センテンスサワー -4ページ目

センテンスサワー

気の向くままに書き綴るのでよろしくお願いします。
感想もお待ちしております!!

ソクラテスの言葉に「無知の知」という有名な言葉がある。

 

無知というのは、一見、知識がなく、愚かなこととされているが、

 

ソクラテスは「自分が知らないことを知るということを自覚すること」が重要であると説いた。

 

私もこの言葉はとても重要で、学問はこの瞬間からはじまったのではないかと思ったりするのだが、

 

そもそもこの言葉自体が、今でも通用する言葉であることが、私はとても重要だと思っていたりする。

 

ソクラテスは古代ギリシアの賢人である。私たちが生まれる遠い昔に生きていた人である。

 

その人の言葉が今でも引用され、現代社会に生きているということを、考えたいと思う。

 

普遍的な価値観や倫理は存在するのか。

 

それは時代の反復の中で見つけられる規則のようなものではないのだろうか。

 

 

人を殺すことは不道徳な価値観とされている。

 

他方、愛するという営みは、人間に欠かすことのできない公理とされている。

 

それらは当たり前のことで、私たちは疑うことすらせず、普遍的な価値観だと思っていたりする。

 

だが、である。それ自体は、現在の一時的な価値観でしかなく、それは数千年後には、人を殺すことが公理となり、愛するという営みは、不道徳な価値観とされてしまう可能性があるのではないか。

 

愛するという営みが、いや、愛するという信念はとても重要だとは思うが、それは果たして普遍的な公理なのだろうか。

 

もちろん、人間の本性を考えるうえで、それは欠かせないテーマだとは思うが、それはあくまでも社会生活を営むうえでの必要条件であって、愛など理念でしかないと思ったりもする。 

 

言語システム自体が、複雑な差異の体系でしかなく、それ自体は社会的な意味付けを行われているラングでしかない。

 

つまり、私たちの置かれている状況や環境によって、その普遍的とされている価値観は変化していくのではないだろうか。

 

そもそも人間自体を定義できていないにも関わらず、人間の理念を語ることは可能だとは思わない。

 

私が考えている事自体も、私が考えられうる範囲の理想に過ぎないし、それを超えて考える事自体が無意味だと思ったりする。

 

普遍的な理念の創出も重要なことではあるが、自身の想像力の届く範囲内で憐れみを感じで思考することがとても重要なのではないか。

 

普遍的な理念は憐れみを閉ざし、思考を停止させる。

 

 

前述したソクラテスのあの言葉は遠い未来まで想定して語られた言葉ではなく、目の前の誰かに向けられた言葉だと思う。

 

現在、問題となっている差別問題であるが、みなが当たり前のようにBMLと叫ぶ。

 

私もあらゆる差別がなくなることは必要だと思うし、絶対にやらなければならないと思う。

 

だが、私自身の未熟さがあってか、想像力が及ばない、憐れみを感じない場合もある。

 

みんなファッション感覚でやっているんじゃないかと勘ぐったりしてしまうときもある。

 

差別という記号を消費しているというか、それ自体を搾取しているというか、ただ雰囲気でのリツイートしているだけというか。

 

差別されていた人たちは、運動し、告発し、人権を勝ち取ってきた歴史がある。 

 

彼らの苦しみをどれだけ理解してリツイートしてんのって思う、本当に憐れみを感じてんのかよって。

 

知ったふりしていい人ぶってんじゃないよとまでは言わないけど、私的には、彼らの苦しみをひとつも知らない癖にあやかってポイント稼いでんじゃないよって思う。

 

そんなファッションモンスターのリツイートに惑わされないように、私なりに無知を自覚し、考えていきたいと思う。 

 2020年上半期も明日でラスト。コロナ禍ではあるが、新しい時代に突入しているような気さえする。エビデンスのない状態で決断を迫られ、あらゆる人の意見に揺れながら物事が進んでいく。信頼できるリーダーの不在。ハッタリでもいいから、来るべき世界の方角を示してほしい。それだけでぼくらは安心する。

 

 以前、ぼくは松本信者論を書いた。その記事の中で、一度公開し、現在は公開されていない記事がいくつかある。本記事は、信仰というテーマで松本の笑いを捉えなおし、松本信者の笑いの受容の仕方を考察した。その内容自体が、現況(コロナ禍)と直接関係しているわけではないが、不確かな物や時代に意味付けを行うという営みが、いかに重要であるかということに対して少なからずヒントになるのではないかと思っている。そういう理由もあり、このタイミングで公開することに決めた。まだ、公開されていない記事もあるので、それについては次のタイミングで公開しようと思う。

 

 

 

信仰としての笑い

 これまでの章では、松本人志がカリスマ性を獲得していき、神格化していくまでの契機について考察してきた。松本人志という存在を抽象的な観念とし、次第に信仰の対象としはじめることになるのだが、その重要な手がかりとして、虚構という概念に着目した。松本の笑いが、それ以前の笑いと異なるのは、虚構をもとに笑いを生み出しているからである。松本の笑いが、新しい笑いとして評価されている理由は、その点が深く関係している。伝統的な笑いを破壊していき、分かるものだけが分かればいいと、排他的な態度で笑いを理解できない人々を排除していったのである。虚構と戯れることができない人は、松本の笑いの本質を捉えることはできない。特に、松本人志よりも上の世代は、松本人志の笑いを意味が分からないと否定する。それは繰り返し述べてきたように、虚構に潜む笑いを消費できないからである。

 一方、松本人志を崇拝するものは、全く違ったアプローチで笑いを理解しようと試みる。それは、松本人志の笑いが理解できない場合でさえ、崇高な笑い(自身がたどり着けない笑い)であると認識し、可笑しみを見出そうとするのである。その点について、以前「放送室」というラジオ番組で、放送作家の高須光聖が、知り合いの出版社の方の話を引用し、次のような話をしている。「これまでいろいろなお笑い芸人を好きになって、その芸人が意味の分からない発言やボケをしたとき、面白くないと否定していたが、松本さんの場合は、それはわたしが理解できていないだけで、本当はすごいことをいってるのではないか」という内容である。松本の意図していた笑いを理解できなかった場合でさえ、自身の能力が足りないため、可笑しみが得られなかったと解釈してしまうということである。本来、笑いというものは、主観的に、自身の判断によって、面白いか否かを評価するものである。だが、自身の評価よりも、松本の判断が、笑いの評価を決定づけていたのである。それはつまり絶対的な評価の基軸となっていたということなのである。

 

 ここに私は信仰としての笑いが機能していたと考えている。松本を崇拝する人々は、信仰することで、彼の笑いに絶対性を感じるようになり、松本の作り出す笑いを普遍的な真理として受容するようになる。そのため、意味のわからない笑いでさえ、可笑しみを探求し、松本の意図を汲み取ろうとするのである。

 信仰とは、神仏などの存在を信じて崇めることである。また、経験や知識を超えた存在を信頼し、自己を委ねる自覚的な態度とされている。現代の日本では、宗教や神に対して親しみを感じない人が多いように思う。そのため、新興宗教や一神教などの原理主義的な宗教に対して寛容さや理解に欠けていると指摘されている。日本人の宗教観は、日本の風土や生活様式に基づいた神道が古くから根付いており、祖先崇拝と自然崇拝を中心とする日本固有の信仰がある。

 われわれが松本に対する信仰は、カリスマ的な存在として崇拝される偶像崇拝と呼ばれるものであろう。偶像崇拝とは、神以外の人や物などの偶像を崇拝する信仰行為のことを指す。われわれは、偶像崇拝と呼ばれるものではあるが、松本に対して宗教的な対象としてみるようになる。そのため、松本を神格化し、松本の笑いに崇高性を感じるようになったのである。

 

 信仰が機能している状態では、どのような性質の笑いであろうとも、それ自体から可笑しみを捉えようと試み続けることになる。答えなき笑いであったとしても、また意味なき笑いであったとしても、松本の笑いを消費するために、思考は止むことはない。そこに意味があると信じているからこそ、可笑しみを得られなかった場合でさえ、それ自体には可笑しみが内在していると、根拠なく判断してしまうのである。

 その状態を説明するために、千葉雅也の『意味がない無意味』という著書で提案されている「意味がある無意味」という概念を参考にしたいと思う。同書の中では、意味がある無意味と意味がない無意味と名づけられた二つの無意味について提案されている。意味がある無意味とは、過剰に意味が溢れ、無限に多義的なものとされている。どういうことかというと、ある対象を意味づけしようとした場合に、それ自体の認識の仕方は解釈するものによって異なるため、正確に定義づけすることは困難とされている。そのため、様々な解釈が可能となり、無限に多義的なものとしてしか認識できないのである。

 著者は、無限に多義的なものを、意味がある無意味と名づけている。意味がある無意味は、意味が溢れ、様々な解釈が繰り返され、意味と成りえない意味を生産し続ける。それは意味が定まっていない状態だといえるだろう。われわれは、自身の能力の範囲でしか実在の対象を認識することができない。そのため、複数の人々が同一の対象を認識しようと試みても、その対象を認識するための能力に差異が生じるため、正確に同一の対象として認識できないのである。哲学者のイマヌエル・カントは、物自体と表現し、われわれは、現象としてしか対象を認識できないと説明する。それこそが思考することができない外部の実在とされているものであり、著者の提唱する意味がある無意味なのである。その外部の実在を合理的に意味づけすることは不可能であり、それ自体を共有するためには、非合理的な実在として信じ込むしかない。それはもはや信仰心でしかないのである。信仰心があるからこそ、理性的に判断できないもでさえ、解釈を試みようとするのである。

 哲学者の稲垣良典は、「信仰は人間理性が自力では近づくことのできない神秘に直面したときに自らの無力を自覚し、自らの認識能力の第一根源であり、これまでも自らの認識能力はそこから光を得ていると認めてきた第一の真理である「教える神」に直接に聴従することによって学ぼうとする態度、それに伴う謙遜と従順の態度なのである」と説明する。すなわち信仰とは、われわれの理解すらできないものに直面した際に、それが無意味であろうともそこには意味が存在するという信念にほかならない。

 

 九〇年代の松本の笑いは、意味がある無意味な笑いとして、意味が過剰に解釈されていた時代だといえる。それはつまり、信仰としての笑いが成立していた稀有な時代だったのである。当時の松本の笑いは、複雑で高度な笑いと認識され、不条理やシュールと称されていた。いわゆるナンセンスと呼ばれる笑いであり、それは無意味な笑いといいかえられる。松本の笑いは、意味に置き換えることが不可能であり、われわれの理解を超えた笑いであった。その意味不明な何かに対して、われわれは魅了され、そこに価値や意味を見出そうと試みたのである。

 そのような崇高な笑いを目の当たりにして、われわれは理解できない場合でさえ、それ自体から意味を見出そうと試みる。しかし、それだけではない。能動的にその意味を獲得しようと努めるだけではなく、それと同時に、意味自体の押しつけを強いられているとさえ思われるのである。すなわち、松本の笑いは、時にして、暴力的に作用してしまうということである。前述している、ブルデューの象徴的暴力が、このレベルにおいても機能していたということである。

 信仰としての笑いには、飛躍があることも事実である。われわれが理解できる笑いには限界がある。われわれの認識能力を超越したそのような笑いは、それ自体に意味があるであろうという根拠のない信念があるからこそ、可笑しみを得られるのである。その飛躍で生まれた距離こそが、信仰によって獲得された可笑しみの量なのである。それはときとして暴力的であるが、強烈な享楽として身体に刻み込まれるのである。それこそが笑いとしての至高体験なのである。

 

 

関連ページ:

 

松本信者論(令和バージョン)第一章

松本信者論(令和バージョン)第二章

松本信者論(令和バージョン)第三章 虚構について

 毎朝ランニングをしている。終わりの見えない在宅勤務が数ヶ月以上続き、目に見えない内臓脂肪が蓄積されていくのを腹の出っ張りぐあいで感じはじめ、ゴールデンウィーク明けから行っている。

 

 ランニングコースはいつも決まっていて、近所の遊歩道を端から端まで走っている。道沿いには季節によって色んな種類の花が咲き、四月は桜で満開となる。そのうえ整備されているのでとても走りやすい。ぜい肉を揺らすにはもってこいのコースである。

 

 だが、ひとつ問題があって、道幅が狭い。三密とまではいかないが、同じようにランニングしている人が多いため、すれ違うときすごく気を使う。おそらく相手も同じように思っているとは思うけど、すれ違う瞬間、ぼくは反対方向を向いて息を止めて通り過ぎるようにしている。やりすぎか。でも、同じようにすれ違ってくれる人がいると、それはそれで良き理解者とすれ違ったと嬉しくなるときもある。

 

 で、この遊歩道には子連れが多い。子どもたちは何やら熱心になにかを観察しているようである。ある子供は花を摘み、ある子供は虫を追いかけている。そんな彼らはとても嬉々として楽しそうにしている。

 

 ぼくはその横を一瞬で通り過ぎる。彼らのように立ち止まることなく、意識や視界にすら入っていない可能性すらある。もはや感性が枯渇してしまったのかもしれない。同じような歳の頃は、ぼくだって同じようなことをしていた。目線にあるものを追いかけ、捉えて、弄くりまわした。目線の先にあるものすべてが魅力的にみえて、知りたいという言葉すら知らない頃から、「なんだあれ」と追いかけた。

 

 今のぼくの視界の先には何も映ってないのだろうか。いや、そんなことはない。素敵な人を追いかけるときもあるし、素敵なものに魅了されるときもある。だが、遊歩道の宝物には、何も感じなくなってしまったようだ。ふりかけをかけても食えない不味い感性になってしまったようだ。

 

 言い方をかえると、手の届く範囲のものには、反応しなくなったのかもしれない。手の届かない何か。実態のない何か。実態はあるが決して触れることのできない何か。そう考えると、花鳥風月という言葉はよくできていると思う。つまり、物事の様々な切り口や、パースペクティブを提示しているように思えるのである。

 

 触れることのできる花。目で追うことのできる鳥。目で追うことはできないが感じることができる風。目で観ることができるが決して触れることができず、感じることすらできない月。それらは少しずつ遠くに位置づけられているように感じる。花鳥風月という言葉は、身体的な距離から精神的な距離に至るまで、ぼくらに自然美の豊かさを教えてくれているようだ。

 

 今日の満月はとても美しかった。特別美しかった。子供が寝息を立てているなかで、大人だけが楽しめる極上の一品である。大人のふりかけを月にかけて食べたい。そんなふうに思った。