センテンスサワー -26ページ目

センテンスサワー

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なぜ、浮気をしてはならないのか?

 

なぜ、複数の人を同時に好きになってはいけないのか?

 

言葉にはできないが、なんとなくそれがいけないことだとは思っている。

 

だが、その感情や違和感を言葉にするのはとてもむずかしい。

 

 

複数の友達を同時に愛したとしても誰からも咎められない。

 

家族皆を同時に愛したとして誰からも咎められたりしたい。

 

たった一人の人を愛するよりも、複数の人を愛することのほうが、いいに決まっている。

 

だが、なぜか、恋愛感情をもった異性(同性)を複数同時に愛することは、いけないことだとされているのである。

 

 

再度繰り返すが、一般的に複数の異性と同時に交際することはいけないことだとされている。

 

けれど、たいていの人はそんなことは気にせず、愛する人がいるにもかかわらず、一夜限りの関係をもったり、交際したり、好きになってしまったりする。

 

それが悪いことだと思っていても、好きになってしまうのだからしかたがない。

 

そもそも人間は、一人の人を好きになったら他の人を好きになれない、というようなシステムなど組み込まれていないし、むしろ複数の人を同時に好きになることは自然なことである。

 

あくまでもそれは、人としてやってはならないこと(道徳的、倫理的に)であったり、社会生活を営むうえで必要なルールにすぎないのである。

 

 

だが、そのルールを守ることはむずかしく、社会的に認められている人でさえ、一線を越えてしまうのである。

 

一線を越えるという表現もなにをもって一線とするのかという定義の問題もあるが、今回は性行為に限定させていただく。

 

その一線を越えるという行為は、言い方を変えると、制御不能の状態だと言えるだろう。

 

いけないことだとわかっていても、感情や欲望が抑えきれなくなり、今この瞬間の快楽を求めてしまうのである。

 

フランスの小説家のスタンダールは自著の『恋愛論』で、恋愛を4つに分類(情熱恋愛、趣味恋愛、肉体的恋愛、虚栄恋愛)し、恋愛の本質を探ろうとした。

 

その中でも『情熱恋愛』にこそ恋愛の本質があるとしている。その理由は「結晶作用」と呼ばれる表現を用いて解説しているのだが、簡単にいうと「恋は盲目」「あばたもえくぼ」ということである。

 

要するに、恋愛というのは、感情や欲望を抑えきれなくなるだけでなく、恋愛の対象を美化すらしてしまうということである。

 

そう、つまり恋に落ちてしまったら最後、その時点で強い意志がなければ人は制御不能に陥ってしまい、危険を冒してでも違う世界を求めてしまうのである。

 

 

さて、改めて最初の問に戻るが、人はなぜ複数の人を同時に愛してはいけないのか。

 

なぜ、それがいけないことだとされているのか。

 

人は、恋に落ちたら制御不能になることは誰もが経験済みのことであると思うが、だとしても、それがいけないことだとされているのである。

 

その答えを導けるかどうかは定かではないが、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』という本を読んで、以下の点を参照したいと思う。

 

一人の異性を愛するということは、意志をもってたった一人のひとを選択するという決断が重要である。

 

なるほど。要するにフロムは、たった一人の異性を意志を持って選択するという行為(決断)を重要としている。つまり、複数の人を同時に愛してはいけない理由としては、意志を持ってたった一人の人を選択できていないことが問題なのである。

 

それはなんとなく理解できるが、それでは意志をもって選択することが、なぜ重要とされているのだろうか。

 

そもそも意志自体がどうして重要とされているのだろうか。

 

恋愛とは関係のない本であるが、意志について大変興味深く考察しているため、國分功一郎氏の『中動態の世界』という哲学書を参照したいと思う。

 

本書では、能動態でもなく、また受動態でもない、古典ギリシア語等に存在した「態」について考察した内容である。

 

現在では、能動態と受動態の対立として認識されているが、受動態はもともと中動態から派生した態であり、能動態と中動態の対立として文法は構成されていたそうなのである。

 

その中動態の概念が消滅する原因に「意志」が深く関係しており、近代社会が形成されていく過程で、「意志」や「責任」といった概念が生まれたとされているのである。

 

無意識ではあるが、意志がどのような概念であり、それ自体がもともと備わっているものであるとなんとなく思ってはいたが、それが社会の発展や営みの変化によって生まれた概念であるとはとても信じられないことである。

 

そして、その意志という概念をフロムはとても重要としており、異性を愛する条件としていることは考察すべき点だと思っている。

 

近代社会において、意志をもって決断するという行為自体がとても重要とされており、それは言いかえると近代社会およびそれ以後の社会を生きる人間としての条件だといえる。

 

つまり、人間として、意志をもってたった一人のひとを選択するという決断が重要であり、ぼくたちはそれを美徳として考えているのである。

 

少なからず、ぼくはその行為自体を素晴らしい価値観だと思っている。

 

 

再度繰り返すが、なぜ、浮気をしてはならないのか?

 

なぜ、複数の人を同時に好きになってはいけないのか?

 

それは、近代社会およびそれ以後の社会を生きる人間としての悪徳と感じてしまう行為だからである。言いかえると、人間として逸脱した行為だといえる。

 

だが、そうすると、以下のような反論も考えられる。

 

・浮気自体を決断して行う。

 

・複数の人を同時に愛することを決断する、など。

 

決断さえすれば、何をしても許されるという解釈である。

 

確かに、意志をもって決断するという言葉のみであれば、その反論も受け入れざる終えないが、忘れてはならないのは、たった一人という前提である。

 

フロムはなぜたった一人という言葉を強調したのか。

 

それは同書の以下の箇所を参照したい。

 

異性愛とは、他の人間と完全に融合したい、一つになりたいというつよい願望である。異性愛はその性質からして排他的であり、普遍的ではない。またおそらくは、もっとも誤解されやすい愛の形である。

 

と説明されている。最後の一文を見て、とても慎重に書いているのがわかる。

 

要する必要もないと思うが、つまり、異性愛とは一つになることを、理想の愛の形だとしており、排他的に他の人を排除し、二人だけの世界を構築する必要があるのである。

 

そして、その行為は誤解されやすい愛の形であると説明しているのように、それは二人だけの世界であるため、他者がそれを理解しようとしても無理な話である。

 

二人の数だけ愛の形があり、二人だけの世界が存在するのである。

 

 

フロムは同書の中で、愛するための技術がとても重要であると説明している。それが同書の主旨だともいえる。

 

誰かを愛するということは、頑張ればいいということではなく、想い続ければ叶うことでもない。

 

愛するための技術を学び、それを愛を持って実践していくことが重要なのである。

 

その愛し方を学ばなければ、本当の意味で(本当の意味でという抽象的な言葉を使いたくはないが)愛し合うことはできないだろう。

 

浮気をしてはならないというのはなんとなくわかる。

 

だが、それは愛し方を学ぶことで回避できることなのかもしれない。

 

 

なぜ、浮気をしてはならないのか?

 

なぜ、複数の人を同時に好きになってはいけないのか?

 

それは、意志をもってたった一人のひと(異性)を選択するという決断ができていないからであり、そして、浮気をしないための手立てとして、愛するための技術を学ぶことが重要なのである。

 

先日、板尾創路さんの浮気問題が話題となっていたが、愛するための技術を身につけることで、火遊びを回避できていたかもしれない。

 

芸の肥やしと言われればそれまでのことであるが、愛の肥やしというのも必要なのかもしれない。

 

以上。

髪染め強要で不登校」高3、大阪府を提訴」という記事を読んだ。

 

学校側は、その生徒の地毛が黒髪であることを調べた上での対応であると主張しているが、

 

ネット上では、どちらかというと生徒の方を見方する人が多いように思う。

 

学校側の対応に問題があるのではないか。人権侵害ではないのかなど。

 

ネット上では、地毛が黒髪以外の生徒(外国人などを含めて)が入学を希望した場合はどう対応するのか、という意見もあったりと、教育・指導に対する批判が多数よせられている。

 

 

校則で禁止されているという以前に、そもそも茶髪はなぜ問題なのか?

 

いや、茶髪というよりも、脱色という行為自体が問題であり、

 

それは、脱色やピアスなどの不良行為(不良ファッション)を防ぐために設けられたルールであるように思う。

 

それらの不良行為が取り上げられるようになったのは1970年代から1980年代くらいかと思う。

 

不良行為自体が社会問題となり、様々な暴力行為等が問題とされていた。

 

リーゼント、パーマ、ボンタン、タバコ、酒、シンナー等、それらはファッション感覚で流行したともいえるだろう。

 

個人的に茶髪くらいは見逃してあげてもいいかと思っているのだが、人によっては茶髪でさえも不良的行為と見なし、批判する人もいる。

 

つまり、不良行為自体がどこからどこまでの行為を指すのか、人によって違うのである。

 

上記のように、校則として、脱色を禁止している学校もあれば、脱色を許可し、ピアスや服装など自由な学校もある。

 

現時点では、不良行為を多様性と捉えるのか否かは、人それぞれ、学校それぞれで判断が異なり、どちらかというとそれらの行為を肯定する意見が多数を占めつつあると思う。

 

不良行為と見なされていた行為自体を多様性であると認め、個人を尊重することはとてもいいことだと思うのだが、懸念点としては、どこからどこまでを多様性の許容範囲として肯定するのか、ということである。

 

自由とは他人に迷惑をかけないことである、と古典的自由主義者のミルが唱えているが、それは多様性を肯定するための一つの条件だといえるだろう。

 

それでは他人に迷惑をかけなければ何をしてもいいのか?という疑問が残る。

 

個人的にはそれでいいんじゃないのかと思うけど、同じ共同体で生活を営む上では、なんらかのルールは必要だと思うし、行為次第では、生理的に無理な場合があるため、共同体の外であれば構わない、というのが少なからずぼくの態度である。

 

 

多様性を認める学校にもそれなりのルールであったり、校則はあると思うのだが、それではそれらの学校はどこまでの行為を多様性と認めるのだろうか。

 

脱色行為、ピアスなどを許可するのは当然として、それでは、入れ墨はどうだろうか。

 

そのような生徒はあまり前例として聞いたことがないが、入れ墨を許可する学校はあるだろうか。

 

全身に入れ墨をしている場合、一部だけ入れ墨をしている場合、見えない程度ならばオッケー、文字ならばオッケー、いやいや前向きな文字ならばオッケーなど、限定的にルール化されていくに違いない。

 

上記の例はあくまでも不良的行為をしそうな生徒を前提としているが、それでは不良行為をしてしまい、少年院に入っていた少年少女であればどうだろうか。

 

受け入れてくれる学校は少ないと思うし、生徒や保護者の立場ならそのような問題児と生活するのは、前向きになりにくいのではないだろうか。

 

ぼくとしてもそれはちょっと怖い。勇気を出して受け入れてあげたいという意志はあるけれど。

 

現状では、そのような不良性を感じてしまうような印象の人々を肯定するのは難しいように思っている。

 

 

それでは、ちょっと違う観点から考えてみよう。

 

これまでは生徒にだけ目を向けてきたが、それでは逆に先生が脱色やピアス、入れ墨をしていたらどうだろうか。

 

ぼくはすぐには受け入れられないように思う。同様に、生徒および保護者も受け入れがたいのでは。

 

社会人としても、公人としても、それらは常識の範囲を超えてしまっているからだと思う。

 

むしろ彼らにこそ多様性は求められていないんじゃないかと思うのである。

 

先日選挙があった。どの候補者も同じような髪型で、同じような服装で、個性のかけらもない。

 

例えばだが、その候補者の一人が脱色やピアス、入れ墨をしていたとしたら、一票を入れるだろうか。

 

あの橋本元大阪市長でさえ、選挙前に茶髪から黒髪に染めていた。

 

それほど公人にとって印象は重要なものなのである。

 

安倍総理大臣が金髪で、鼻ピアスをし、トランプ命と入れ墨をしていたら、受け入れ難いでしょ。

 

ぼくは少なからず、そんな代表を支持しない。

 

ある意味、面白いと思うが、それらの不良性を凌駕する信念を感じなければ不安でしょうがないからだ。

 

 

個人を尊重することはとても重要なことである。それはわかる。

 

だが、個人を尊重すればするほど、共同体としての多様性が失われていくように思う。

 

いや、現状ではそんなことはないが、すべてが多様化されてしまった未来は、そうなってしまうのではと危惧している。

 

共同体としてあるべき姿や、共同体単位で進むべき方向性。

 

共同体を維持するためにルールは必要だと思うし、それらを受け入れない人を排除することは良くないが、共同体自体の個性を主張することは重要だと思うのだ。

 

今回の件にしても、その学校はあらゆるメディア、著名人、SNSなどで批判されて、謝罪して終わるのだろう。

 

それらを甘んじて受け入れてしまうと、学校らしさが失われてしまうのではないだろうか。

 

主張すべきことは、主張するべきだと思う。

 

それこそ、学校の色が脱色されてしまったといっても過言ではない。

 

少年少女が大志を抱ける環境を作ることが学校のやらなければならないことであるが、そのためにも、学校自体が大志を抱くことが今度の課題だと思っている。

 

 

さて、学校側は今度どのように対応していくのか注目である。

 

その他の学校もなんらかの対応に迫られるだろう。

 

一つの解決策として、地毛登録制度導入を検討している学校もあるそうだ。

 

毛が無いやつはどうするんでしょうね。

 

そしたら、またなんらかの問題が出てきそうだし。

 

博多高校の暴力事件にしろ、今回の件にしろ、教師は本当に大変だと思います。

 

以上。

お笑い芸人とは何か。

 

お笑い芸人とは何をする人たちなのか。

 

一昔前までは、笑いを専門に扱う芸人のことを、そのように呼んでいたと思う。

 

だが、その後ラジオやテレビなどのメディアが登場し、一般に普及していくなかで、お笑い芸人は主戦場を変更していき、いつしかお笑いタレントと呼ばれるようになってしまった。

 

現在では、お笑いタレントとテレビタレントは限りなく同じような役割で働いており、ハライチの岩井はそのような芸人をお笑い風と名付けている。

 

定義上、どこからどこまでがお笑い芸人であると、もはや規定することはできないだろう。

 

今にかぎったことではないが、お笑い芸人(お笑いタレント)の活躍の幅は多岐にわたり、様々なジャンルで活躍しているのである。映画監督、作家、ミュージシャン、役者、など。

 

既存メディアにとどまらず、活躍の幅は、これまで以上に広がっているように思う。

 

その点で問題なのは、一括りにしてお笑い芸人と呼んでいるために、お笑い芸人自体が肩書とされてしまったのかもしれない。

 

最近話題のにゃんこスターのアンゴラ村長のように、会社に勤めながらお笑い芸人をしている人も、もはや珍しくもないだろう。

 

お笑い芸人が二足のわらじとしてなにか他のことをやっているのではなく、あくまでも本業があり、プロモーションとしてお笑いを利用する人々が増えたように思うのである。

 

 

しかしながら、ぼくたちはもはや、お笑い芸人の理想像を勝手に作り上げてしまい、お笑い芸人はこうであるべきだと思ってさえいる。

 

意地悪な言い方をすれば、お笑い芸人はこうであってはいけないという風に規定しちゃっているのだ。

 

それは、芸人という定義があまりにも曖昧なため、お笑い風をやっている人たちを一括りにせざるおえないのである。

 

かつて、そのような芸人を松本人志は「汚れ」という言葉で表現していた時代がある。

 

とくに90年代の松本人志は、お笑い芸人のあるべき姿を自ら提示し、それに外れたものを汚れと罵っていた。まるで排外主義の空気すらただよっていたように思う。

 

当時の松本人志の姿勢は、それほど強烈なものであり、そのカリスマ性は消費者を扇動するほどの力を持ってしまったのである。

 

そしてその後、その影響を受けた消費者たちの一部がお笑い芸人となったことで、お笑いの方向性を決定づけられてしまい、現状のような鋳型にはまった画一的な優等生タイプの芸人が揃ってしまったのだろう。

 

 

現在でもそのような価値観はカッチョイイ笑いのスタイルとされているが、少しづつではあるが、新しい風が吹き込まれつつあると思うのである。

 

その代表が、ウーマンラッシュアワーの村本だと、ぼくは考えている。

 

彼は、「王さまは裸だ!」と言わんばかりに、その硬直した価値観に対して、一石を投じたのである。

 

先日のAbemaTVでは、先輩芸人たちに対し「なぞりながら死んでいく奴らしかいない」と発言し、「大喜利とトークだけやって死んでいけ!」などと、先輩芸人を批判したのだ。

 

意図的に物議を醸し出す発言をしているが、これはただ単に批判しているのではなく、目を覚ませというテーゼを投げかけたのである。と、ぼくは勝手に思っている。

 

ファナティックな信者ほど、彼の発言に敏感に反応し、放送すら観ずに批判しているように思う。

 

彼らにしてみれば痛いところを突かれたのかもしれないし、もしかするとそれ自体を自覚すらしているのかもしれない。

 

 

ウーマンラッシュアワー村本大輔について

 

2013年の年末に開催されたTHE MANZAIでウーマンラッシュアワーは優勝した。スピード感のある喋りで饒舌多弁にまくし立て、その語り口調は街頭演説のようでもあり、アジテーションのようでもあった。そして、中川パラダイスに対する強烈な相方いじり。それらはまるで、漫才ブームのしゃべくり漫才を彷彿とさせるものがあった。

 

また決勝での二本の漫才は、本当に神がかっていた。会場が一体となり、空気を支配していたように思う。村本がボケた後、ツッコミというツッコミがないにもかかわらず、客は手を叩いて笑っていたのは異様な光景ですらあった。

 

そんなウーマンラッシュアワーの漫才をいち早く評価したのは、M-1グランプリの創設者でもある島田紳助である。敗者復活戦のウーマンラッシュアワーのネタを観た後、決勝でも通用するネタであると、高く評価していた。その後、島田紳助の番組でもネタを披露する機会を与えられたり、他の番組でも起用される機会は増えていった。

 

 

ウーマン村本の魅力はそれだけにおさまらず、キャラクター性も取り上げておきたい。女性問題などのスキャンダラスな話題に事欠かさず、またツイッターでは、頻繁に炎上したり、あえて自ら炎上させたりとSNSをうまく利用している。

 

とまあ、話題に欠かない存在であるが、ここ最近の言動や行動は、これまでのキャラクター性とは違って、時事問題などの村本自身が疑問に思ったことをツイッターでつぶやいたり、鋭い切り口で言及していることがある。

 

まるで社会派と言わんばかりに彼なりの見解を述べ、疑問を呈しているのである。

 

先日衆院選が行われたが、ウーマン村本は棄権し、それを公表したことが物議を醸し出している。政治家や、既得権益者に対して彼なりのアプローチであろうが、とても挑発的であり、今度の彼の方向性が垣間見えたともいえるだろう。

 

ウーマン村本、衆院選投票せず、を告白 行かなかった人の理由を可視化させたいと

 

彼が社会派となったきっかけは定かではないが、元NHKアナウンサーの堀潤などのジャーナリストであったり、社会を変えていこうというネットメディアで活躍している人々の影響があるのではないだろうかと思っている。

 

また、被災地などに営業に行った際、被災者や支援者との出会いがあり、いろんな発見があり、関心を持ったのだろう。

 

そういった変化が、彼自身の芸にも変化を与えていることが、また面白い。

 

原発問題、沖縄辺野古問題などを、ウーマンラッシュアワーの漫才のネタの題材にしたり、単独での漫談の風刺ネタとして昇華していることも真骨頂といえるだろう。

 

以下は、村本が漫談で披露した時のライブ映像である。しゃべくりというか、うまい街頭演説のような、もっと聞きたいという欲望を掻き立てるような漫談である。

 

熊本地震から1年半、ウーマン村本"益城町"で単独ライブ!被災地の現状と不満とは|ウーマンラッシュアワー村本大輔の土曜The NIGHT #65|AbemaSPECIAL【AbemaTV】

 

 

さて、最後になるが、ぼくが村本に関心を持った一番の理由は、彼がスタンドアップコメディを世界で演じることを今後の目標と掲げていることである。

 

長井秀和など、日本でもチャレンジしている人はいるが、成功した人は今のところいないのではないだろうか。

 

課題は、たくさんあるだろうが、もしかすると、数年後に世界的なエンターテイナー=スタンドアップコメディアンとして、村本の漫談を観れる時代が来るかもしれない。

 

以前、茂木健一郎が以下のように日本のお笑い芸人を揶揄したことがあるが、

 

「上下関係や空気を読んだ笑いに終止し、権力者に批評の目を向けた笑いは皆無」

 

「日本の『お笑い芸人』のメジャーだとか、大物とか言われている人たちは、国際水準のコメディアンとはかけ離れているし、本当に『終わっている』」

 

と、結構強烈な批判である。

 

だが、上記で説明したように、村本は、茂木健一郎の定義の中のお笑い芸人像を体現しようとしているのである。そのように思うのである。

 

彼自身の原風景であったり、当事者として語れることであったり、彼自身が抱えているイデオロギー(原発問題など)は、ある意味世界に通用する題材でもあると思う。

 

彼自身のフラストレーションをネタとすることで、客ら自体が抱えている社会への不満を呼び起こし、それを直接代弁しているわけではないが、彼がネタとすることで客ら自体に同調の心理が働き、賛同の拍手と声援を受けるのである。

 

 

今後、ウーマン村本がどのような活躍をするのかは定かではない。

 

だが、時代に風穴を開けてくれるような芸人として、世界に雄飛してくれるだろう。

 

以上となる。