結成して間もないころからジャルジャルの人気はすごかったように思う。単独のチケットは即完売し、女子高生や若者のみならず、笑いを志している人々も、彼らのライブを観るために足を運んでいた。
当時からジャルジャルのネタのスタイルはいい意味でも悪い意味でも変わっていないように思う。技術レベルは向上していると思うが、彼らのセンスはその時点ですでに研ぎ澄まされていた。
ジャルジャルのコントの特徴は設定の妙であり、奇妙奇天烈な世界観であろう。見方によってはシュール性を感じられるが、ジャルジャルの笑いはそれでも分かりやすい構成で作られている。それは、不条理で一見複雑そうな設定であるが、笑いのとり方はいたってシンプルだからである。それは、彼らの笑いのとり方や面白みのポイントが、笑いの法則性を発見し、パータン化することを目的としているからである。それは以前、理系的笑いと文系的笑いというブログで説明しているが、まさに理系的な笑いの仕方であるといえる。
例えば、三段落ちは、最低限の手数で笑いを取るパターンである。一段目でフリ、二段目でもフリ(小ボケともいう)、三段目でボケるという手法である。要するに、一段目と二段目でパターン化され、その最低限の手数でパターン化された後に、ボケをかますというものである。
あくまでもこれは一例であるが、パターン化とは、規則性や方向性を、受け手に認識させ、共犯関係を築いた上で、ボケを成立させていくことである。
ジャルジャルはこの笑いのとり方に特化しているといえる。入り口はとても奇妙奇天烈であるが、その設定(世界観)さえ理解できれば、笑いを消費することができるのである。
昨日のM-1グランプリでは、ジャルジャルは「変な校内放送」ネタで爆笑をかっさらっていた。松本人志も今大会での最高得点を付け、「一番おもしろい」と評価していた。ジャルジャルといえばコント職人としてのイメージが強かったのだが、2010年代に入ってから漫才も披露することとなり、コント同様に高く評価されている。
コントであろうと、漫才であろうと、ジャルジャルのネタ自体は変わりなく、色褪せることなく提供できるのであろう。言い方をかえれば、媒体としての形式に依存することなく、コンテンツを提供することができるのである。
さて、その「変な校内放送」のネタについてであるが、簡単に説明すると、福徳が変なチャイムを言って、それに応じて後藤が反射的に答えるというもの。このチャイムではこう答える、という風にゲーム形式で話は進んでいき、福徳は変なチャイムのバリエーションを増やしていき、後藤はそれらを記憶し、反射的に答えるというゲーム性に可笑しみがある。
個人的にとてもおもしろかったのだが、惜しくも最終決勝へと進むことができなかった。唯一ジャルジャルを評価していたのは、阪神巨人の巨人師匠と、ダウンタウンの松本人志である。そして、ジャルジャルのネタを観た後に松本人志は以下のような表現でネタを評価していた。
「あれ以上いってしまうと、漫才ではなく曲になってしまう。ギリギリの設定が意見の分かれるところ。僕はバッチリ」
この感想を聞いて、一瞬どういうことか分からなかったが、再度ネタを観てなんとなくそれが理解できた。そしてこれまで、ぼくがジャルジャルに抱いていた違和感について理解するための手がかりになった。
ぼくがジャルジャルに抱いていた違和感とは、ジャルジャルのネタにメッセージ性を感じられないことである。メッセージ性とはなにか。例えば、社会に対しての不満であったり、個人として主張したいことであったり、ネタを通じで伝えたいことなどである。スタンダップコメディでは、よく風刺的なネタをすることが多いが、社会批判やイデオロギーはとても重要なことだと思うのだ。
以前、茂木健一郎が、日本の笑いは政治を批判できないと批判していたが、まさにジャルジャルはそこから一番遠いところにいるのではないだろうか。
もう一つ同様に関連することであるが、ジャルジャルのネタであったり、バラエティでの彼らの出方であったり、彼らは日本のお笑いの文脈に依存していないように思うのだ。日本のお笑いはムラ社会のようであるが、その文脈の中で笑いを取ることを求められており、その文脈から外れると村八分となってしまう。
ウィークポイントとして、ジャルジャルはネタ以外をあまり評価されていないように思う。ジャルジャルワールドと揶揄されるほど、バラエティで活躍しているところをあまりみれない。すぐにミニコントをするイメージがある。なぜ、彼らは自らを主張しないのか。なぜ、なにかを演じることで表現しようとするのか。
それは、上記で指摘したことが関係していると思うのだが、その理由としてバラエティが単純に苦手だと思っていた。
だが、苦手だからという理由を片付けるわけにはいかない。その理由を探るヒントとして、先ほど取り上げた松本人志の発言はとても参考にしたいと思っている。
その謎を解くための手がかりは、やはり彼らのネタが重要だと思う。そして、そのネタにメッセージ性を感じられないということは先ほど説明したが、彼らのネタには言語が言語として機能されていないと思うのである。
どういうことかというと、彼らは言葉を記号としてしか使っていないのである。本来持つべき言葉には様々な意味というものが含まれていると思うのだが、ジャルジャルのネタでは、それらがネタをするために用意された道具としてしか機能していない。
それを前提に話を進めると、メッセージ性などあるはずがないだろう。そもそも言葉が言葉として機能していないのだから、メッセージ性などあるはずがない。ただの記号の交換でしかなく、音としてしか機能していないのである。
今回の「変な校内放送」のネタでは、その記号の交換をスピーディーに展開していくネタだといえる。その点を松本人志は上記のように解釈したのかは定かではないが、ぼくは少なからず関連していると思っている。
歌ネタとまではいかないが、それに匹敵するくらいのポテンシャルをジャルジャルのネタは備えているのである。売れるための条件、まあそれは一発屋の条件でもあるが、歌ネタは誰にでも受け入れられ、反復性による中毒性があり、コピーしやすいため伝搬に長けていると思われる。だが、その分、消耗されるスピードがはやいため、禁じ手とされている。
今回のネタもとても分かりやすく作られているため、老若男女問わず、誰にでも受け入れられると思う。起業家の家入氏がジャルジャルのネタを観た子供が爆笑しているとツイートしていたが、あながち間違っていいないかもしれない。
今回の「変な校内放送」のネタは、歌ネタではないにも関わらず、歌ネタに近い要素を併せ持ち、絶妙な加減で作られた新しいネタだといえるのではないだろうか。
再度繰り返すが、ジャルジャルのネタにはメッセージ性が感じられないのだが、それでも彼らはそれを必要とせず、新たな笑いとして独自性を追求しているのである。そもそもメッセージ性などもはや古い価値観なのかもしれない。以前、やばいTシャツ屋さんについてブログを書いたが、音楽にしろ、笑いにしろ、メッセージを伝えるためにメディアを利用することはダサい行為なのかもしれない。
勘繰るわけではないが、もしかするとメッセージ性が必要ないというメッセージなのかもしれないが、彼らにメッセージ性が加われば、また違うネタになるのかもしれないと期待してしまう。
以上。