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センテンスサワー

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本論の主題は、「ぼくは自信がもてない」という問いからはじまり、前回あらためて「自信」というものについて問い直した。自信とは、「自分自身を信じる」ということであるが、そこで参考にしたのは哲学者のサールの「信念(=信じるという心的態度)」についての考え方である。サールは、信念を「心を世界に適合させる態度」と説明している。それはつまり、真とする対象に対して向き合い、現実(=世界)を受け入れる態度を意味している。そしてその考え方を参考にし、私は次のように「自信」について解釈してみた。つまり「自信」とは、「心を自分自身(=現実)に適合させる態度」のことである。それは「真」と仮定した自己の理念(=理想)に対して、それ自体をあるがままとして受け入れる態度を意味している。その過程で、それ自体が基礎づけされていき、自身の内に内在化させていくことが可能となる。それが、いわゆる「自信」と呼ばれるものの正体だと思う。

 

なぜ、「自信」という言葉を再定義する必要があるのかというと、私はこの言葉に懐疑的であるからである。簡単に説明すると、「自信」という言葉には、「持つ」「持たない」と表現されるように、出どころが不明のまま、獲得したり、失ったりする類のものとして扱われるからである。先に述べたように、突き詰めれば「自信」という態度には根拠がない。しかし、あたかもそれは存在し、私たちの活動能力の増減に深く関わりを持つことになる。言ってみれば、「自信」とは幻想でしかないのだが、それを受け入れるということが、私はどうも納得がいかないので、もっともらしい言葉に変換する必要があったのである。

 

目的本位に行動するためには、「自信」と呼ばれるものが必要な場合がある。それが幻想であったとしても、なんらかの動機づけがなければ、「とらわれ」から脱することなど到底できない。少なからず、私はそう考えている。そのため、「自信」という言葉に懐疑的であったとしても、「自信」について考え直す必要があったのである。

 

繰り返すが、「自信」とは、「心を自分自身(=現実)に適合させる態度」のことである。そして、「自信」にとって重要とされるのは、「心=自己の理念」とされるものである。それは、「こうありたい」「こうあるべきだ」という自身の方向性を示した精神的な態度といえる。それは言いかえると、よりよく生きるためにはどうすべきか、ということである。それは、生を肯定する人間固有の傾向と考えられているが、自らの方向性を定めて、目的本位に行動していくための指針のようなものである。

 

しかし、そのような自己を規定するあり方は、その傾向が強すぎると、「こうしなければならない」「かくあるべし」と、逆に「とらわれ」てしまいかねないため、留意しておく必要があるだろう。あくまでも自己の理念は、自身の欲求に従い、自己実現に向かって成長することを目的としている。それは「あるがまま」を受け入れて、目的本位に行動しくいくための、動機づけにすぎない。そのため、自身の内なる欲求を自覚する必要があるのである。身体から沸き起こってくる内発的な欲望。それはいわゆる「生の欲望」と呼ばれるものであるが、それは本来的にどのようなものであるのだろうか。

 

 

生の欲望とは

精神科医の岩井寛は、本来的に人間には向上欲というものが存在しており、生まれながらにして「生の欲望」を備えていると説明している。この考え方は森田正馬の学説を参考にしており、森田が唱える「生の欲望」には、二つの方向性が存在すると考えられている。それは、自己を保存しようとする欲求と、自らを高めつづけようとする欲求である。前者は生き物全般に見られるが、後者については人間固有のものとして考えられている。

 

元来、生物には共通して生命を維持するための欲望が存在する。それは、種の保存、維持、反映に関係する欲求や衝動と密接に結び付けられており、遺伝子を残そうとする本能のようなものだといえる。つまり、生物は自己を一定の状態に維持しようとする傾向を備えており、そのような働きは「ホメオスタシス」と呼ばれている。

 

他方、後者は、よりよく生きるためにはどうすべきかという自己実現の欲求と考えられている。自己実現という言葉は、マズローの「欲求五段階説」で聞いたことがあるかと思うが、一般的には、自身の目的や理想の実現に向けて努力し、成し遂げることを意味している。それはつまり、豊かな人間性を形成し、ありのままの姿を目指すことにある。

 

マズローは、そのような人物を「創造的人間」と称している。それは、何ものにもとらわれず、自身の考えを実行し、自由に行動できるもの指す。心理学者のカール・ロジャーズは、「経験に向かっての開放」という言葉で表しているように、好奇心を持って、目的本位に行動して行く必要があるのである。

 

私たちが、なにか目的をもって行動をする時、その原動力となるものが自己実現に対する欲求だと考えられている。それは絶えず、成長しようとする人間の本来的な欲求である。では、その欲求はどのような原理で生まれているのか。なぜ、自己の成長に向かって、突き動かされることになるのか。

 

 

コナトゥスについて

「生の欲望」と近い概念に、「コナトゥス」というものがある。コナトゥスは古くから存在する概念であるが、近世になり注目されるようになり、哲学者であるスピノザらによって刷新されることになる。コナトゥスとは、生物が本能的に備えている「生きようとする意志」のことを指す。それは、自己保存の欲求へと向かう力を意味しており、上記で説明したホメオスタシスと近いものとして考えられている。

 

本来的にコナトゥスは、現状維持へと向かう力と考えられているのだが、コナトゥスには、個体の活動能力を高めようとする傾向がある。スピノザの研究者である工藤喜作は、次のように説明している。

 

すべてのものがこのコナトゥスによって活動するならば、他者との競合によって自分の存在を現状のまま維持することはむずかしくなる。現状を維持するだけでは自分の存在を維持できない。自分の力を他の力と比較し、均衡を保つよりも、むしろ増大につとめなければ、自分の存在を維持できない。またこれはものの本質とみなされるものであるから、他のものとの関係において自分の本質を実現する力となる。

 

 

つまり、コナトゥスには何らかの刺激を与えられることで、それに応じて変化しようと努めようとする働きがある。それは、個体が備えている性質を活かそうする能動的な働きだと考えられている。スピノザは、そのようなコナトゥスとしての振る舞いを、生物の「本質(現実的本質)」だと考えており、その「本質」としての力が活かされることで、個体の活動能力が高められることになる。

 

スピノザは、そのような「本質」を人間の欲望と考えている。欲望とは、意識された衝動と言い換えることができるが、スピノザは、それ自体を肯定することが重要だとしている。「人間は、よいと判断するからそのものを欲するのではなく、反対に、欲するからそのものをよいと判断するのだ」という言葉を残しているように、欲望を肯定することがスピノザの哲学の根幹にあるのである。

 

 

生の哲学について

ショーペンハウアーは、「生きんとする意志」について考えた哲学者である。ショーペンハウアーの提唱する「生きんとする意志」というのは、本来的な意味においての意志とは異なり、意味を求める衝動的なものだと考えられている。それはコナトゥスと近い概念であり、盲目的な意志であると考えられている。

 

「意志」は絶えず何かを求めている。そしてそれは満たされることはなく、際限のない「意志」に突き動かされることになる。そのため、ショーペンハウアーは、生きんとする意志を否定する必要があると考えた。

 

ショーペンハウアーの結論は極端であるが、欲望が強すぎるとそれを制御することができず、苦痛を感じ続けることになる。そのため、それを回避するために、禁欲的な態度が重要であると主張しているのである。

 

ショーペンハウアーは、仏教哲学やインド哲学に影響を受け、「この世界は苦である」とする思想が根底にある。ブッダの教えでは、この世界に意味などなく、意味を見出す必要すらないと考えがある。それは「色即是空」という考え方にあるように、あらゆるものは移り変わってゆき、この世界には本来的に実態などない。つまり、すべての物事は「無」であり、空虚な現象に執着する必要はないという教えである。

 

ショーペンハウアーは、意志(=意味を求める衝動)が、表象を可能にすると考えている。ショーペンハウアーは、カントの「物自体」という考え方を「意志」として考え、その意志が表象としての世界を生み出していると考えた。つまり、意志がなければ、この世界自体が存在せず、苦悩を経験することがないと結論づける。意志を否定することは、意味を求める衝動から解放され、「とらわれ」からの自由を獲得することができるということである。

 

 

ニーチェは、ショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」から多大な影響を受けて生の哲学について考えた哲学者である。ニーチェは、ショーペンハウアーの考え方を基礎としているが、「生きんとする意志」を否定する態度に疑問を持ち、どうすればそれ自体を肯定することができるのかと考えた。それは、この世界は苦痛に満ちているということは仕方のないことだが、だからこそ、この世界は生きるに値するのではないかとニーチェは考えたのである。

 

ニーチェは、ショーペンハウアーの提唱する「意志」という概念を「力」として捉え返し、生の本質を「力への意志」であると考えた。力への意志とは、人間を動かす根源的な動機を意味しており、異なる状態へと変化(向上)しようとする力を指す。

 

「力」とは、欲動と言い換えることができるが、それは複数の力の作用のなかで現れるものだと考えられている。つまり、私たちの欲動は、いくつも存在しており、その諸力のせめぎ合いの中で新たな力が生じることになる。力は、常に何らかの力との関係の中にあり、拮抗することで物事を動かす傾向が決定されることになる。そしてその生じた力を肯定することで、新たな価値が創造されることになる。それこそが、生命が向上していこうとする「力への意志」の重要なポイントである。

 

他方、そのような力への意志に対して、反動的な力が強まった場合に、本来的な能動性が縮減されていくことになる。それはショーペンハウアーのように意志を肯定することができなくなった消極的な状態だといえるだろう。ニーチェは、そのような場合に、ペシミズムに陥ることを危惧し、そのような状態を「消極的ニヒリズム」だと考えた。ニーチェは、「人間は何も意欲しないよりは、むしろ虚無を意欲することを望むものである」と述べており、それはつまり、人間には本来的に虚無へと向かう意志が存在することを意味している。

 

「意志への力」が否定的な方向に向かった場合、自己破壊的な衝動に駆られたり、死にたい気持ちへと向かわせることになる。フロイトは、「死の欲動」という言葉で表現しており、人間には本来的にそのような自己を破壊しようとする攻撃的な力が存在すると考えられている。ニーチェはそのような状態に陥ることを認めた上で、ニヒリズムを克服するためには、そのような否定的な態度を肯定的に転換し、目的本位に行動していく必要があると説明する。むしろ、ただ力への意志を肯定するだけではなく、反動的な諸力を肯定へと「価値転換」することが最も重要だと考えている。

 

反動的な力にみたされ、その否定性を極限まで経験した人間には「反動的な生それ自身を否定しようとする意志」が生まれ、それは「自分自身を能動的に破壊したいという欲望」に変わる。ニーチェは、とりわけ『ツァラトゥストラはこう語った』の中で、このような価値転換のドラマを描いている。そして、この価値転換は、ある円環状の時間(永遠回帰)によって完成されるというのである。

 

「価値転換」とは、肯定と否定の諸関係をこのように転倒することを意味している。しかし、価値転換が起こるのは、否定的な態度が極限まで達した時である。否定的な態度を否定することで、自ずと能動的な振る舞いへと変わり、肯定へと向かう原動力となるのである。

 

そして、この「価値転換」というものは、「永遠回帰」において実現されると考えられている。これはニーチェ独自の思想であり、「永遠回帰」は生への強い肯定を基礎づける概念である。永遠回帰の世界では、すべての出来事や経験は、無限に繰り返しされることになる。それは、無限に生起し、回帰し続ける。それは、あらゆることが決定されており、自身で選択したものでさえ、その中にすでに組み込まれているとされる。そのため、永遠という時間を前提とした場合、物質はあらゆる組み合わせで存在することを可能とし、永遠に続くその回帰の世界では、同じ経験を反復しているに過ぎないのである。

 

永遠回帰として考えられる世界では、あらゆる存在は意味も目的もなく、永遠に繰り返されることになる。それは偶然性の回帰でしかないため、因果的な法則は存在せず、倫理や道徳のような規範すら存在しない。この円環運動をの中で、運命(偶然性の連続としての必然)を肯定することができるか。ニーチェはこのように世界を肯定する態度を「運命愛」と呼んでいるが、それが「価値転換」を可能にするということである。

 

 

生の欲望を否定すべきか、肯定すべきか

「生の欲望」を肯定すべきか、否か。結論としては、肯定することが重要だと断言できる。「価値転換=肯定」に至るまでの道のりはとても険しいものだが、そのプロセスはとても重要であり、人格を形成するために必要なのである。

 

永遠回帰の世界では、肯定するか、否定すべきかという選択的な問題が重要と考えられている。肯定を選択するという行為が、新たな価値を想像するという力を私たちに与えることになるのである。それは、神経症者についても同様である。精神科医の岩井寛は、その点について、以下のように説明している。

 

不安であるから症状をにして神経質の世界に埋没していたいという欲望と、不安があってもより人間的な意味を求めて自己実現をしたいという欲望と、二つの欲望の方向が存在する。つまりそのどちらかを選ぶのは彼自身であり、彼は選ぶ自由を所有しているといえるのである。ここでは彼は、神経質者としての選択を行なっているのではなく、一個の自己確立のできた日常人として選択の自由を行使しようとしているのである。

 

欲望を肯定し続けることは、苦悩がつきまとう。「とらわれ」から抜け出すことは可能であるが、この世界にはいつ何時でも「とらわれ」に陥る可能性はいくらでも存在する。ショーペンハウアーのように、否定という選択を行使しかねない場合もあるかと思う。しかし、そのような経験があるからこそ、価値転換を可能にするのである。岩井寛は次のように説明している。

 

神経症的体験は、必ずしも人間にとってマイナスとなるものではない。苦悩・葛藤を通してその人間を深め、視野を広げ、より豊かな自由を目指す人間形成に役立つともいえるのである。すなわち、神経質の治療は、とらわれからの解放から出発して、人間としての自由へと向かう一連の過程であると考えてもよいのである。

 

それは「価値転換」への具体的なプロセスを示していると思う。ニーチェの議論はやや抽象的であるが、岩井寛の説明では、症状をあるがままに受け入れ、目的本位に行動するまでのプロセスを提示している。双方の考えでは、苦悩というものは少なからず症状として仕方のないものであるが、苦悩にとわられるのではなく、苦悩から脱するために、現実を受け入れ肯定していく必要があるのである。

 

 

そのために必要なのが理念ではないだろうか。それは自己を規定するという側面もあるが、自己を目的に向かって方向づける何かである。冒頭で、よりよく生きるためにはどうすべきかと書いた。それは、本論を展開していくためにとても重要だと思うからだ。自己否定に陥るのは、個人の自由(=個人の選択)だから仕方ないことだが、私のように苦悩から抜け出したいと考えるなら、少なからず、自己を基礎づけ、方向づける指針は必要だと思われる。

さて、そもそも「自信」とはどういうことか。それはつまり「自分自身を信じる」ということだろうが、私たちはその当然のことがちゃんと理解できておらず、なんとなく分かっているような気になっているに過ぎない。「自分自身を信じる」と言われても、その「信じる」という言葉ですら抽象的な表現で定義づけらており、納得できない点が多い。

 

「信じる(信ずる)」とは、それ自体を疑わずに本当だと思いこんでいる心的態度のことである。つまり、不確実な物事に対してそれ自体を「真」であると肯定している状態と言える。しかし、その根拠というのは何に対して基礎づけられているのか。自身の経験によりそれを妥当だと判断したのか、もしくは客観的な合理的判断によるものなのか。いずれにせよ、その事柄を信じなければ成立しないということは、その事柄との間に埋められない何かが存在するということである。つまり、「信じる」という営みには、少なからず飛躍が存在し、私はその点に懐疑的なのである。

 

哲学者のカントは、「私は信じることの場所を得させるために、知るということをやめなければならなかった」という言葉を残している。「信じる」ためには、理性的な判断を止めて、当然のことだと思いこむことが必要だということである。

 

 

理にかなった信念と根拠のない信念

自己啓発では「根拠のない自信を持て」という根拠のない言説が存在する。その言葉は、私たちが将来に対して不安になったり、進学や就職などの進路に対する不安に直面したり、また何らかのリスクが生じるタイミングでその言葉はひとつの安心材料として寄与することになる。

 

その言葉を信頼してしまう人は、それを説く人の言葉自体が根拠として支えられており、それは不確かにも関わらず、それを当然のことだと思い込むことで成立しているに過ぎない。それは自己啓発のひとつかもしれないが、ある種、洗脳されている状態に近いように思う。「自信」を失っている人からすれば、それは手っ取り早い解決方法であり、指針を与えられた気にさえなる。だが、それは思考停止状態であるだろうし、考え方を押し付けられているに過ぎない。

 

主観的な信憑性や客観的な確信による妥当的な判断により、「自信」が内側から沸き起こってくるのであればまだいいのだが、外側からの刺激によって感化され、「自信」が生成されるのは、果たして「自信」と呼べるのだろうか。そのようなカラクリで作られた「自信」など、もはやそれ自体を外部化してしまっているようなものだろう。

 

そのような行い自体を私は否定するつもりはないが、私のようにその言葉に疑問を抱いてしまった場合、「根拠のない自信」は不安定でしかないだろう。そしてそれ自体が瓦解してしまった場合、余計に自分自身を信じることができず、あらゆる可能性を否定し、自己否定感に苦しめられることになると思う。

 

 

エーリッヒ・フロムは、「理にかなった信念」と「根拠のない信念」を区別する必要があると説明する。その違いについてフロムは著書の中では次のように説明している。「理にかなった信念」とは、自分自身の経験や、自身の思考力・観察力・判断力が根ざしている心的態度のことである。「根拠のない信念」とは、ある権威、あるいは多数の人びとがそう言っているからというそれだけの理由で、何かを真理として受け入れていることである。

 

「理にかなった信念」は、一般的な評価よりも、主観的な洞察がその確信の根拠を支えることになる。つまり、自身の経験則の積み重ねがその判断基準となり、それは必然的な法則とまではたどり着けていないが、最も信憑性のあることだと言える。

 

そして、この「信念」を持つためには、「自信」が必要だとフロムは説明する。

 

自分自身を「信じている」者だけが、他人にたいして誠実になれる。なぜなら、自分に信念をもっている者だけが、「自分は将来も現在と同じだろう、したがって自分が予想しているとおりに感じ、行動するだろう」という確信を持てるからだ。自分自身に対する信念は、他人に対して約束できるための必須条件である。そして、ニーチェが言ったように、約束できるということが人間の最大の特徴であるから、信念は人間が生きていくための前提条件である

 

「約束できるということが人間の最大の特徴であるから、信念は人間が生きていくための前提条件」というのは新たな示唆を与えてくれる。それは「決断」や「責任」と関連する興味深い言葉であるが、本論のテーマである「偶然性」を紐解くための重要なキーワードとなるだろう。だが、この言葉はいったん置いといて話を進めたいと思う。

 

さて、フロムの言いたいことは、つまり、過去から現在に至るまでの経験則が、未来を予測することを可能する。それは自身の反復可能性に対する期待といえる。反復可能性とは、条件が整っていれば、一定の結果が得られるという可能性である。私たちはその反復可能性が絶対的な事柄の場合、必然という呼び名で呼んだりする。つまり、フロムは、反復可能性に対して、「信じる」ということの根拠を見出していると言える。

 

しかし、それは客観的な自然法則のような確実性に乏しいものであり、何を根拠にしてその反復可能性を信頼しているのかという事自体の根拠すら不確かである。また、信念を持っているものだけが確信を持てるという事自体も、「自信」「信念」「確信」など言葉のトートロジーを感じざるおえない。つまり、フロムの「理にかなった信念」という言葉自体も同様に、あくまでも主観的な判断で決定されているだけで、そこに客観的な根拠は存在しないと言える。

 

千葉雅也は著書の『勉強の哲学』の中で次のように説明している。

 

絶対的な根拠を求め続けていて、到達できない...この無限に先延ばされた状態を、一点に瞬間的に圧縮し、絶対的な無根拠への直面にしてしまう。そして、「絶対的な無根拠こそが、むしろ、絶対的な根拠なのだ」という逆転が起こる。絶対的な根拠はないのだ、だから無根拠が絶対なのだ。だから、無根拠に決めることが、最も根拠づけられたことなのである。次のイコールが成り立つ、絶対的な無根拠=絶対的な根拠。

 

千葉雅也は、上記の結論部分について飛躍があると注釈を入れつつ、絶対的な無根拠こそ、絶対的な根拠であると説明する。それは、何かを判断する場合の根拠を探ろうとしたところで、根拠を基礎づけるための根拠自体も何らかの妥当性を必要し、その果てしない探索の作業は困難である。そのため、どこかで決断主義な解決が必要ということである。

 

つまり、根拠のある信念を持つということは重要であるが、それを求め続けたところで「真なる信念」たるものは得られないため、どこかの段階で根拠への懐疑を断ち切り、決断する必要がある。それ自体が何より重要なのである。

 

 

信じるとは、諦めであり、また決断である

私たちは、何らかの物事に対して、根拠を追求したとしても、いずれその限界に直面することになる。それは、それ自体の認識の不可能性の問題である。私たちは、自身の思考できる範囲内でしか物事を把握することはできない。そしてその把握していると判断されているものでさえ、誤解や先入観、あるいは偏見がつきまとう。つまり、私たちが何らかの物事を基礎づけるには、認識に対する諦めが必要であり、そして決断することが重要なのである。そうすることによって、価値や規範を自己の内面に取り込み、自己同一化が可能となる。

 

繰り返すが、「信じる(信ずる)」とは、それ自体を疑わずに本当だと思いこんでいる心的態度のことである。それは少なからず思考停止状態を意味しているように思われる。私はこの「信じる」という言葉の持つ飛躍さに納得できていない点があるが、その「飛躍さ」こそ認識できない領域であり、諦めざるおえないものなのである。その飛躍自体が正しいものなのか否か判断できないのだが、そこに賭ける態度というものが必要とされている。「信じる」とは、それ自体を「真」と仮定し、疑わない態度であるが、それ自体にはそうなり得ない可能性を秘めている。決断するということは、選択するということである。それは、複数の選択肢の中から選び取るということを意味する。その選択肢の中には、自身の欲している「真」なるものを獲得できるかもしれないが、「偽」となりうるものを選び取ってしまう可能性もあるのだ。

 

予期できないものに対して決断するということは、どうなるか予測できない未来に対して、挑むことである。自己を賭けることである。確実な未来を予期することは不可能であり、未来は偶然性の中に存在する。そのため、客観的な正しい判断をしていた場合でも、期せずして偶然性のというものは、むくりと「無」から立ち上がり、私たちの眼前に姿を現す。それは過つ可能性を十分秘めている。しかし、私たちは、それを引き受けた上で行動しなければならない。

 

 

「目的本位」に行動するためには、「自信」というものが不可欠だと思い考えてみた。それは行動を起こすためには何らかの動機が必要だと考えたからである。しかし、改めて「自信」とは何なのだろうか。哲学者のサールは信念について次のように説明している。

 

信念の目的は真であることであり、その信念は真であるかぎりにおいて達成される。また、その信念は偽であるかぎりにおいて過つ。他方で、欲求は世界のありようを表象するのではなく、人が世界をどうしたいかを表象していると考えられる。したがって「雨が降っている」と私が信じるなら、この私の信念は実際に雨が降っている場合にかぎって真である。だが「雨が降ってほしい」と私が欲する場合、この私の欲求は雨が降る場合にかぎって満たされ、かなえられるだろう。これらは同じように見えるが、両者には決定的なちがいがある。信念の場合、その志向状態は、世界において物事がどのようにあるかを表象していると考えられる。言うなれば、信念には信念の内容を世界に適合させる責任がある。しかし、欲求の場合、物事がどうあるかを表象するのが目的ではない。人が物事をどうしたいかを表象するのがその目的だ。言うなれば、欲求には世界を欲求の内容に適合させる責任がある。

 

信念とは、心を世界に適合させる態度のことである。それは、現実に対して志向状態を適合させることを意味する。他方、欲求とは、世界を心に適合させる態度のことである。それは、現実自体を自身の思い通りに働きかけることを意味している。双方には、少なからず「飛躍」が存在するが、前者は結果に対する諦めへの態度がある。そしてそれは現実を受け入れるという覚悟というものを内包している。だとすると、「自信」とは、次のように言い換えることができるのではないだろうか。「自信」とは、「心を自分自身(=現実)に適合させる態度」ということである。その現実に適合させるということは、思考停止するのではなく、それ自体がどのようなものであるか考察し、自身の内部に内在化させる。それが基礎づけされていき、自分自身を真に受け入れることが可能となるのである。自己受容や自己肯定感というものは、「心を自分自身(=現実)に適合させる態度」を持つことで、得られるものなのではないだろうか。

 

 

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ぼくは自信がもてない 被投的投企と弱い偶然性(仮)①

「ある」がまま 被投的投企と弱い偶然性(仮)②

不条理はどうにもならない。本論を展開していく上でそれは、大前提である。では、どうすれば、前述した個人的な悩みを解決することができるのか。そのような不条理に対して、実存主義的な考え方では、「自殺」、「盲信」、「受け入れる」ということが提案されている。「自殺」とは、不条理に抗うことは不可能なので人生を終わらせるしかないということである。続いて「盲信」は、不条理を超えたものを信仰することで、不条理を無効化し、つまり思考停止することで乗り越えるということである。そして「受け入れる」というのは、条理を否定せず、また不条理から逃走するわけでもなく、ただただ受け入れるということである。現実的に考えて、「受け入れる」という選択肢が、一番妥当である。しかし、果たして、それは可能なのだろうか。

 

上記で説明したように、ぼくは不条理な出来事に「とらわれ」ており、その悪循環から抜け出せなくなっている。ぼくが不条理と感じているのは、過去のトラウマや未来への不安。そのような根拠のない妄想に執着し、いわゆる神経症の一種だろうが、「とらわれ」の状態から抜け出せなっている。「とらわれ」とは、心を何らかの事柄に捉えられ、それに支配されてしまい、自由に思考できなくなっている状態のことである。それが、不合理だと分かっていながら強い不安や強迫観念、抑圧されてしまう。それは気分変調性障害というように位置づけられるが、これ自体は誰にでも起こりうる神経症の一種である。

 

うつ病や神経症、また不安障害では、過去の嫌な経験や将来の不安が過剰に反芻される状態にあり、DMNの障害という見方もある。DMNとは、脳科学で注目されている「デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)」という脳の神経活動の働きのことである。それは意識して何かを考えていない場合でも、脳は活発に動いている領域があり、そのため、無意識のうちに脳が疲労してしまうというのである。DMNがうまく機能していれば、情報を収集したり、情報を処理することで、脳内を整理してくれることになる。しかし、DMNに異常が生じた場合に、注意力が散漫になったり、余計なことを考えたりするため、不安にさいなまれることになるのである。

 

脳は、常にアンテナをはっており、外界からの情報に対して予測を立て、感覚刺激から受け取った情報をもとにシュミュレーションを行っている。その予測がうまく機能しなかった場合に、不安定な状態に陥ってしまうのである。

 

神経科学者のリサ・フェルドマン・バレットは、著書『情動はこうしてつくられる──脳の隠れた働きと構成主義的情動理論』の中で、そのような状態について次のように説明している。

 

不安障害を抱える脳はある意味で、抑うつを抱える脳の対極にある。抑うつでは、予測が重視され、予測エラーが軽視される。したがって過去にとらわれる。それに対し不安障害では、外界に起因する予測エラーが過剰に受け入れられ、そのせいであまりにも多くの予測が失敗に終わる。予測が不十分であれば、次の瞬間に何が起こるのかがわからなくなる。すると、生きていくのが困難に感じられるようになる。まさにこれが、典型的な不安障害だ。

 

「とらわれ」ている状態というのは、脳がうまく機能していない状態といえるが、上記の説明では抑うつの状態と近いように思う。不安障害に関しても、前向きな思考ができない状態になる点では、一致する点が多い。これは脳神経科学者のひとつの見方であるが、このような原因で「とらわれ」という病に冒されることになるのである。

 

 

「ある」がまま

では、「とらわれ」の状態から自由になるためにはどうすればよいのだろうか。精神科医である岩井寛は、「森田療法」という著書の中で、その状態を事実として受け止め、「あるがまま」の状態を目指すことが重要だと説明している。「あるがまま」とは、症状と向き合い、逃避欲求を否定しない心的態度のことである。つまり、現実をありのまま受け入れることが必要だということである。岩井寛は次のように説明している。

 

神経質 (症) 者は、理想が高く、完全欲へのとらわれが強いために、常に、「かくあるべし」という自分の理想的な姿を設定してしまう。しかし、我々が住む不条理の現実には、そのような都合のよい状態はないので、そこで 、「かくあるべし」という理想志向性と、「かくある」という現実志向性がもろに衝突してしまう。そのために両者の志向性が離れれば離れるほど、不安、葛藤が強くなり、神経質 (症) 者は現実と離反してしまうのである。そこで、ある者は自己否定的になって、劣等感に陥り、現実の苦悩に耐えられなくなって逃避的な態度をとるようになる

 

まさに、現在のぼくの状態を端的に説明している。神経質な状態では、「とらわれ」による恐怖心や不安感に支配され、逃避的に考えてしまう。「こうあるべき」「こうあってはならない」という感情に支配され、「とらわれ」自体を解消しようと努めたり、コントロールしようと試みる。しかし、それ自体が不可能であるため、思考内で葛藤や衝突が起こる。

 

そこで提案されているのが前述した「あるがまま」という考え方である。繰り返すが、「とらわれ」を解消しようと努めるのではなく、それ自体を「あるがまま」として受け入れるが重要とされる考え方である。つまり、ありのままの自分自身を否定しない態度のことであるが、そもそも「ある」というのは、存在を意味し、それはぼくたちがこの世界に生を享けた瞬間を起源とする実存としてのあり方を表した言葉である。そして、その状態は偶然性に翻弄されながら、葛藤することで人格が形成されていくことになるのだが、この「あるがまま」というのは、その偶然性自体を内面化することを意味している。

 

「とらわれ」状態から抜け出すためには、次のような行動が重要であると岩井寛は著書の中で説明している。

 

そこで森田は、低きにつこうとする欲望をそのままにして、もう一方の自己実現の欲望を止揚していこうとする欲望の方向性を考える。つまり、自己実現欲求も、逃避欲求も、ともに人間性の一部なのであるから、後者をそのままにし、前者をとってゆくところに森田療一法の本質を認めるのである。そして、後者をそのままにすることを「あるがまま」という。「あるがまま」は、ただ単に自分の欲望に従って思いどおりに振る舞うということではなしに自己実現欲求(森田はこれを「目的本位」と呼んでいる)を遂行するための手段であって、自己否定的な欲求を「あるがまま」にしておき、もう一方の自己実現欲求に従い、これを実践するときに、人間には進歩があるとするのである。

 

森田療法では、「とらわれの状態」を解決するためには、「あるがまま」としてそれ自体を受け入れ、そしてその状態を克服するためには、自己実現欲求が重要だとされている。それは「目的本位」という言葉で説明させれているが、それはアドラー心理学のように「目的思考」が重要だという考え方にとても近いように思う。「とらわれ」に支配されず、自己を確立するための行動が必要なのである。岩井寛は次の言葉を重要としている。

 

1.自分の生きていた時間、自分が置かれている空間(性格形成を含む)を含めて、自分の存在を正しく認識する 
2.自分の苦悩が、「とらわれ」に陥っていないかを検証する
3.不安や葛藤の性質を顧みて、とらわれているということがわかったならばその「とらわれ」の内容を整理し、それをあるがままに認める。
4.自分の真の欲望が何なのかということをじっくりと考えてみる
5.自己の「人間としての」欲望、つまり、「生の要望」を実現するために、目的本位の行動をとる。
6.以上のような思考、行動を通じて、自己陶冶、自己確立をはかる。
7.人間としての自由を求め、それなりの個性を活かし、創造的な生き方を試みる

 

これらの言葉は、自己と向き合うことの必要性を強調している。そして、不安にとらわれずに、自己実現に対する自己の欲求を自覚すること。森田療法では、「生の欲望」という言葉で表現している。少なからず、人は本能的に向上心というものが存在するだろう。現在の状態に満足せず、 よりすぐれたもの、より高いものを目ざして努力しようとする心的態度。「生の欲望」というものは、本能的なものであって、「とらわれ」によってそれ自体を見失ってはいけない。

 

夏目漱石は著書の中で「精神的に向上心がないものは馬鹿だ」とか言っている。だから、少なからず本論を進めていく上で、それは前提としておきたい。僕自信も、「とらわれ」や「ノイローゼ」から抜け出す理由として、言わずもがなであるが、「よりよく生きたい」ということが根底にある。向上心が必要なわけではないが、「生の欲望」はそれ自体で一つの考え方として、ぼくは採用したいと思っている。ただそれだけのことである。

 

さて、「あるがまま」を受け入れるということについては理解できたが、目的本位に行動するためには、少なからず行動を起こす「勇気」というものが必要である。そしてそのためには、まず「自分を信じる」こと、つまり「自信」というポジティブな心的態度が必要である。前回のブログは「ぼくは自信がもてない」というタイトルで説明したように、ぼくは自信がなく、行動を起こすことが苦手である。それは失敗するかもしれないことに対して、行動を起こすという無謀さにためらってしまうからである。そして、自信というものは、根拠がないと成立しないし、「勇気」という言葉には現実と理想との飛躍すら感じてしまうのである。

 

次回は、「信じる」ということについて考えたいと思うが、今回の内容もそうであるが胡散臭い感じ満載であるとぼく自信も感じながらこの文章を書いている。だが、本論の結論として「自信」「勇気」などの飛躍が必要な概念を捨て去ることが重要であるという内容になっているので、その点については安心してほしい。繰り返すが、次回のテーマは、「理にかなった信念と根拠のない信念」についてである。

 

 

 

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新お笑い論② お笑いの歴史について

新お笑い論③ お笑いブームとお笑いメディア史 

新お笑い論④ 大量供給・大量消費。そしてネタ見せ番組について

新お笑い論⑤ ネタのイージー革命について 

新お笑い論⑥ 動物化するポストモダンの笑いについて

新お笑い論⑦ フィクションから、ノンフィクション、そしてフィクションへ

新お笑い論⑧ シミュラークルにおける笑いの消費、そして松本の功罪

新お笑い論⑨ 笑いの消費の仕方について

新お笑い論⑩ お笑い第七世代による新しい価値観の笑いについて

 

松本信者論 第一章 松本人志について  

松本信者論 第二章 松本人志のカリスマ性

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松本信者論 最終章 笑いの神が死んだ

 

リヴァイアサンの哄笑

 

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