といえるが、上記の説明では抑うつの状態と近いように思う。不安障害に関しても、前向きな思考ができない状態になる点では、一致する点が多い。これは脳神経科学者のひとつの見方であるが、このような原因で「とらわれ」という病に冒されることになるのである。

 

 

「ある」がまま

では、「とらわれ」の状態から自由になるためにはどうすればよいのだろうか。精神科医である岩井寛は、「森田療法」という著書の中で、その状態を事実として受け止め、「あるがまま」の状態を目指すことが重要だと説明している。「あるがまま」とは、症状と向き合い、逃避欲求を否定しない心的態度のことである。つまり、現実をありのまま受け入れることが必要だということである。岩井寛は次のように説明している。

 

神経質 (症) 者は、理想が高く、完全欲へのとらわれが強いために、常に、「かくあるべし」という自分の理想的な姿を設定してしまう。しかし、我々が住む不条理の現実には、そのような都合のよい状態はないので、そこで 、「かくあるべし」という理想志向性と、「かくある」という現実志向性がもろに衝突してしまう。そのために両者の志向性が離れれば離れるほど、不安、葛藤が強くなり、神経質 (症) 者は現実と離反してしまうのである。そこで、ある者は自己否定的になって、劣等感に陥り、現実の苦悩に耐えられなくなって逃避的な態度をとるようになる

 

まさに、現在のぼくの状態を端的に説明している。神経質な状態では、「とらわれ」による恐怖心や不安感に支配され、逃避的に考えてしまう。「こうあるべき」「こうあってはならない」という感情に支配され、「とらわれ」自体を解消しようと努めたり、コントロールしようと試みる。しかし、それ自体が不可能であるため、思考内で葛藤や衝突が起こる。

 

そこで提案されているのが前述した「あるがまま」という考え方である。繰り返すが、「とらわれ」を解消しようと努めるのではなく、それ自体を「あるがまま」として受け入れるが重要とされる考え方である。つまり、ありのままの自分自身を否定しない態度のことであるが、そもそも「ある」というのは、存在を意味し、それはぼくたちがこの世界に生を享けた瞬間を起源とする実存としてのあり方を表した言葉である。そして、その状態は偶然性に翻弄されながら、葛藤することで人格が形成されていくことになるのだが、この「あるがまま」というのは、その偶然性自体を内面化することを意味している。

 

「とらわれ」状態から抜け出すためには、次のような行動が重要であると岩井寛は著書の中で説明している。

 

そこで森田は、低きにつこうとする欲望をそのままにして、もう一方の自己実現の欲望を止揚していこうとする欲望の方向性を考える。つまり、自己実現欲求も、逃避欲求も、ともに人間性の一部なのであるから、後者をそのままにし、前者をとってゆくところに森田療一法の本質を認めるのである。そして、後者をそのままにすることを「あるがまま」という。「あるがまま」は、ただ単に自分の欲望に従って思いどおりに振る舞うということではなしに自己実現欲求(森田はこれを「目的本位」と呼んでいる)を遂行するための手段であって、自己否定的な欲求を「あるがまま」にしておき、もう一方の自己実現欲求に従い、これを実践するときに、人間には進歩があるとするのである。

 

森田療法では、「とらわれの状態」を解決するためには、「あるがまま」としてそれ自体を受け入れ、そしてその状態を克服するためには、自己実現欲求が重要だとされている。それは「目的本位」という言葉で説明させれているが、それはアドラー心理学のように「目的思考」が重要だという考え方にとても近いように思う。「とらわれ」に支配されず、自己を確立するための行動が必要なのである。岩井寛は次の言葉を重要としている。

 

1.自分の生きていた時間、自分が置かれている空間(性格形成を含む)を含めて、自分の存在を正しく認識する 
2.自分の苦悩が、「とらわれ」に陥っていないかを検証する
3.不安や葛藤の性質を顧みて、とらわれているということがわかったならばその「とらわれ」の内容を整理し、それをあるがままに認める。
4.自分の真の欲望が何なのかということをじっくりと考えてみる
5.自己の「人間としての」欲望、つまり、「生の要望」を実現するために、目的本位の行動をとる。
6.以上のような思考、行動を通じて、自己陶冶、自己確立をはかる。
7.人間としての自由を求め、それなりの個性を活かし、創造的な生き方を試みる

 

これらの言葉は、自己と向き合うことの必要性を強調している。そして、不安にとらわれずに、自己実現に対する自己の欲求を自覚すること。森田療法では、「生の欲望」という言葉で表現している。少なからず、人は本能的に向上心というものが存在するだろう。現在の状態に満足せず、 よりすぐれたもの、より高いものを目ざして努力しようとする心的態度。「生の欲望」というものは、本能的なものであって、「とらわれ」によってそれ自体を見失ってはいけない。

 

夏目漱石は著書の中で「精神的に向上心がないものは馬鹿だ」とか言っている。だから、少なからず本論を進めていく上で、それは前提としておきたい。僕自信も、「とらわれ」や「ノイローゼ」から抜け出す理由として、言わずもがなであるが、「よりよく生きたい」ということが根底にある。向上心が必要なわけではないが、「生の欲望」はそれ自体で一つの考え方として、ぼくは採用したいと思っている。ただそれだけのことである。

 

さて、「あるがまま」を受け入れるということについては理解できたが、目的本位に行動するためには、少なからず行動を起こす「勇気」というものが必要である。そしてそのためには、まず「自分を信じる」こと、つまり「自信」というポジティブな心的態度が必要である。前回のブログは「ぼくは自信がもてない」というタイトルで説明したように、ぼくは自信がなく、行動を起こすことが苦手である。それは失敗するかもしれないことに対して、行動を起こすという無謀さにためらってしまうからである。そして、自信というものは、根拠がないと成立しないし、「勇気」という言葉には現実と理想との飛躍すら感じてしまうのである。

 

次回は、「信じる」ということについて考えたいと思うが、今回の内容もそうであるが胡散臭い感じ満載であるとぼく自信も感じながらこの文章を書いている。だが、本論の結論として「自信」「勇気」などの飛躍が必要な概念を捨て去ることが重要であるという内容になっているので、その点については安心してほしい。繰り返すが、次回のテーマは、「理にかなった信念と根拠のない信念」についてである。

 

 

 

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