センテンスサワー -28ページ目

センテンスサワー

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古典的な笑いの理論は3つに分類されている。

 

まずは、優位理論。トマス・ホッブスによる定義では、”笑いとは、標的となった他の誰かよりもあるレベルで優っている、または卓越しているという感覚または認識から生じる「突然の栄光」または勝利のことだ”と説明されている。

 

次に、解放理論。高まりすぎた神経の興奮を解放する形式であり、カントの言葉で”緊張の緩和”と言い換えることもできる。また、フロイトの快感原理も同様にあてはまるだろう。

 

続いて、不一致理論である。不一致が生じて、それが解決されればいつでもユーモアが起こると考えるという理論である。

 

また、近年そこから発展し、以下の理論に細かく分類され、体系化されている。生物学的理論、遊戯理論、解放理論、優位理論、不一致と不一致解決理論、おどろき理論である。説明は割愛させていただくが、日々、笑いは研究され、理論化し、体系化が進められているのである。

 

上記の理論については、笑いの本質に迫った定義化であり、普遍化を目指して追求されている。今回、私が提案したい理論は、理系的笑いと文系的笑いというものである。お笑い芸人のネタを参照しつつ、理系的な笑いと文系的な笑いを説明しようと思う。

 

 

理系的な笑いとは、笑いの法則性を発見し、パータン化された笑いのことである。

 

例えば、三段落ちは、最低限の手数で笑いを取るパターンである。一段目でフリ、二段目でもフリ(小ボケともいう)、三段目でボケるという手法である。要するに、一段目と二段目でパターン化され、その最低限の手数でパターン化された後に、ボケをかますというものである。

 

あくまでもこれは一例であるが、パターン化とは、規則性や方向性を、受け手に認識させ、共犯関係を築いた上で、ボケを成立させていくことである。

 

理系的な笑いの代表的な芸人をあげるならば、バカリズムであろう。バカリズムは笑いのあらゆるパターンを発掘する天才である。

 

法則性を見つけ、あらゆる組み合わせで笑いを作る手法に長け、トツギーノはその代表的なネタといえる。無表情で淡々とボケを積み重ねていき、昨今、キャラ芸人が重宝されている最中、素材を堪能してもらうかの如く、ネタを追求している。バカリズムがそれらのパターンを発掘しなければ、十年後、二十年後、はたまた百年後まで、それらのネタのパターンは発掘されないであろう。言い換えると、誰よりも早くネタを発掘する才能の持ち主なのである。

 

 

続いて、文系的笑いとは、反証不可能な笑いのことである。

 

つまりそれは、パターン化ができず、むしろ弁証法的に笑いを再構築し、はたまた積み上げてきたものを破壊する笑いとも言えるだろう。

 

ネタを重視した笑いではなく、キャラクター性や世界観を武器に取る笑いである。

 

代表的な芸人をあげるならば、野性爆弾の川島であろう。

 

野性爆弾のコントはまさに唯一無二の世界観であり、分析したところで、感情論や主観論での解説しか出来ないだろう。

 

上記の理論にも当てはまらないであろうが、強いて言うなら、おどろき理論が一番近しい理論ではないだろうか。言い方は悪いが、結局なにがおもしろいかわからないのである。

 

以前、松本人志の笑いを宗教という観点から説明を試みたが、それに近いものを感じる。(笑いの神は死んだ

 

卓越したキャラクターには、ボケてもボケなくても、行動や所作、そして空気すら笑いに変えられるパワーがあるのである。圧倒的なキャラクターは、笑いの法則性を逸脱したとしても、許容されるのである。

 

次回、笑いのキャラクターに関して、分析し、そして考察してみたいと思っている。

 

 

どちらが優れているというものではない。キャラクターを捨て、存在感すら隠しながら、無の状態で笑いの法則性を追求していく笑いも素晴らしい。”キャラクターではない”キャラクターと再帰的にも考えられうるが、キャラクターよりもネタが勝っているということである。

 

さてさて、理系的な笑いと文系的な笑いを説明させていただいたが、そもそも理系とはなにか、文系とはなにか、という定義すらまともに体系化出来ていないのに、理論化を試みるのも無謀っちゃあ、無謀であった。

 

次回は、ベルグソンと明石家さんまの関係性、その機械芸について語ろうと思う。

 

以上。

2月26日に『第89回アカデミー賞』の受賞作品が発表された。エマ・ストーンによる主演女優賞、主題歌賞、作曲賞、美術賞、撮影賞の最多6部門を受賞した。

同作品は、『セッション』のデイミアン・チャゼル監督最新作、圧倒的音楽×ダンスで贈る極上のエンターテイメントの”ミュージカル”映画である。

 

まず、タイトルに言及しておきたいが、『ラ・ラ・ランド』という邦題にはもったいなさを感じる。原題に限りなく近いと思うが、本作はロサンゼルス(LA)が舞台となっており、『LA・LA・LAND』というタイトルには、直接的ではあるがLAという舞台の重要性を示している。カタカナ表記で邦題に成功している例はあまりなく、『LA・LA・LAND』のままでもよかったのかもれない。

 

 

さて、簡単にあらすじを説明すると、映画スタジオのカフェで働く女優志望のミア(エマ・ストーン)と、ピアニストのセバスチャン(ライアン・ゴズリング)の恋の物語。ある日、ミアは場末のバーでピアノを弾くセバスチャン(ライアン・ゴズリング)と出会い、そして恋に落ちる。

 

ストーリは、ハリウッド映画の数々の名作へのオマージュを感じさせる王道ラブロマンス。ストレートな作品ではあるが、緻密に構成されたプロットと、ミュージカルによる演出はプログレッシブな世界観を感じさせた。

 

とにかくセンスがいい。この一言に尽きる。

 

原題からイメージされるリズミカルな楽曲から、しっとりとした色彩を感じさせる曲まで、ジャンルにとらわれず、作中のあらゆるシーンで演奏され、ミュージカルへのシームレスな流れは見事だった。色彩豊かなファッションや背景シーン。鮮やかな色彩に負けないミアの美しさには、不覚にも何度も恋に落ちてしまったようだった。

 

 

さてさて、ここからはネタバレをおそれずに書いていこうかと思う。

 

デートを重ね、夢を語りながら、ふたりは愛を育んでいくが、セバスチャンは夢よりも大切なものがあるのではないかと、葛藤し、”夢”を叶えるために”夢”をあきらめてしまう。そして、互いの夢に翻弄されながら、ふたりの距離は次第に離れていくことになる。

 

この物語のテーマはまぎれもなく”夢”である。

 

夢を追いかけていたふたりだけの世界には、ミュージカルのような”ファンタジー”があった。それは誰しも経験したことがあると思うが、愛し合うふたりの世界観はミュージカルそのものである。

 

そしてこの作品にはセックスのシーンがないことも重要な点だろう。ミュージカルの中で愛し合う(それでもキスまで)シーンはたびたびあるが、”それ”のメタファーだと強く感じた。もしくは、ふたりが共有している世界(ファンタジー)がそれの上位に位置している高尚なものなのかもしれない。

 

男性にとってセックスまでの期間は幻想であり、セックス後に至っては幻滅に等しいものがある。つまり、そこを描かないことで夢の中の世界を表現したのではないだろうか。

 

 

物語の終盤、ふたりは別れを選択肢、互いの夢を追いかけることになる。そして、数年後(五年後)に成功を収めたふたりは、セバスチャンの経営するジャズバーで期せずして再開する。

 

数年後の場面から、ふたりが再開するまでの期間、ミュージカルでの演出はひとつもない。夢が叶ってしまい、そして夢を失ったふたりにはファンタジー(夢の中)が機能しなくなったのである。

 

結婚し、子供が生まれたミアにとって、夢は夢の中にしか存在しない、アクチュアリティのない、儚いものでしかないのだろう。

 

旦那と食事にでかけて、たまたま立ち寄ったジャズバーでセバスチャンはライブのMCをしていた。ミアは動揺し、セバスチャンはミアの存在に気づく。ステージの中央に置かれたピアノの椅子にセバスチャンは腰を下ろし、思い出の曲を演奏しはじめる。

 

その瞬間、ふたりが出会った(ある意味再開)ときの場面に切り替わり、もしあのときこうなっていれば、という仮定法過去の世界の中でミュージカルがはじまる。

 

夢を失ったふたりだったが、セバスチャンが演奏している期間、その期間だけふたりはあの時止まったままの時間を再開させた。

 

思い出の中で互いのことを何度も思ったことだろう。だけどそれは、時間の止まった過去の記憶でしかなく、ただただ美化されていくだけのもの。

 

だが、音楽はふたりを有限の世界へ誘い、開けてはならないパンドラの箱をあけてしまったのである。

 

演奏が終わり、ふたりは会話すらすることなく、互いに見つめ合い、笑顔のまま別れていく。

 

ミアの最後の”作り笑顔”は最高に素晴らしかった。

 

色んな感情を押し殺し、彼への最高の演技で、女優を貫いたのである。

 

 

 

最後に、もうひとつ。

 

この作品をメタレベルで解釈するなら、音楽と演技が恋におちたら、ミュージカルという表現になるのだろうと思った。音楽と演技の融合と言いかえてもいい。

 

ということは、結局、音楽と演技も恋から冷めてしまうのだろうか。

 

それとも、今日も明日もあなたに会いたい、てなことを思っているのだろうか。

 
ちょうど三年前に、ブスとデブはなぜ差別用語ではないのかというタイトルと題して、ブログを書いた。
 
過去記事の中でも意外と評判のようで、数年経った今でさえ、日に何件かのアクセスがある。 
 
アメーバブログではアクセス解析ツールがあるため、どのようなリンクを経て遷移してきたのか、どのようなキーワードを入力して遷移してきたのかなど、アクセスの詳細を調べてSEO解析をすることができる。 
 
上記のブログを調べると、キーワード入力にて、このブログを知った人が多いようで、下記の検索語句などがその一例である。 
 
・デブ 
・ブス 
・ブサイク 
・放送禁止用語 
・差別用語 
・デブの差別について 
 
差別用語に関心があるのか、ブス・ブサイクなどの誹謗中傷の意味合いを含んだ言葉に関心があるのか、それぞれの経緯については定かではないが、何らかの関心があるのだろうと思う。 
 
これまで同様のテーマでブログを書き直そうと何度かチャレンジしようと思い立ったこともあるが、逡巡した結果、断念していた。 
 
だが、先日ある方からコメントを頂き、再度同様のテーマを扱ってブログを書かなければならないと、決めた次第である。 
 
どのようなコメントであるかは、過去記事を参照していただきたく思うが、その内容については真摯に受け止めようと思っている。 
 
ただあれから数年経過し、私自身の意見も違った形でアプローチできるのではないかとも思っている。 
 
このブログであったり、過去記事を閲覧して、不快に思っている読者もいるだろう。差別用語以上に不快に感じる文章であると感じている方も少なからずいるにちがいない。 
 
言葉が言葉である以上、私の思っていることがすべて伝わるとも思っていないし、間違った言葉として伝わり、いわゆる言葉が誤配されてしまう恐れすらある。 
 
気になったことや、気付きがあれば、気兼ねなくコメントに書いていただきたい。 出来る範囲で回答したいと思う。 
 
 
 
そもそも、なぜこのようなタイトルでブログを書こうと思ったのかと問われれば、差別用語とそうでない言葉の境界線に関心があったからである。
 
差別用語に関しては、歴史的な背景や当事者の声による明確な定義が存在する。
 
それに対して、そうでない言葉については、ただの嘲りとして片付けられてしまうのである。
 
そこで今回のテーマの一つである嘲りについて着目してみたいと思うのだ。
 
前回のブログでは、そうでない言葉(嘲り)として、ブスやデブを引き合いに出して考えてみたが、言葉によって他者を不快なカテゴリーに分け、笑いの対象と化す言葉であることは間違いない。
 
そもそも嘲りとはどのように定義されている言葉なのか。
 
そこで、嘲りを説明する上で、優位理論という笑いの理論を参照したいと思う。 
 
優位理論とは、他者よりも優れていることに喜びを得る、 または卓越しているという感覚または認識から生じる「突然の栄光」または勝利のことだ、という笑いの定義である。
 
つまり、相手の弱いところを指摘することで、その者よりも上の立場に身をおくことができ、優越感を得られるのである。
 
これについては、説明するまでもなく多くの方が経験があるかと思う。イジメられたことも、イジメたことも、はたまた両方経験がある人もいるかと思う。
 
学校や会社などの閉鎖的な空間の中では連綿と続いているし、人が人である以上、イジメは無くならないとすら感じている。
 
差別的な概念にウチとソトというものがあるが、これに似ているかと思う。
 
ソトへと排除することで、ウチへの連帯の強度を上げ、ウチからの承認を受ける的なやつである。
 
 
さてさて、差別用語とそうでない言葉の境界線はどこにあるのか。
 
そして、そうでない言葉は今後差別用語になりうるのか。
 
個人的な見解はとしては、なりうる可能性はあると思っている。
 
たとえば、遺伝子検査によって、そうでない(嘲りの対象となりうる)存在として、そのような遺伝子あった場合や、それが障害の一種であるとされた場合である。
 
現在デブに対する認識は、自己管理能力の欠如が一般的だと思うが、今後の展開によっては、肥満体質のため太ってしまう病気なのであるとかになってしまう恐れがある。
 
デブについては、今後も増加傾向にあり、マジョリティであることに違いないが、遺伝子レベルで問題があると社会が認めてしまえばそれまでなのである。
 
 
そうでない言葉が差別用語になる可能性がゼロではないと思うし、逆に差別用語がそうでない言葉となりうる可能性は残されていると思っていたりする。
 
それは、差別用語がかつてそうでない言葉だったという時代が存在するように、それらの言葉も時代によって形を変えていくのである。
 
 
 
 
という私も高校時代まで、デブと呼ばれるほどの肥満体型だった。
 
デブと言ってもどれほどのデブだよ、とツッコまれそうなので、一応定義付けをしたうえで、進めていこうかと思う。
 
その基準として、ローレル指数を参考にさせていただく。
 
当時の私のローレル指数は215だった。判定結果は太り過ぎということになるだろう。当時の最高体重は100キロをゆうに超えていたと思う。 
 
高校二年の終わり頃、ダイエットに開始し、高校卒業する頃には30キロほど体重を落とすことに成功した。ダイエットの方法論については割愛させて頂くが、大変だったことは理解していただきたい。
 
さて、私がなぜこのようなことを赤裸々に語りだしたかというと、デブという言葉がどれほど人を傷つけるかということを知っていただきたいからである。
 
過去の私は、デブという呼称に怯え、そう呼ばれるたびに傷ついてきた。 
 
小学校の低学年の頃であったと思うが、すれ違った名も知らない上級生に「デブ」と呼ばれたことがあった。 
 
笑い声とともに、その集団は去っていったが、今でもその時の感情と光景を鮮明に思い出すことができるほど。 
 
幼心に傷ついたし、なぜそのようなことを言うのか理解できなかった。 
 
その言葉に敏感になり、存在自体を否定されているようで、というかされているのだと思うが、いたたまれない気持ちだったのだ。
 
差別用語と同様に、そうでない言葉(嘲り)も、ぼくにとっては、ヤバイ言葉だった。
 
だからこそ、言葉を選んで発言するべきだし、ブログであったとしても、それは慎重にならなくてはならないとも感じる。
 
だが、差別用語とそうでない言葉に不透明な境界線があるように、言葉が言葉である以上変化し続けていくことも事実である。
 
デブと言われると、今でも傷つくけど、デブ言われなくなった今では、それも案外寂しかったりする。
 
そこらへんをぼくはもう少し考えてみたいと思う。
 
 
新着記事:(20210106付)
 

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