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センテンスサワー

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ぼくが、松本人志を分析しようと思った経緯についてまず説明したいと思う。以前、「笑いの神は死んだ」というタイトルで、松本人志=神と位置づけ、盲信していた信者たちが我に返るまでの経緯について考えてみた。当時、松本信者だったぼくは、松本人志の笑い自体を絶対的なものだと思っていた。今でも彼のお笑いは面白いものだとは思っているのだが、絶対的なもの=普遍的な笑いといわれると首を傾げざるおえない。

 

ぼくたちは松本人志の笑いを絶対的なものだと信じ、「ここではない、どこかへ」通じる笑いであると思い込み、欲望していたように思う。だが、2000年代を過ぎたあたりから、彼のカリスマ性が失われていき、ネットを中心に彼の笑いを嘲笑する人々が現れ始めた。それ以前にもアンチはいたと思うのだが、ネットの普及により、それらの批判が可視化されたことが関係していると思う。

 

それに対して、彼らは松本人志の笑いを理解できていない、センスのない人々だと批判していたのだが、次第に彼らの批判に対して目を向けるようになり、松本人志の笑いを再度考察してみようと思った次第である。ガキの使いの漫才から、夢で逢えたらやごっつのコントなど、面白く拝見させていただいたが、彼らの批判についても一理あるのではと一部肯定するようになった。今見ても色褪せることなく追求された笑いであると思うのだが、それが誰にでも受け入れられる笑いではないというのが結論である。

 

そこでぼくは、松本人志のカリスマ性について興味を持ち、またそのカリスマ性が失われていく経緯について考えてみたいと感じるようになったのである。そして、なぜぼくたちは、松本人志の笑いが絶対的なもの=普遍的な笑いであると信じ、松本人志の言葉(笑いとしての)をありがたいものとして受け取ってしまったのか、そこにヒントがあるように思うのである。

 

 

これまでの連載では、お笑いの歴史を振り返り、日本の演芸の起源を辿ることで、日本のお笑いブームを考察してみた。そして、2000年代のお笑いブームを新たな解釈で再定義することを試みた。その中で、断片的ではあるが松本人志について考察しており、改めて以下に概略を説明しておきたいと思う。

 

まず、ぼくは松本人志のオタク性について指摘した。そのオタク性こそが松本人志の独自の笑いを作ったと言っても過言ではない。というのも、ポストモダンの世界では、人々が拠り所していた価値観が失われてしまい、社会を維持し、支えていたシステムが機能不全に陥るというのである。その失われてしまった大きな物語(人々を支えるシステム)を補填するために、人々は虚構を欲望していくことになる。虚構とは、事実でないことを事実らしく作り上げることである。そうすることで、人々を支えていた大きな物語の穴を虚構で埋めるようになったというのである。

 

そこで注目されたのが、同時期に現れたオタクと呼ばれる人たちである。オタクが出現した時期は1960年代前後であり、オタク第一世代と呼ばれている。松本人志が生まれたのは1963年であり、まさにオタクの第一世代といえるのである。そのオタク世代以降の人々は、特にクリエイターたちは、その虚構(マンガ・アニメ)で構築された世界を創作の拠り所とし、新たな価値観の作品を量産していくことになる。

 

松本人志の作り出す笑いが新しい笑いだと評価されているのもそのような経緯がある、というのがぼくの見解である。そしてその新しい価値観の笑いは若者(虚構ネイティブ)を中心に受け入れられていき、松本人志に憧れて笑いを志す人々が増えていったのである。

 

そして、そのような人々を松本人志の二次創作の一部であると、ぼくは思っている。つまり、松本人志の作り上げた世界観を虚構の拠り所とし、その虚構をもとに笑いを生み出している時点で、それはコピー(=シミュラークル)でしかないからである。

 

このテーマの結論になりかねないため慎重に説明するが、松本人志がカリスマ性を失ってしまった経緯の一つに、松本人志が作り出した虚構(過去)で、現在の松本人志はお笑いを作っているのではないか、と思うのである。培った経験をもとに作品が生まれていくため、それは当たり前のことなのかもしれないが、松本人志の笑いが過去の反復のような気がしてならないのでもある。

 

そして最後に、2000年代の笑いの消費の仕方に言及しているのだが、芸人が笑いを提供することもとても重要なことであるが、笑いの消費者がどのように笑いを消費するのかという仕方もとても重要なことである。そして、90年代の松本人志は、根本的な笑いの消費の仕方自体も変えてしまっていたと思っている。その点については、時間をかけて説明していきたいと思う。

 

 

さて、次回は松本人志のカリスマ性について説明したいと思う。そのために、まずカリスマとはなにかということを説明し、その定義を参照しながら、松本人志がカリスマ性を獲得していった経緯を解説していきたいと思う。

 

以上。

 

 

 

これまでのまとめ一覧。

 

お笑い観 笑いについて①

演芸にまつわる笑いの歴史 笑いについて②

お笑いブームとお笑いメディア史 笑いについて③

お笑い第五世代 大量供給・大量消費について④

お笑い第五世代 ネタ見せ番組ブームについて⑤

お笑い第五世代 動物化するポストモダンの笑いについて⑦

お笑い第五世代 ネタのイージー革命について⑥

お笑い第五世代 ネタ見せ番組ブームについて⑤

お笑い第五世代 フィクションから、ノンフィクション、そしてフィクションへ⑧

お笑い第五世代 二次創作物とシミュラークルにおける消費者との関係性⑨

お笑い第五世代 笑いの消費の仕方について⑩

 

 

※こちらでもお笑い論やってます。

 

https://note.com/sentence_sour

 

結成して間もないころからジャルジャルの人気はすごかったように思う。単独のチケットは即完売し、女子高生や若者のみならず、笑いを志している人々も、彼らのライブを観るために足を運んでいた。

 

当時からジャルジャルのネタのスタイルはいい意味でも悪い意味でも変わっていないように思う。技術レベルは向上していると思うが、彼らのセンスはその時点ですでに研ぎ澄まされていた。

 

ジャルジャルのコントの特徴は設定の妙であり、奇妙奇天烈な世界観であろう。見方によってはシュール性を感じられるが、ジャルジャルの笑いはそれでも分かりやすい構成で作られている。それは、不条理で一見複雑そうな設定であるが、笑いのとり方はいたってシンプルだからである。それは、彼らの笑いのとり方や面白みのポイントが、笑いの法則性を発見し、パータン化することを目的としているからである。それは以前、理系的笑いと文系的笑いというブログで説明しているが、まさに理系的な笑いの仕方であるといえる。

 

例えば、三段落ちは、最低限の手数で笑いを取るパターンである。一段目でフリ、二段目でもフリ(小ボケともいう)、三段目でボケるという手法である。要するに、一段目と二段目でパターン化され、その最低限の手数でパターン化された後に、ボケをかますというものである。

 

あくまでもこれは一例であるが、パターン化とは、規則性や方向性を、受け手に認識させ、共犯関係を築いた上で、ボケを成立させていくことである。

 

ジャルジャルはこの笑いのとり方に特化しているといえる。入り口はとても奇妙奇天烈であるが、その設定(世界観)さえ理解できれば、笑いを消費することができるのである。

 

 

昨日のM-1グランプリでは、ジャルジャルは「変な校内放送」ネタで爆笑をかっさらっていた。松本人志も今大会での最高得点を付け、「一番おもしろい」と評価していた。ジャルジャルといえばコント職人としてのイメージが強かったのだが、2010年代に入ってから漫才も披露することとなり、コント同様に高く評価されている。

 

コントであろうと、漫才であろうと、ジャルジャルのネタ自体は変わりなく、色褪せることなく提供できるのであろう。言い方をかえれば、媒体としての形式に依存することなく、コンテンツを提供することができるのである。

 

さて、その「変な校内放送」のネタについてであるが、簡単に説明すると、福徳が変なチャイムを言って、それに応じて後藤が反射的に答えるというもの。このチャイムではこう答える、という風にゲーム形式で話は進んでいき、福徳は変なチャイムのバリエーションを増やしていき、後藤はそれらを記憶し、反射的に答えるというゲーム性に可笑しみがある。

 

個人的にとてもおもしろかったのだが、惜しくも最終決勝へと進むことができなかった。唯一ジャルジャルを評価していたのは、阪神巨人の巨人師匠と、ダウンタウンの松本人志である。そして、ジャルジャルのネタを観た後に松本人志は以下のような表現でネタを評価していた。

 

「あれ以上いってしまうと、漫才ではなく曲になってしまう。ギリギリの設定が意見の分かれるところ。僕はバッチリ」

 

この感想を聞いて、一瞬どういうことか分からなかったが、再度ネタを観てなんとなくそれが理解できた。そしてこれまで、ぼくがジャルジャルに抱いていた違和感について理解するための手がかりになった。

 

ぼくがジャルジャルに抱いていた違和感とは、ジャルジャルのネタにメッセージ性を感じられないことである。メッセージ性とはなにか。例えば、社会に対しての不満であったり、個人として主張したいことであったり、ネタを通じで伝えたいことなどである。スタンダップコメディでは、よく風刺的なネタをすることが多いが、社会批判やイデオロギーはとても重要なことだと思うのだ。

 

以前、茂木健一郎が、日本の笑いは政治を批判できないと批判していたが、まさにジャルジャルはそこから一番遠いところにいるのではないだろうか。

 

もう一つ同様に関連することであるが、ジャルジャルのネタであったり、バラエティでの彼らの出方であったり、彼らは日本のお笑いの文脈に依存していないように思うのだ。日本のお笑いはムラ社会のようであるが、その文脈の中で笑いを取ることを求められており、その文脈から外れると村八分となってしまう。

 

ウィークポイントとして、ジャルジャルはネタ以外をあまり評価されていないように思う。ジャルジャルワールドと揶揄されるほど、バラエティで活躍しているところをあまりみれない。すぐにミニコントをするイメージがある。なぜ、彼らは自らを主張しないのか。なぜ、なにかを演じることで表現しようとするのか。

 

それは、上記で指摘したことが関係していると思うのだが、その理由としてバラエティが単純に苦手だと思っていた。

 

だが、苦手だからという理由を片付けるわけにはいかない。その理由を探るヒントとして、先ほど取り上げた松本人志の発言はとても参考にしたいと思っている。

 

 

その謎を解くための手がかりは、やはり彼らのネタが重要だと思う。そして、そのネタにメッセージ性を感じられないということは先ほど説明したが、彼らのネタには言語が言語として機能されていないと思うのである。

 

どういうことかというと、彼らは言葉を記号としてしか使っていないのである。本来持つべき言葉には様々な意味というものが含まれていると思うのだが、ジャルジャルのネタでは、それらがネタをするために用意された道具としてしか機能していない。

 

それを前提に話を進めると、メッセージ性などあるはずがないだろう。そもそも言葉が言葉として機能していないのだから、メッセージ性などあるはずがない。ただの記号の交換でしかなく、音としてしか機能していないのである。

 

今回の「変な校内放送」のネタでは、その記号の交換をスピーディーに展開していくネタだといえる。その点を松本人志は上記のように解釈したのかは定かではないが、ぼくは少なからず関連していると思っている。

 

歌ネタとまではいかないが、それに匹敵するくらいのポテンシャルをジャルジャルのネタは備えているのである。売れるための条件、まあそれは一発屋の条件でもあるが、歌ネタは誰にでも受け入れられ、反復性による中毒性があり、コピーしやすいため伝搬に長けていると思われる。だが、その分、消耗されるスピードがはやいため、禁じ手とされている。

 

今回のネタもとても分かりやすく作られているため、老若男女問わず、誰にでも受け入れられると思う。起業家の家入氏がジャルジャルのネタを観た子供が爆笑しているとツイートしていたが、あながち間違っていいないかもしれない。

 

今回の「変な校内放送」のネタは、歌ネタではないにも関わらず、歌ネタに近い要素を併せ持ち、絶妙な加減で作られた新しいネタだといえるのではないだろうか。

 

再度繰り返すが、ジャルジャルのネタにはメッセージ性が感じられないのだが、それでも彼らはそれを必要とせず、新たな笑いとして独自性を追求しているのである。そもそもメッセージ性などもはや古い価値観なのかもしれない。以前、やばいTシャツ屋さんについてブログを書いたが、音楽にしろ、笑いにしろ、メッセージを伝えるためにメディアを利用することはダサい行為なのかもしれない。

 

勘繰るわけではないが、もしかするとメッセージ性が必要ないというメッセージなのかもしれないが、彼らにメッセージ性が加われば、また違うネタになるのかもしれないと期待してしまう。

 

以上。

例年のM-1グランプリと比較しても今回の大会はとても盛り上がっていたと思う。さくらがいるのではないだろうか、と疑いそうになるくらい全体的にウケていたように思う。

 

一組目のユニバースの漫才を見た後に、「お客さんが良すぎるのかもしれない」という松本人志さんの指摘はとても的確だったように思う。ぼくはユニバースの漫才を何度か見ているので、ネタ自体がとても仕上がっていたためウケているなあと感心するばかりだったけど、一組目でそれを見抜くというのはさすがである。

 

さて、今回のM-1グランプリの特徴としては、若手であったり、決勝初登場のコンビが多かったことがあげられる。一組目のユニバースにしろ、決勝に残ったミキにしろ、初めてネタを見た人も多いと思う。そういう意味でも、M-1グランプリが開催された当初のワクワク感を感じられたのではないだろうか。どんなネタをするのか、どんなキャラクターなのか、そして審査員はそれらのネタをどのように評価するのか。そういった点での、新鮮さと鮮度がとてもあったように思う。

 

また注目しておきたいのは、ネタ順をその場でクジで決めるという試みである。笑いの賞レースではネタ順をとても重要視されている。トップバッターは空気が重いためやりにくく、終盤は客が疲れてくるため垂れてくる。そのため序盤がとても人気がある順番なのである。また、前のコンビのネタによって客の雰囲気も変わってしまう。事前に順番がわかっていると、それらを踏まえてネタを選ぶことができるので、調整しやすいのである。

 

だが、直前に決まるとなると話は変わってくる。ある意味でぶっつけ本番であり、今できることをするしかない。もしかすると、制作サイドの狙いはそこにあるのかもしれない。つまり、あえて緊張感が生まれる仕組みを用いたのである。

 

どういうことかというと、かつてのM-1にはとても緊張感があった。だが、M-1が復活してからは当時ほどの緊張感は感じられず、他の賞レースと同等くらいしかないように思う。そのため、ネタ順の仕組みを変更したのであろう。その試みが功を奏してか、今回のM-1グランプリはとても成功したと言える。

 

 

それでは、気になったコンビだけ感想を書いていこうと思う。

 

ミキ

オーソドックスな漫才ではあるが、まるで兄弟喧嘩を彷彿とさせるネタだった。亜生(ボケ)のひょうひょうとした感じと、昴星(ツッコミ)の個性のあるツッコミ。兄弟としての個性やキャラクター性をうまく漫才に出せているコンビだと思う。

 

ジャルジャル

ジャルジャルらしいとしかいいようのないネタである。設定自体は妙であるが、それを分かりやすくパターン化し、客になにが面白くて、なにを面白がればいいのかを伝える仕方が、本当にうまいと思う。パターンを積み上げながら、スピードをあげて複雑化させていくのは、ジャルジャルにしかできない芸当だと思う。あのネタを覚えるだけでも大変なのに、餅つきの早業のように、テンポをあげながらできるのは、まさに神業である。

 

和牛

ボケの水田の理屈っぽいキャラクターと、ツッコミの川西の女形キャラクターの漫才。今回の漫才は、前半をネタフリとし、後半に回収するという手法の仕方だった。前半のネタフリに対して盛り上がりに欠けていたことを指摘されていたが、後半の回収は見事だったと思う。基本な漫才では、片方が話しているときは相槌を打つくらいで、もう一方は話を聞いているのだが、和牛は演出として声のボリュームを変えながら互いの邪魔をしない程度にボリュームを絞り、話を進めているのが巧みだと思う。

 

 

とろサーモンの漫才について

 

さて、とろサーモンについてであるが、ぼくが初めてネタを見たのは、2000年代の前半である。その頃、とろサーモンはbaseよしもとという劇場で活躍していて、「すかし漫才」で人気を博していた。

 

すかし漫才とは、どちらかというとツッコミ主体の漫才であり、久保田のボケを、村田がツッコむのではなく、無視や受け流しで、すかしていく漫才のスタイルである。久保田があれやこれやしてかまってもらおうと頑張るのだが、村田は漫談のように話を進めていくのである。それがおかしい。

 

すかし漫才はとろサーモンが発明した漫才のスタイルだといえる。オードリーのズレ漫才とよく比較されることもあるのだが、すかし漫才の発展形としての、ズレ漫才という認識が正確だと思う。それまでそのような漫才のスタイルはなかったし、ボケとしてのすかしはあったかもしれないが、漫才を通してそれだけで展開させていくのは、独自のものだっただろう。

 

だが、いつしかその漫才を見ることはなくなった。彼らはある時期を境にすかし漫才をやることはなくなった。一つのスタイルとしては面白い試みであるが、それだけで展開させていくのが難しいと判断したからだと思う。

 

その後、彼らの新しい漫才のスタイルがこのタイミングで確立するとは、夢にも思わなかった。昨年の敗者復活戦でのネタもとてもよかったが、今回はその時よりも洗練されていたように思う。ボケとツッコミのバランスも均等であり、各自のキャラクター性を活かしつつ、オーソドックスな仕方で作られた素晴らしい漫才だった。

 

 

 

 

 

最後に

 

さて、M-1グランプリなどの賞レースでよく耳にする、「新しい笑い」についてぼくなりの解釈を交えて説明しておきたいと思う。

 

例えば、上記で説明したすかし漫才もその一つとされているのだが、これまでになかった笑いのことを言う。

 

これまでになかった笑いとは、つまり新しく解釈された笑いのことである。

 

それは、笑いが次の段階に行ったことを意味するのではない。次の段階に行くことはない。

 

笑い自体が広がったことを意味し、解釈が更新されていくことを意味する。

 

抽象的な表現となるが、その笑いの広がる速度が早く、広範囲に広がっていく場合が、笑いのブームであると思っている。

 

現在は、お笑いブームではないから、新しい笑い=解釈の更新のスピードは遅いといえるだろう。

 

そういう意味では、今回のM-1グランプリでは、いくつかの新しい笑いは生まれただろう。

 

少なからず、ぼくはそう思ってる。

 

以上。

 

 

 

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