なぜ、浮気をしてはならないのか?
なぜ、複数の人を同時に好きになってはいけないのか?
言葉にはできないが、なんとなくそれがいけないことだとは思っている。
だが、その感情や違和感を言葉にするのはとてもむずかしい。
複数の友達を同時に愛したとしても誰からも咎められない。
家族皆を同時に愛したとして誰からも咎められたりしたい。
たった一人の人を愛するよりも、複数の人を愛することのほうが、いいに決まっている。
だが、なぜか、恋愛感情をもった異性(同性)を複数同時に愛することは、いけないことだとされているのである。
再度繰り返すが、一般的に複数の異性と同時に交際することはいけないことだとされている。
けれど、たいていの人はそんなことは気にせず、愛する人がいるにもかかわらず、一夜限りの関係をもったり、交際したり、好きになってしまったりする。
それが悪いことだと思っていても、好きになってしまうのだからしかたがない。
そもそも人間は、一人の人を好きになったら他の人を好きになれない、というようなシステムなど組み込まれていないし、むしろ複数の人を同時に好きになることは自然なことである。
あくまでもそれは、人としてやってはならないこと(道徳的、倫理的に)であったり、社会生活を営むうえで必要なルールにすぎないのである。
だが、そのルールを守ることはむずかしく、社会的に認められている人でさえ、一線を越えてしまうのである。
一線を越えるという表現もなにをもって一線とするのかという定義の問題もあるが、今回は性行為に限定させていただく。
その一線を越えるという行為は、言い方を変えると、制御不能の状態だと言えるだろう。
いけないことだとわかっていても、感情や欲望が抑えきれなくなり、今この瞬間の快楽を求めてしまうのである。
フランスの小説家のスタンダールは自著の『恋愛論』で、恋愛を4つに分類(情熱恋愛、趣味恋愛、肉体的恋愛、虚栄恋愛)し、恋愛の本質を探ろうとした。
その中でも『情熱恋愛』にこそ恋愛の本質があるとしている。その理由は「結晶作用」と呼ばれる表現を用いて解説しているのだが、簡単にいうと「恋は盲目」「あばたもえくぼ」ということである。
要するに、恋愛というのは、感情や欲望を抑えきれなくなるだけでなく、恋愛の対象を美化すらしてしまうということである。
そう、つまり恋に落ちてしまったら最後、その時点で強い意志がなければ人は制御不能に陥ってしまい、危険を冒してでも違う世界を求めてしまうのである。
さて、改めて最初の問に戻るが、人はなぜ複数の人を同時に愛してはいけないのか。
なぜ、それがいけないことだとされているのか。
人は、恋に落ちたら制御不能になることは誰もが経験済みのことであると思うが、だとしても、それがいけないことだとされているのである。
その答えを導けるかどうかは定かではないが、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』という本を読んで、以下の点を参照したいと思う。
一人の異性を愛するということは、意志をもってたった一人のひとを選択するという決断が重要である。
なるほど。要するにフロムは、たった一人の異性を意志を持って選択するという行為(決断)を重要としている。つまり、複数の人を同時に愛してはいけない理由としては、意志を持ってたった一人の人を選択できていないことが問題なのである。
それはなんとなく理解できるが、それでは意志をもって選択することが、なぜ重要とされているのだろうか。
そもそも意志自体がどうして重要とされているのだろうか。
恋愛とは関係のない本であるが、意志について大変興味深く考察しているため、國分功一郎氏の『中動態の世界』という哲学書を参照したいと思う。
本書では、能動態でもなく、また受動態でもない、古典ギリシア語等に存在した「態」について考察した内容である。
現在では、能動態と受動態の対立として認識されているが、受動態はもともと中動態から派生した態であり、能動態と中動態の対立として文法は構成されていたそうなのである。
その中動態の概念が消滅する原因に「意志」が深く関係しており、近代社会が形成されていく過程で、「意志」や「責任」といった概念が生まれたとされているのである。
無意識ではあるが、意志がどのような概念であり、それ自体がもともと備わっているものであるとなんとなく思ってはいたが、それが社会の発展や営みの変化によって生まれた概念であるとはとても信じられないことである。
そして、その意志という概念をフロムはとても重要としており、異性を愛する条件としていることは考察すべき点だと思っている。
近代社会において、意志をもって決断するという行為自体がとても重要とされており、それは言いかえると近代社会およびそれ以後の社会を生きる人間としての条件だといえる。
つまり、人間として、意志をもってたった一人のひとを選択するという決断が重要であり、ぼくたちはそれを美徳として考えているのである。
少なからず、ぼくはその行為自体を素晴らしい価値観だと思っている。
再度繰り返すが、なぜ、浮気をしてはならないのか?
なぜ、複数の人を同時に好きになってはいけないのか?
それは、近代社会およびそれ以後の社会を生きる人間としての悪徳と感じてしまう行為だからである。言いかえると、人間として逸脱した行為だといえる。
だが、そうすると、以下のような反論も考えられる。
・浮気自体を決断して行う。
・複数の人を同時に愛することを決断する、など。
決断さえすれば、何をしても許されるという解釈である。
確かに、意志をもって決断するという言葉のみであれば、その反論も受け入れざる終えないが、忘れてはならないのは、たった一人という前提である。
フロムはなぜたった一人という言葉を強調したのか。
それは同書の以下の箇所を参照したい。
異性愛とは、他の人間と完全に融合したい、一つになりたいというつよい願望である。異性愛はその性質からして排他的であり、普遍的ではない。またおそらくは、もっとも誤解されやすい愛の形である。
と説明されている。最後の一文を見て、とても慎重に書いているのがわかる。
要する必要もないと思うが、つまり、異性愛とは一つになることを、理想の愛の形だとしており、排他的に他の人を排除し、二人だけの世界を構築する必要があるのである。
そして、その行為は誤解されやすい愛の形であると説明しているのように、それは二人だけの世界であるため、他者がそれを理解しようとしても無理な話である。
二人の数だけ愛の形があり、二人だけの世界が存在するのである。
フロムは同書の中で、愛するための技術がとても重要であると説明している。それが同書の主旨だともいえる。
誰かを愛するということは、頑張ればいいということではなく、想い続ければ叶うことでもない。
愛するための技術を学び、それを愛を持って実践していくことが重要なのである。
その愛し方を学ばなければ、本当の意味で(本当の意味でという抽象的な言葉を使いたくはないが)愛し合うことはできないだろう。
浮気をしてはならないというのはなんとなくわかる。
だが、それは愛し方を学ぶことで回避できることなのかもしれない。
なぜ、浮気をしてはならないのか?
なぜ、複数の人を同時に好きになってはいけないのか?
それは、意志をもってたった一人のひと(異性)を選択するという決断ができていないからであり、そして、浮気をしないための手立てとして、愛するための技術を学ぶことが重要なのである。
先日、板尾創路さんの浮気問題が話題となっていたが、愛するための技術を身につけることで、火遊びを回避できていたかもしれない。
芸の肥やしと言われればそれまでのことであるが、愛の肥やしというのも必要なのかもしれない。
以上。