差別用語とそうでない言葉(嘲り)の境界線 | センテンスサワー

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ちょうど三年前に、ブスとデブはなぜ差別用語ではないのかというタイトルと題して、ブログを書いた。
 
過去記事の中でも意外と評判のようで、数年経った今でさえ、日に何件かのアクセスがある。 
 
アメーバブログではアクセス解析ツールがあるため、どのようなリンクを経て遷移してきたのか、どのようなキーワードを入力して遷移してきたのかなど、アクセスの詳細を調べてSEO解析をすることができる。 
 
上記のブログを調べると、キーワード入力にて、このブログを知った人が多いようで、下記の検索語句などがその一例である。 
 
・デブ 
・ブス 
・ブサイク 
・放送禁止用語 
・差別用語 
・デブの差別について 
 
差別用語に関心があるのか、ブス・ブサイクなどの誹謗中傷の意味合いを含んだ言葉に関心があるのか、それぞれの経緯については定かではないが、何らかの関心があるのだろうと思う。 
 
これまで同様のテーマでブログを書き直そうと何度かチャレンジしようと思い立ったこともあるが、逡巡した結果、断念していた。 
 
だが、先日ある方からコメントを頂き、再度同様のテーマを扱ってブログを書かなければならないと、決めた次第である。 
 
どのようなコメントであるかは、過去記事を参照していただきたく思うが、その内容については真摯に受け止めようと思っている。 
 
ただあれから数年経過し、私自身の意見も違った形でアプローチできるのではないかとも思っている。 
 
このブログであったり、過去記事を閲覧して、不快に思っている読者もいるだろう。差別用語以上に不快に感じる文章であると感じている方も少なからずいるにちがいない。 
 
言葉が言葉である以上、私の思っていることがすべて伝わるとも思っていないし、間違った言葉として伝わり、いわゆる言葉が誤配されてしまう恐れすらある。 
 
気になったことや、気付きがあれば、気兼ねなくコメントに書いていただきたい。 出来る範囲で回答したいと思う。 
 
 
 
そもそも、なぜこのようなタイトルでブログを書こうと思ったのかと問われれば、差別用語とそうでない言葉の境界線に関心があったからである。
 
差別用語に関しては、歴史的な背景や当事者の声による明確な定義が存在する。
 
それに対して、そうでない言葉については、ただの嘲りとして片付けられてしまうのである。
 
そこで今回のテーマの一つである嘲りについて着目してみたいと思うのだ。
 
前回のブログでは、そうでない言葉(嘲り)として、ブスやデブを引き合いに出して考えてみたが、言葉によって他者を不快なカテゴリーに分け、笑いの対象と化す言葉であることは間違いない。
 
そもそも嘲りとはどのように定義されている言葉なのか。
 
そこで、嘲りを説明する上で、優位理論という笑いの理論を参照したいと思う。 
 
優位理論とは、他者よりも優れていることに喜びを得る、 または卓越しているという感覚または認識から生じる「突然の栄光」または勝利のことだ、という笑いの定義である。
 
つまり、相手の弱いところを指摘することで、その者よりも上の立場に身をおくことができ、優越感を得られるのである。
 
これについては、説明するまでもなく多くの方が経験があるかと思う。イジメられたことも、イジメたことも、はたまた両方経験がある人もいるかと思う。
 
学校や会社などの閉鎖的な空間の中では連綿と続いているし、人が人である以上、イジメは無くならないとすら感じている。
 
差別的な概念にウチとソトというものがあるが、これに似ているかと思う。
 
ソトへと排除することで、ウチへの連帯の強度を上げ、ウチからの承認を受ける的なやつである。
 
 
さてさて、差別用語とそうでない言葉の境界線はどこにあるのか。
 
そして、そうでない言葉は今後差別用語になりうるのか。
 
個人的な見解はとしては、なりうる可能性はあると思っている。
 
たとえば、遺伝子検査によって、そうでない(嘲りの対象となりうる)存在として、そのような遺伝子あった場合や、それが障害の一種であるとされた場合である。
 
現在デブに対する認識は、自己管理能力の欠如が一般的だと思うが、今後の展開によっては、肥満体質のため太ってしまう病気なのであるとかになってしまう恐れがある。
 
デブについては、今後も増加傾向にあり、マジョリティであることに違いないが、遺伝子レベルで問題があると社会が認めてしまえばそれまでなのである。
 
 
そうでない言葉が差別用語になる可能性がゼロではないと思うし、逆に差別用語がそうでない言葉となりうる可能性は残されていると思っていたりする。
 
それは、差別用語がかつてそうでない言葉だったという時代が存在するように、それらの言葉も時代によって形を変えていくのである。
 
 
 
 
という私も高校時代まで、デブと呼ばれるほどの肥満体型だった。
 
デブと言ってもどれほどのデブだよ、とツッコまれそうなので、一応定義付けをしたうえで、進めていこうかと思う。
 
その基準として、ローレル指数を参考にさせていただく。
 
当時の私のローレル指数は215だった。判定結果は太り過ぎということになるだろう。当時の最高体重は100キロをゆうに超えていたと思う。 
 
高校二年の終わり頃、ダイエットに開始し、高校卒業する頃には30キロほど体重を落とすことに成功した。ダイエットの方法論については割愛させて頂くが、大変だったことは理解していただきたい。
 
さて、私がなぜこのようなことを赤裸々に語りだしたかというと、デブという言葉がどれほど人を傷つけるかということを知っていただきたいからである。
 
過去の私は、デブという呼称に怯え、そう呼ばれるたびに傷ついてきた。 
 
小学校の低学年の頃であったと思うが、すれ違った名も知らない上級生に「デブ」と呼ばれたことがあった。 
 
笑い声とともに、その集団は去っていったが、今でもその時の感情と光景を鮮明に思い出すことができるほど。 
 
幼心に傷ついたし、なぜそのようなことを言うのか理解できなかった。 
 
その言葉に敏感になり、存在自体を否定されているようで、というかされているのだと思うが、いたたまれない気持ちだったのだ。
 
差別用語と同様に、そうでない言葉(嘲り)も、ぼくにとっては、ヤバイ言葉だった。
 
だからこそ、言葉を選んで発言するべきだし、ブログであったとしても、それは慎重にならなくてはならないとも感じる。
 
だが、差別用語とそうでない言葉に不透明な境界線があるように、言葉が言葉である以上変化し続けていくことも事実である。
 
デブと言われると、今でも傷つくけど、デブ言われなくなった今では、それも案外寂しかったりする。
 
そこらへんをぼくはもう少し考えてみたいと思う。
 
 
新着記事:(20210106付)
 

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