十年以上前から、お笑いブームがしばらく続いていたが、ここ数年の傾向を見るとようやく落ち着いてきているように思う。
そもそもお笑いブームとはいったい何だったのか?
エンタの神様や爆笑レッドカーペットがお笑いブームの火付け役になったように思うが、代替可能な芸人を大量に消費していく時代だったと思う。
爆笑レッドカーペットでは、ショートスタイルの笑いを披露し、即座に点数を付けられる。
視聴者にとっては、飽きさせない見事な企画だと言えるが、芸人にとっては酷な企画ではないだろうか。
エンタの神様の特徴は、作りこんだ笑いにあるだろう。
編集を巧みに操り、また笑い声を入れることで、示唆的に笑いを生み出し、視聴者及び客と共犯関係を築き上げることが可能となる。
ネタ自体が笑いの要素が満たされていないとて、笑い(爆笑の雰囲気)が起きていれば、誘発されてしまうものなのである。
大衆とは、専門性を欠いた集団だと言えるが、笑いの文脈を知らない大衆をターゲットに、啓発的なやり方で作り上げたのであろう。
さて、今回のお笑いブームの最大の特徴はキャラクター化がキーポイントだと言える。
限られた時間の中で、顔と名前を覚えてもうためには、他の芸人と差別化する必要があるのである。
芸を極めるのではなく、即席的なキャラクターとして芸を披露する。
芸人としての物語を作るのではなく、作られた物語(キャラクター化)の文脈の中で、受け手に認識してもらうことが重要と考えられていたのである。
フランスの思想家であるボードリヤールが提唱した、シミュラークルという概念を想起させる。
伝統なき模倣品。
90年代後半に複雑化と高度化した笑いは伝統として継承されることなく、それらは二次創作的に増殖されてしまったのである。
そしてお笑いブーム、言い換えると、作られたお笑いブームが生まれた原因の最大の理由は、お笑いの情報量が増えたことがあげられる。
それはつまり、パターン化と数値化である。
爆笑オンエアバトルやM-1グランプリなど、審査員や客がネタに対して、点数をつける。
なにが面白くて、なにが面白くないか、数値化されることで、笑いのデータが蓄積されていく。
2010年のM-1グランプリでは、4800組の漫才師が参戦したのは記憶に新しいが、それだけノウハウがパターン化され、教科書のようなものが出来上がってしまった。
そこから外れてしまうと、家畜化されてしまった消費者にとっては、面白くないと反射的に判断されてしまい、すべったと烙印を押されてしまうだろう。
王道を否定し、邪道の中に本質を見出そうとしていた90年代の笑い(弁証法的)が今は懐かしい。
また、情報が蓄積されていく過程で、それらは分化され、カテゴライズされていったという経緯もある。
例えば、アメトーークなど、その典型的な形ではないだろうか。
家電芸人、ガンダム芸人など、芸人をタグ付けされ始めた。
その成れの果てが、キャラクター化されたお笑い芸人の末路なのである。
家畜化されてしまったお笑い消費者についても、ああだこうだ言いたいが、本日はここまでにしておこう。
これは芸人自体に問題があるのか、はたまた消費者にこそ問題があるのか。
今回は、昨今のお笑いブームについて、だらだらと書いてみたが、日本の笑いはもっと分析とかされてもいいのではないだろうかと思う。
「緊張の緩和」という笑いの本質を様々な切り口から解説した桂枝雀の「らくごDE枝雀」という本があり、さらに遡ると、柳田國男の「笑いの本願」という本がある。
海外では、笑いを分類し、理論化されている。
それは、笑いが批評文化の対象であるからにちがいないが、日本でもそういう文化が育ってほしいと思っている。
ここまで。