センテンスサワー -3ページ目

センテンスサワー

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ぼくは昔から自分に自信がなく、どちらかというと厭世的な人間である。他人と比較して自分はなんて愚かな人間だろうと考えてしまい、そんな世界の不条理について絶望してしまう。

 

一度だけ、そんなぼくでも自信を持つことができたことがある。それはお笑い芸人を志していたころである。その自信はいわゆる根拠のない自信であったと思うが、その自信はぼくを突き動かし、ぼくならできると判断し、信念を持ってお笑いと向き合うことができた。

 

しかし、お笑いに挑戦し、自分の実力を知ることで、少しずつ自信を失っていく。つまり、ぼくはお笑いの世界で通用しなかった。思い通りにいかない現実と、根拠のない自信に魅せられた理想。現実と理想がこれほどまで違うのかとぼくは絶望した。そして、ぼくは現実に直視し、我に返るとその自信は跡形もなく消えてしまった。

 

 

それから十数年たった今でもぼくが自信がもてないのは、その挫折が大きく関係していると思う。もともとコンプレックスが多い人間のくせに、追い打ちをかけるようにそんな経験をしてしまったのだから仕方がないのかもしれない。だからかどうか分からないが、ぼくはお笑いをやっていたことを誰にも言わずに生きているし、そんなコンプレックスを克服するために生きている。それはつまり、過去を捨てるために生きているようなものである。

 

そしてである。半年ほどまでに屈辱的なことを言われたことで、ぼくはさらに追い打ちをかけるように自信を失ってしまった。それは酔っ払ったやつの何気ない言葉なのかもしれないが、ぼくはその言葉に大変傷ついた。なぜ、そのようなことを言うのか。そんな答えのないことに対してぼくは思考が乱され、自分の中にその根拠があると思い込み、そのようなネガティブな思考が止まらなくなってしまった。いわゆる「とらわれ」の状態である。ぼくはそのような状態がしばらく続き、冷静になるまで時間がかかった。

 

しばらく時間が経ち、少し冷静になることができたので、その「とらわれ」というものについてぼくなりに考えてみた。その痕跡が、「世の中の不公正さや不平等さについて」、「不条理の器」などのブログとして残っている。

 

その記事の中で、ぼくはこの世界の不公正さや不平等さについて書いた。それは出自、経歴、容姿など。生まれ持った環境や能力、そして属性に対して不当だと感じてならないからだ。恵まれている場合と恵まれていない場合で、その後の人生に少なからず影響を与え、人生の評価は大きく変わってくる。はじめから持ち合わせている者が社会に貢献し、評価され、享受する。SNSでは、そのような人々が楽しそうな写真を投稿し、幸せそうに何不自由なく生きているように思う。もちろん、それは人生の一部を切り取った場面でしかないのだろう。だが、ぼくにはそれすら羨ましく感じてしまう。そしてぼくにはその切り取る一場面すらなく、そのような現実が不当に感じられてならないのだ。他者の活躍している姿や、幸せそうな姿をみるだけで、自分は何のために生きているのかという意味のない命題に直面してしまうのである。

 

そもそもなぜ人によってこれほどまでに置かれている環境が異なるのか。それは、この世界の原理原則が偶然性によって成り立っているからである。しかし、その偶然性というものは、わかるようでわからないことが多い。一体全体、偶然性とは何なのだろうか。そして、その偶然性というものに、ぼくは不条理だと感じてしまうのはどうしてだろうか。

 

 

「有と無の接触面」について

偶然性とは、予期し得ないことが起こる現象である。つまり、ぼくたちが予想していなかったことが、何らかの条件が重なることで「ありえた出来事」だといえる。そして偶然性はたまたま存在したものにすぎない。何らかの志向性が、そこに向かわなければ、そもそも出来事として認識されずに、それは「無」でしかなく、存在し得る可能性のあった出来事ということでしかない。つまり、偶然性とは、「無」から生じた現象ということである。

 

九鬼周造は、偶然性を「有と無の接触面」と考え、「有に食い入っている無」と説明する。偶然性とは、実態として存在しているわけではなく、また存在し得ないものでもない。繰り返すが、それはただ、双方の間で何らかの条件が満たされた場合に、現象として生じる出来事にすぎない。そして、それ自体を予期できないため、それに対して不安に感じたり、恐れたりしてしまう。そのため、ぼくたちは偶然性に対して負の感情を抱きがちなのである。

 

それはでは、不条理とはどのような現象と言えるだろうか。偶然性と不条理はとても近い概念だと言える。不条理とは、非合理的なもので、無意味な状況を表す言葉である。それは、無から立ち現れた偶然性に対して志向性が向かい、その偶然性に対して条理だと判断したものが否定された場合に立ち現れる現象である。ようするに、たまたま遭遇した事柄に対して、ぼくたちは意味付けを行い、それ自体を評価する。その際に否定的な判断をしてしまった場合に、それが不条理として認識されるのである。つまり、意味づけをするか否かということがとても重要な点だと言えるだろう。不条理とは、自分自身との関係性の中で位置づけられた出来事であり、つまり、たまたまでは片付けることが出来ない個人的な出来事。それが不条理である。

 

人生が思い通りにならないというのは、自分が「真」と仮定していた未来が、「真」ではない状態で現実化された場合に感じられる状態である。ぼくたちは、その不一致な状態に苦しみ、はたまた絶望してしまう。この世界の認識は人それぞれ異なるが、基本的にはこの世界はどうにもならないことが多く、誰もが不条理だと感じながら生きていることだろう。さきほど取り上げたいわゆるリア充とされる人々でさえ、この世界を不条理だと感じているに違いない。それは偶然性というものは、生きている限り誰にでも共通して遭遇する現象だからである。

 

ぼくたちは、そこから逃れることはできない。偶然性をコントロールすることなど不可能である。しかし、この偶然性に満ちた世界を少しでも行きやすいように、(それはつまりぼくたちが偶然性に振り回されないように)、社会システムや国家による統制、そして集団の中でのルールが必要とされている。普段、ぼくたちが、偶然性を意識しないのは、そのためである。しかし、それはある意味まやかしである。偶然性の上辺に取り繕われた弱い必然性でしかない。今回のコロナのような、強い偶然性を前にしては、社会システムのような弱い必然性など通用しない。そのようなシステムなど簡単に瓦解してしまう。偶然性をコントロールしようという事自体がバカげていると思う。

 

 

繰り返すが、ぼくは自信がもてない。この世界がセピア色に見え、死にたいという比喩に身を委ねながらこの世界を彷徨っている。後述するが、「被投的投企と弱い偶然性」というタイトルは、不条理に対してどのように向き合うべきかということと関係している。少なからずそれは自己啓発に近しいあり方であるが、ぼくなりの答えを提示できたらなと思う。それはとても抽象的な答えであるが、アイデンティティを見失っている人にとって、いかにこの世界と向き合うべきというヒントになるとは思っている。それはつまり「よりよく生きるためにはどうすればいいか」ということである。

 

ニーチェ、ドゥルーズ、九鬼周造。そして、宮野真生子の哲学を参考に本論を展開できればと思う。後述するが、それはこの世界の必然性と偶然性の問題である。ぼくは、お笑い論をやっている人間だが、本論は哲学よりの内容となっており、これまでとは違ったアプローチができたらなと思っている。

 

前回のブログで、この世界の不条理さについて考えてみた。

 

なぜ、世の中は不公正であり、不平等なのか。

 

私はそれに耐えられず、どうにか知恵を振り絞り、答えを見出そう試みたが、結局うまくいかなかった。

 

 

不条理とは、私たちがどうすることもできない運命のようなものだ。

 

私たちは、自分の人生に意味を見出そうとするが、圧倒的な世界の無意味さを前にして絶望してしまう。これは実存主義的な不条理の考え方であるが、結論として、私たちはそれ自体を受け入れることしかできない。

 

しかし、不条理を受け入れると言われても、これがまた分かるようで分からない。なぜ、私たちは不条理を素直に受け入れられないのか。

 

他方、私たちは、自分にとって良い出来事や利益となるものは、そのまま受け入れられるものである。

 

つまり、不条理には、自分にとって都合のいいものと、都合のよくないものがあるということである。そして、その評価によって、受け入れることができるか否かが関係してくるのである。

 

少し敷衍して考えてみると、自分にとって関係のあるものか否かということも重要な点ではないだろうか。自分に無縁な世界の不条理については、私たちは抗うことなく受け入れているのである。これまたおかしなことである。

 

ここまでの話をまとめると、私たちが不条理に直面するのは、あくまでも私たち個人に関係することであり、またそれ自体が不当で不利益を被る場合となるということである。

 

 

私は、寺山修司の次の言葉を思い出す。それは不条理について全く関係のない事であるが、新しい視座を与えてくれると思っている。

 

「必然ということばは社会的であり、偶然ということばは個人的である」

 

この言葉は、幸福論の偶然という章の冒頭で記されている言葉である。

 

寺山は、偶然と必然を次のように分類している。偶然を、詩、存在、ジャズ、花、現在形、心など。必然を、歴史科学、本質、権力、電子音楽、過去進行形、お金など。

 

リストアップされたものを見ると、偶然は自然の中に見出すことができ、必然は人工的なニュアンスが感じられる。「必然という言葉は社会的である」というように、私たちの社会の中でルール化されているものが必然ということだろう。

 

他方、「偶然という言葉は個人的である」というのは、その事柄自体を偶然として感じ取ることができるのは、個人的な体験に深く根ざされているものだからである。つまり、偶然として私たちが認識しているのは、その個人の世界の中で展開される事柄に過ぎないということだからである。

 

その点については寺山の次の言葉を参照したいと思う。「偶然性というのは、必然の体型から情報を省略したものであり、コンピュータの乱数表の肉体化である」これはどういうことか。私の解釈では、偶然性という事柄を解釈するためには、必然(=人工的言語)という決まりごとの枠組みの中で勝手に解釈したことに過ぎないのである。つまり、偶然性として認識されている出来事は、私たちの解釈によって生み出されるものなのである。

 

不条理に関連されると、不条理は、寺山の分類する偶然性の中に含まれることになるだろう。つまり、私たちが不条理と感じられるものは、あくまでも個人的な解釈の中で認識されているに過ぎないのである。

 

そのように考えると、占いというものはとても良くできていると思う。つまり、偶然性を統計的に分析したものが近代の占いであり、それは偶然な事柄を物語化し、それはいわゆる意味付けを行うということで、不条理を再解釈することで乗り越えようという試みである。

 

つまり、不条理自体を乗り越えるには、不条理自体を都合の良いように再解釈すればいいのである。前回のブログでは、それを他者化という言葉で表現した。それは自己をメタ的な視点から捉えることで、不条理な事柄をさらに抽象化し、違う解釈を試みようということである。

 

例えば、自身の不条理は絶望してしまうが、他者の不条理には可笑しみが感じられる。それは、自分のことは有意味で、他人のことは無意味だからである。つまり、他者化とは、自分自身の不条理な出来事に対して、無意味に感じろということである。

 

しかし、それでは不条理を受け入れるというのとは少しニュアンスが違うように感じられる。そこで重要なのは、それ自体の事柄を勝手な解釈をするなということである。私たちは不条理な出来事を解釈しようとすると、どうしても厭世的に解釈を試みてしまう。そして絶望してしまうのである。

 

私たちは、全知全能ではない。にもかかわらず、不条理な出来事と正確に判断し、解釈できるはずがない。そもそもが理解すらできないものを都合よく解釈しようとしても無意味なのである。私たちにできることは、ただただ受け入れることでしかない。受け入れることこそ、私たちがこの世界で生きていく上でとても重要なことなのである。

 

 

 

話は変わるが、最近ぼくは「信じる」という言葉が分かるようで分からず、考え込んでしまった。

 

神様を信じるとか。奇跡を信じるとか。宗教的なニュアンスの感じられる言葉である。  

 

観念としては理解できるが、それを言葉で説明しようとすると、どこか抽象的になり、ごちゃごちゃっとしてしまう。

 

それ自体を疑わないとか、それを絶対的なものだと感じるだとか、違う言葉で表現しようとするのだが、しっくりこない。

 

そして、たどり着いたひとつの答えが、「信じる」とは、「受け入れる」ということではないのかということである。

 

正確に言うと、「受け入れ続ける」ことが、「信じる」ということなのだと思う。

 

私たちは、分かり得ないものに対して、どうしても意味付けを行おうと試みる。

 

どうせ失敗するくせにだ。

 

ただ、それ自体をそれとして認識し、ありのままを受け入れる。

 

飛躍するが、愛も似たようなものだ。

 

誰かを愛するということはそれ自体を受け入れるということだ。

 

デリダは「歓待について」の中で移民へのホスピタリティについて、条件を設けず、ただ受け入れると書かれている。

 

条件を設けた時点でそれはホスピタリティではない、ただ、受け入れるのである。 

 

ニーチェの運命愛とは、この世界をあるがままの運命として受け入れ、愛するということである。

 

それが不条理な場合であったとしても、それ自体を望ましいものとして受け入れるということである。

 

不条理を受け入れるということはとても難しいことである。

 

しかし、人間としての器が大きいとは、その不条理を受け入れる器量だと思う。

本日のテーマは、世の中の不公正さや不平等さについてである。

 

ここ数ヶ月、コロナ鬱なのかもしれないが、気落ちし、活力がなくなってしまった。

 

生きるとは何かという大きなテーマから、明日への不安という個人的な問題まで、何らかの悩みが頭の中を常にぐるぐる回っている。

 

その悩みというのは、簡単にいうと、世の中の不公正さや不平等さである。

 

思い通りにならない人生に絶望し、過去に遡行しながら、後悔を重ねていく。

 

親の経済力や生まれ育った環境、また遺伝による才能や容姿など。

 

恵まれている場合と恵まれていない場合で、その後の人生に少なからず影響を与え、人生に不公正さや不平等さを生んでいる。

 

人生の成功自体を定義していない状態でこのような議論をするのは間違っているのかもしれないが、

 

社会的な評価をそのポテンシャルを鑑みないで判断されていることが、ぼくは不当でならない。

 

はじめから持ち合わせている人が社会に貢献し、評価されることを否定するつもりはないが、

 

そうではない人々が不利な環境で同じ社会という土俵に立ち、勝負せざるおえないことが、負け戦をしているような感覚なのである。

 

 

たった一度きりの人生。何もなく終わってしまうことが惨めで惨めで仕方がない。

 

SNSで他者の活躍している姿や、幸せそうな姿をみるだけで、自分は何のために生きているのかという意味のない命題に直面し、絶望する。

 

このような不条理な世界に対して、それを乗り越えるとか、それを受け入れるとか、はたまた人生を終わらせるとか、実存主義的な議論はすでにされているが、それでも、これでいいのだという結論に至らず、あれがいいのだという他者の欲望を欲望してしまう日々。

 

端的に言うと、他人が羨ましいということに尽きる。

 

このような慢性的なノイローゼの落とし所をしばらく探っているが、答えは見つからない。

 

思考自体を前向きに捉えたり、マインドフルネスでDMNを制御したり、身体を健康にしたり、あらゆることを試したが、全く効果がない。

 

自己肯定感を高めるという言説があるが、こんなまやかしにぼくは騙されない。

 

ありのままの自分を受け入れるということの大切さは理解できるが、論理による判断に価値などないこともぼくはわかっている。

 

他方、ニーチェの運命愛は世界(=その一部としての自己)を受け入れるということを意味するが、それは妥協なのか、諦めなのか、欲望の去勢なのか、ぼくにはネガティブなニュアンスに感じられる。 

 

つまりは、ぼくたちは、世界に受け入れられるということでし満足できないのである。

 

 

たった一度きりの人生。

 

負けることが確定している人生ゲームに、ぼくは笑ってやり過ごすことすらできない。

 

不条理な世界だからこそ楽しめるのかもしれないが、疲れ切った。

 

人生ゲームが楽しいのは、他者の人生を生きているからである。

 

それは、漫画、小説、映画などの物語も同じ理屈である。

 

例えば、自身の不条理は絶望してしまうが、他者の不条理には可笑しみが感じられる。

 

それは、自分のことは有意味で、他人のことは無意味だからである。

 

ボードレールは笑い本質の中で、自己をメタ化することの重要性を説いた。

 

芸人に求められる資質はそこにある。

 

他者と化すこと、そうすることで、自身の不条理を茶化し、乗り越えることができる。

 

しかし、である。それはなんとも難しいことで、ぼくはぼくに囚われ、そこから逃れることができない。

 

絶望に意味を求めて、それが無意味な意味だとしても、自身の一度しかない人生に真理を求めてしまうのである。

 

そんなときは三島由紀夫の次の言葉を思い出すことにしている。 

 

「何のために生きてゐるかわからないから生きてゐられるんだわ」

 

この言葉に思いを馳せながら、明日を目指したいと思う。