センテンスサワー -27ページ目

センテンスサワー

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最近、ヤバイTシャツ屋さんにはまっている。

 

ヤバイTシャツ屋さんとは、関西出身のロックバンドである。

 

バンド名も受け入れがたいような斬新な名前であるが、音楽性もとてもユニークである。

 

オルタナティブでもあり、またコミックバンド性も強く、一括りにできないパワーのある音楽である。

 

とにかくノリがよく、ヤバイ曲が多いのである。

 

 

で、個人的に惹きつけられたのは、ミュージックビデオである。

 

メジャーデビューしたばかりにもかかわらず、YouTubeで公開しているミュージックビデオの視聴回数は、どの作品もも数百万再生を超えている。イイね、も何万単位で押されている。

 

彼らの戦略でもあるようなのだが、YouTubeなどの動画サイトを活用することで、効果的にプロモーションできるそうだ。

 

ボーカル・ギターのこやまたくやは大阪芸術大学芸術学部映像学科卒業していて、寿司くんという名義でミュージックビデオ制作を手がけている。第20回文化庁メディア芸術祭、エンターテインメント部門で新人賞を受賞しているほどの実力の持ち主でもあるらしい。

 

ちなみにその受賞作は、彼らと同世代のシンガーソングライターである岡崎体育のミュージックビデオでもあり、岡崎体育はこやまたくやの中学時代の先輩でもあるようだ。

 

後述するが、そのミュージックビデオがまた素晴らしいのだ。

 

さて、再度話を戻すが、ミュージックビデオの演出にこだわりを感じるのだが、これまでのミュージックビデオ(僕らが観てきたPV)とは、何かが違うように思うのである。

 

YouTube世代というか、新世紀世代というか、彼らのやり方や試みに対して、はじめはプログレッシブさを感じた。

 

だが、ぼくが感じる違和感の原因はそこにではなく、それだけでは説明できない何かなのである。

 

 

まず、指摘して置かなければならない点は、チャラさである。

 

ただチャラいだけであればいいのだが、それが薄っぺらいというか、中身がないというか。

 

ぼくは、90年代のJ−POPを聴いて育った世代なのだが、その頃の音楽はまだ音楽性を伝えるという、イデオロギー的なものが少なからずあったように思う。

 

だが、彼らの音楽には、なにかを伝えたいというメッセージ性が感じられないのだ。

 

そればかりか、自らの作品自体にツッコミを入れたり、冷やかしたり、ただちょけているだけなのである。

 

ヤバイTシャツ屋さんのミュージックビデオではないのだが、先ほど紹介した岡崎体育の『MUSIC VIDEO』という作品は、その代表的な作品だといえる。こやまたくやは、監督として参加し、上記で取り上げたように、この作品で賞を獲得したのである。

 

さて、この作品の内容はというと、ミュージックビデオのあるあるネタを集めた作品であり、またミュージックビデオ自体に対して皮肉を込めた作品である。演出自体も素晴らしいし、とてもユニークな作品である。

 

注目するべき点は、映像をありきで音楽を制作している点である。

 

どういうことか、音楽に依存して映像を作っているのではなく、映像に依存して音楽を作っているように思うのだ。

 

彼らの世代にとっては、音楽は聞くものというよりも、観るものという認識が勝っているのかもしれない。

 

それは、YouTubeなどの動画サイトが生まれたことで、より身近なものになったのだろう。

 

ぼくらがMDを持ち運んでいたように、彼らはスマホを持ち運ぶことができ、いつでも音楽を観ることができるのである。

 

観て楽しめないものは、彼らにとってもはや音楽でないのかもしれない。

 

ぼくが感じた違和感は、次の世代との価値観とのズレなのかもしれない。

 

このような作品を、あるあるロックンロールと名付けたいのだが、どうだろうか。

 

再度繰り返しになるが、次世代の音楽は、聴くものではなく、観るものなのである。

 

中身がないとか、薄っぺらいとか、彼らの音楽をディスっているような内容であるが、音楽自体はとてもかっこいい。

 

次世代の音楽に出会えて、ヤバイTシャツ屋さんに出会えて、本当によかったと思うのである。

 

ただただヤバイのである。

インターネットという新しいメディアが20世紀の後半に登場し、もはや無くてはならない存在となっている。そのため、既存のメディアの状況は変化し、そのあり方がいまになって問われているように思う。

 

ここでいう既存のメディアとは、主にテレビについてである。マスコミ(マス・コミュニケーション)である、テレビの役割はいったいどのように変わっていくのだろうか。近頃、話題になっている問題をもとに考えてみたいと思う。

 

 

先日放送された「バイキング」(フジテレビ系)で、俳優の小林旭が米ラスベガスで起きた銃乱射事件についてコメントした際、不適切な発言で容疑者を非難したとして話題となっている。番組中に、不適切な発言についてアナウンサーが謝罪したようであるが、その件について不快に思った視聴者から放送後にクレームがあったそうだ。

 

昭和の名優であり、昭和のスターであったとしても、昨今のテレビを取り巻く状況を鑑みるに仕方のないことだと思う。かつてであればそれでよかったのかもしれないが、現在では些細な事であれ、視聴者が不快に思えばクレームの対象となるのである。

 

今回はアナウンサーの謝罪だけで済んだのかもしれないが、今後はさらに状況は厳しくなると思う。謝罪だけでなく、謹慎であったり、社会的制裁を受けることになる可能性すらあるだろう。

 

また、ある意味タイムリーであるが、先日放送されたとんねるずの特番でもコントで演じたキャラクターに対しての抗議があったようだ。抗議内容は、「性的少数者への差別や偏見を助長する」というものである。かつて人気のあったキャラクターでさえ、社会が多様化するにつれ、笑いのネタであろうと細心の注意を払う必要があるのである。

 

それは、面白いとか、面白くないとか、そういうのはもはや問題ではない。それを笑えない人がいる時点で、もはや放送禁止的行為なのである。今後これまで以上に厳しくなるだろうし、マスメディアとしてのあり方を時代を先読みしながら考えていく必要があると思う。

 

現状は、企業からの広告料が主な収入源であるため、視聴者および視聴率に依存し、それにあわせる形で番組を構成していると思うが、さらに多様化されるマイノリティーにも目を配り、配慮する形で番組制作をしなければならない時代がくるのである。

 

つまり、マスメディア(テレビ)が時代をつくる時代は終わったのである。いや、すでに終わっていたのである。それはメディアが多様化したことと深く関係している。大衆を先導(ある意味扇動)するメディアとして機能していたはずだが、ネットの出現でもはや機能しなくなってしまい、よくも悪くもユーザーのリテラシーが高くなったため、バレなかったことがバレてしまうようになったのである。

 

インターネットの出現により、情報共有と拡散が瞬時に行われ、マスメディアなどの対象を攻撃することは容易になった。また、それらのノウハウすらも体系化されているだろう。それではどうすればいいのか。どうすれば生き残っていけるのか。

 

それはもう、マスメディアのこれまでのあり方を改めて、新しいメディアとして変化するしかないだろう。それは誰も傷つけない優しいメディアとして機能するべきである。過激なことはしない、人々をハッピーにさせる、ただ有益な情報を提供する極めて国営放送に近い情報伝達の媒体としてが望ましいだろう。

 

社会が多様化するということは、そういうことである。個人主義の行き着く先は、つまりそういうことである。そして、テレビがマスメディアとして生きていくには、マスメディアとしての責任を考えながら、いちはやくそのことを認識し、変化していく必要があるだろう。

 

だが、たくさんの人々(ぼくを含めて)は、昔のテレビを追い求めていることも事実である。あの頃の面白かったテレビを追い求めて、いまもテレビを見続けているのである。そのことについてわかっているはずなのに、あきらめているはずなのに、どうしてもみてしまうのである。

 

そういう人たちは、どうすればいいのか。

 

個人的には、ネット動画配信サイトをみることをおすすめする。ネットフリックス、Hulu、アマゾンプライムビデオ、AbemaTV(アベマTV)など、まさに群雄割拠の様相を呈している。オリジナルコンテンツもとても充実しているし、皮肉なことにテレビでは放送できないことを売りにしているところも多い。たしかに、過激でギリギリのラインをいっていると思う。そして、潤沢な資金があるのだろうか、とてもお金がかかっている番組がおおい。全盛期のテレビを知らない世代はびっくりするほどである。

 

だが、現状、黎明期のため成立しているということもあるのだろう。今後は、どうなるかわからないし、テレビのような道を歩むことになるのだろうと個人的に思っている。だから、これをみることができるのは今だけであるという付加価値の中で視聴するのもある意味お得な見方かもしれない。

 

 

最後に、フランスの作家であるレジス・ドゥブレのメディオロジー的転回という考え方を紹介しておこう。それは、これまでは、言葉やメッセージの意味が問題とされていたが、今後はコミュニケーションが行われる媒体に注意が向けられるというのである。つまり、上記に関連して説明すると、不適切な発言をした個人であったり、その言葉に注意が向けられるのではなく、(もちろんそれ自体に問題があることは前提にあるが)、その媒体であるテレビ局自体に批判が向けられてしまうということである。

 

そして話をさらに進めると、ネットはさらにそれを展開させており、個人と個人を直接結びつけ、コミュニケーションを発展させているのである。メディアは身体の拡張性として語られているが、個人がメディアとして機能し、発信者としてパーソナルメディアとなってしまったのである。

 

ネットの性質上、個人間での繋がりはたやすく、同じ目的意識や問題意識を持った人々が、瞬時に連帯することが可能である。それは昨今話題となっている炎上などと関連していることであるが、個人個人がパーソナルメディアである以上、今後はさらにリテラシーを高める必要があるのである。現状では、マスメディアがその対象ということになっているが、今後は個人個人ですら、不適切な発言はしないように注意を払わなければならない。

 

監視社会とは、警察官や軍隊、憲兵などにより過激な監視が生じた社会の事を指す、という一般的な定義がある。だが、今後はそれらの監視よりもパーソナルなメディアに、よりいっそうの注意を払う必要があると思っている。どういうことかというと、ルール化されたことや言語化されたこと(放送禁止用語など)であれば事前に回避できるが、ルール化されていない個人がただ不快に思うことが指摘の対象であれば、事前に防ぎようがないからである。暗黙のルールの中だけで成立しているなにかわからない不気味な配慮というものは、事後的に認識できるが、それすらもルール化し、言語化することは、多様化されていく社会の中では不可能なように思うからである。

 

 

結局、視聴者(ネットユーザー)のレベルが低いメディアが攻撃の対象になるんだと思う。なんやかんやで、新聞とか難しい媒体はそれほどクレームもこないだろうし、結局は大衆に好まれる媒体がそうなっていくのだと思う。以上。

「さんま」という言葉を聞いて、思い浮かべるイメージは人によって違うだろう。辞書を引くと、「秋刀魚」であったり、「三麻(サンマ)」という聞きなれれない言葉だったり、「サンマ州」というバヌアツの州が書いてある。辞書には書いていないけれど、ぼくたちは、明石家さんまというお笑い芸人を思い浮かべるのではないだろうか。

 

もともと明石家さんまは、「笑福亭さんま」という芸名で落語家として活躍していた。その後、活躍の幅を広げていき、お笑いタレントとしてお茶の間のスターとなっていくのだが、その過程で、さんまという言葉の概念が多義性を帯びていき、辞書で引いても出てこない言葉として、定着することとなったのだろう。

 

その名を一躍有名にしたのは、まぎれもなく「オレたちひょうきん族」というお笑い番組である。ブラックデビル、アミダばばあ、なんですかマンなどの数々のキャラクターを生み出し、誰もが一度は聞いたことのあるギャグをヒットさせた。

 

 

明石家さんま自身のキャラクター性も言及しておく必要があるだろう。トレードマークである出っ歯はよくイラストにされている。顔というのはキャラクターにとって重要であると精神科医の斎藤環氏は語っているが、いい意味でも悪い意味でも一度見たら忘れないような特徴的な顔立ちといえるだろう。

 

また島田紳助は彼のスター性を”華”があると説明する。明石家さんまが現場にいるだけで、面白い空間が生まれ、場がぱっと明るくなるのだそうだ。雰囲気であったり、醸し出すオーラであったり、キャラクターがキャラクター足り得るために必要不可欠な要素ではないだろうか。

 

明石家さんまは寝ないことでも有名である。平均睡眠時間は2〜3時間ほどで、ショートスリーパーとして医者から診断されているようだ。後輩芸人はよくそのことをネタにしているが、移動中の新幹線の中であろうと眠ることなくずっと喋り続ける。寝ている姿を見たことがない、寝ている姿を見せないとも言われているが、それは無防備な姿を晒すことを嫌い、明石家さんまというキャラクターを貫き通すためにあえてそうしているのかもしれない。

 

明石家さんまというキャラクターは共通認識として確立しているが、キャラクター性を差し引いた”素”の部分はとても未知なところがある。思い返せば、彼自身が本質的なことは語っているところを見たことがない。プライベートをネタとして語っているが、彼自身の思想のようなものは見えてこない。お茶の間の前にいる視聴者の幻想を壊したくないのか、それは本人にしか知り得ないことであろう。

 

お笑い怪獣と呼ばれる所以は、彼の築き上げた幻想の構築と維持の賜物であるのだろう。だけど、ぼくにはそれが、不自然に思えてしかたがない。らしさがない。人間らしさの欠落として感じてしまうのである。

 

 

「固有の意味で人間的であるということをぬきにしてはおかしみのあるものはない」

 

と、哲学者ベルグソンは笑いを定義している。つまり、なんらかの対象に、それは動物であり、物体(モノ)が、人間として結びつきを得られた瞬間に笑いが生まれるということである。

 

ぼくはこの言葉と、明石家さんまという存在にねじれた構造を感じる。それはつまり、こういうことである。

 

人間が人間的であるということで笑いを生み出すのではなく、人間らしさの欠落した人間が人間的に振る舞うことで笑いを生み出しているのではないか。

 

 

さて、本題に戻ろう。明石家さんまの笑いとはなにか?

 

かつてラジオで、「笑いの基本は”ベタ”である」と語っている。誰にでも分かるように丁寧にネタフリをし、お決まりのボケをかます。大衆に迎合しているわけではないが、万人に受け入れられる笑いといえるだろう。お笑い界の頂点に君臨し、『踊る!さんま御殿!!』、『ホンマでっか!?TV』など、司会を務める冠番組を数多く持ち、芸能界屈指の名司会者であろう。

 

個性的な芸能人を仕切る技術。相手が素人でさえも、美味しく調理する素人いじりは秀逸である。

 

個人的に注目したいのは、番組中に共演者(ゲスト)がウケたネタをパターン化し、ポイントポイントでそのネタを繰り返す手法である。あえて、「もう一回、そのそれ(ネタ)ふるからな」と前置きすることもある。それはギャグであろうと、自己紹介であろうと、言葉遣いであろうと、繰り返すことで笑いとなる天丼と呼ばれる手法である。そのゲスト(ターゲット)と共犯関係を結び、またその他のゲストと観衆(視聴者)すらも第三者としての共犯関係を成立させているように思うが、これはまさに即興的集団芸のようなものである。

 

再度ベルグソンの言葉を引用させていただくが、「我々の笑いは集団の笑いである」と語っている。それはつまり、笑いとは共感的なものであり、ハイコンテクストを共有することで成立する現象であることに違いないが、明石家さんまは、場を支配し、自身の手中の中でコントロールすることで、笑いをショーとして、演出する天才であるといえる。

 

精神分析学者のエリック・ スマジャの言葉を借りるならば、「(笑いを誘うのは)人として注意深い順応力と活発な柔軟性があって欲しいところに、いわば機械のようなぎこちなさがみられるからだ」という言葉があり、まさにぼくが説明したいことを的確に言語化している。要するに、ゲストは明石家さんまとの共犯関係を結ぶことで、そのネタを振られたら即座に返さなければならいず、それは瞬発力や反射神経の機敏さを必要し、”機械的”にならざるおえないのである。

 

たかが数時間の番組内で、明石家さんまはあらゆる仕掛けを配備し、間を操りながら操り人形を操作していくのである。

 

明石家電視台という番組ではレギュラー陣のコンビネーション芸というものが一つのお決まりのくだりとしてある。いわゆる「お約束」のセリフ・やりとりがあちこちに存在し、これを『(明石家)定食』と呼ぶ。

 

以下、ウィキペディアを参照しているので、必要なければ読み飛ばしていただいて結構である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/痛快!明石家電視台#.E6.98.8E.E7.9F.B3.E5.AE.B6.E5.AE.9A.E9.A3.9F

 

間寛平

必ず寛平が一番初めにボタンを押し、ボケ解答を3個言うことが暗黙のルールとなっている。しかし、ボケが面白くないことが多く、さんまから「早よ!ジャマくさい!」などとせかされ、後輩のさんまから説教されてしまう。さんまがボケを褒めると調子に乗って4回目を押すことがあり、「何で押しはんのん?」と責められることがある。ボケの調子が悪いと、さんまに回数をごまかされることがある。(2回目なのに3回目と言われたり、3回目なのに1回目と言われる。)また、さんまが編集で寛平の回答をなかったことにするよう示唆する。

 

松尾伴内

アシスタントからゲスト紹介されると「出たっ!!」とわざとらしく答える。毎回明らかに女性モノの衣服を着てくるので、さんまに失笑されて「今日こそ女モノやろ?」(たまに「それおばあちゃんモノですよね?」)と聞かれると「男女兼用でございます。」、「高かったんでしょ?」と聞かれると「お求めやすいお値段です。」、「その服何色?」と聞かれると「ピンピンピンクです。(ピンク色系統の服を着ているとき)」「ブルースカイブルー!!!(青色系統の服を着ているとき。最後の「ブルー」には特に力が込められる)」などと答える。

 

村上ショージ

解答者紹介のときには、必ず「ドゥーン!」か「しょうゆうこと」をする。クイズの途中で「ピロロロロン」という効果音が鳴ると、「誰か来た!」と言い、さんまが「ごめんね~。今本番中やねん!!」と言う。

 

いかがでしょうか。まさに明石家さんまの操り人形といえるのではないだろうか。彼らは言われたことをただやることだけが重要で、そこには秩序を破壊する祝祭としての笑いは存在しない。失敗したとしても、それがうまくいったとしても、明石家さんまのフォローで、それは笑いへと昇華されるのである。

 

 

人間らしさの欠落した人間と、明石家さんまを説明したが、明石家さんま自身についても機械的といえることも可能だろう。かっこよく言えば、お笑いサイボーグとでもいおうか。すべてを笑いにささげ、笑いと引き換えに人間らしさを失ってしまったお笑いの怪物。まさに、フランケンシュタインの生み出した怪物のような孤独な存在である。