少年少女よ、大志を抱け | センテンスサワー

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髪染め強要で不登校」高3、大阪府を提訴」という記事を読んだ。

 

学校側は、その生徒の地毛が黒髪であることを調べた上での対応であると主張しているが、

 

ネット上では、どちらかというと生徒の方を見方する人が多いように思う。

 

学校側の対応に問題があるのではないか。人権侵害ではないのかなど。

 

ネット上では、地毛が黒髪以外の生徒(外国人などを含めて)が入学を希望した場合はどう対応するのか、という意見もあったりと、教育・指導に対する批判が多数よせられている。

 

 

校則で禁止されているという以前に、そもそも茶髪はなぜ問題なのか?

 

いや、茶髪というよりも、脱色という行為自体が問題であり、

 

それは、脱色やピアスなどの不良行為(不良ファッション)を防ぐために設けられたルールであるように思う。

 

それらの不良行為が取り上げられるようになったのは1970年代から1980年代くらいかと思う。

 

不良行為自体が社会問題となり、様々な暴力行為等が問題とされていた。

 

リーゼント、パーマ、ボンタン、タバコ、酒、シンナー等、それらはファッション感覚で流行したともいえるだろう。

 

個人的に茶髪くらいは見逃してあげてもいいかと思っているのだが、人によっては茶髪でさえも不良的行為と見なし、批判する人もいる。

 

つまり、不良行為自体がどこからどこまでの行為を指すのか、人によって違うのである。

 

上記のように、校則として、脱色を禁止している学校もあれば、脱色を許可し、ピアスや服装など自由な学校もある。

 

現時点では、不良行為を多様性と捉えるのか否かは、人それぞれ、学校それぞれで判断が異なり、どちらかというとそれらの行為を肯定する意見が多数を占めつつあると思う。

 

不良行為と見なされていた行為自体を多様性であると認め、個人を尊重することはとてもいいことだと思うのだが、懸念点としては、どこからどこまでを多様性の許容範囲として肯定するのか、ということである。

 

自由とは他人に迷惑をかけないことである、と古典的自由主義者のミルが唱えているが、それは多様性を肯定するための一つの条件だといえるだろう。

 

それでは他人に迷惑をかけなければ何をしてもいいのか?という疑問が残る。

 

個人的にはそれでいいんじゃないのかと思うけど、同じ共同体で生活を営む上では、なんらかのルールは必要だと思うし、行為次第では、生理的に無理な場合があるため、共同体の外であれば構わない、というのが少なからずぼくの態度である。

 

 

多様性を認める学校にもそれなりのルールであったり、校則はあると思うのだが、それではそれらの学校はどこまでの行為を多様性と認めるのだろうか。

 

脱色行為、ピアスなどを許可するのは当然として、それでは、入れ墨はどうだろうか。

 

そのような生徒はあまり前例として聞いたことがないが、入れ墨を許可する学校はあるだろうか。

 

全身に入れ墨をしている場合、一部だけ入れ墨をしている場合、見えない程度ならばオッケー、文字ならばオッケー、いやいや前向きな文字ならばオッケーなど、限定的にルール化されていくに違いない。

 

上記の例はあくまでも不良的行為をしそうな生徒を前提としているが、それでは不良行為をしてしまい、少年院に入っていた少年少女であればどうだろうか。

 

受け入れてくれる学校は少ないと思うし、生徒や保護者の立場ならそのような問題児と生活するのは、前向きになりにくいのではないだろうか。

 

ぼくとしてもそれはちょっと怖い。勇気を出して受け入れてあげたいという意志はあるけれど。

 

現状では、そのような不良性を感じてしまうような印象の人々を肯定するのは難しいように思っている。

 

 

それでは、ちょっと違う観点から考えてみよう。

 

これまでは生徒にだけ目を向けてきたが、それでは逆に先生が脱色やピアス、入れ墨をしていたらどうだろうか。

 

ぼくはすぐには受け入れられないように思う。同様に、生徒および保護者も受け入れがたいのでは。

 

社会人としても、公人としても、それらは常識の範囲を超えてしまっているからだと思う。

 

むしろ彼らにこそ多様性は求められていないんじゃないかと思うのである。

 

先日選挙があった。どの候補者も同じような髪型で、同じような服装で、個性のかけらもない。

 

例えばだが、その候補者の一人が脱色やピアス、入れ墨をしていたとしたら、一票を入れるだろうか。

 

あの橋本元大阪市長でさえ、選挙前に茶髪から黒髪に染めていた。

 

それほど公人にとって印象は重要なものなのである。

 

安倍総理大臣が金髪で、鼻ピアスをし、トランプ命と入れ墨をしていたら、受け入れ難いでしょ。

 

ぼくは少なからず、そんな代表を支持しない。

 

ある意味、面白いと思うが、それらの不良性を凌駕する信念を感じなければ不安でしょうがないからだ。

 

 

個人を尊重することはとても重要なことである。それはわかる。

 

だが、個人を尊重すればするほど、共同体としての多様性が失われていくように思う。

 

いや、現状ではそんなことはないが、すべてが多様化されてしまった未来は、そうなってしまうのではと危惧している。

 

共同体としてあるべき姿や、共同体単位で進むべき方向性。

 

共同体を維持するためにルールは必要だと思うし、それらを受け入れない人を排除することは良くないが、共同体自体の個性を主張することは重要だと思うのだ。

 

今回の件にしても、その学校はあらゆるメディア、著名人、SNSなどで批判されて、謝罪して終わるのだろう。

 

それらを甘んじて受け入れてしまうと、学校らしさが失われてしまうのではないだろうか。

 

主張すべきことは、主張するべきだと思う。

 

それこそ、学校の色が脱色されてしまったといっても過言ではない。

 

少年少女が大志を抱ける環境を作ることが学校のやらなければならないことであるが、そのためにも、学校自体が大志を抱くことが今度の課題だと思っている。

 

 

さて、学校側は今度どのように対応していくのか注目である。

 

その他の学校もなんらかの対応に迫られるだろう。

 

一つの解決策として、地毛登録制度導入を検討している学校もあるそうだ。

 

毛が無いやつはどうするんでしょうね。

 

そしたら、またなんらかの問題が出てきそうだし。

 

博多高校の暴力事件にしろ、今回の件にしろ、教師は本当に大変だと思います。

 

以上。