ソクラテスの言葉に「無知の知」という有名な言葉がある。
無知というのは、一見、知識がなく、愚かなこととされているが、
ソクラテスは「自分が知らないことを知るということを自覚すること」が重要であると説いた。
私もこの言葉はとても重要で、学問はこの瞬間からはじまったのではないかと思ったりするのだが、
そもそもこの言葉自体が、今でも通用する言葉であることが、私はとても重要だと思っていたりする。
ソクラテスは古代ギリシアの賢人である。私たちが生まれる遠い昔に生きていた人である。
その人の言葉が今でも引用され、現代社会に生きているということを、考えたいと思う。
普遍的な価値観や倫理は存在するのか。
それは時代の反復の中で見つけられる規則のようなものではないのだろうか。
人を殺すことは不道徳な価値観とされている。
他方、愛するという営みは、人間に欠かすことのできない公理とされている。
それらは当たり前のことで、私たちは疑うことすらせず、普遍的な価値観だと思っていたりする。
だが、である。それ自体は、現在の一時的な価値観でしかなく、それは数千年後には、人を殺すことが公理となり、愛するという営みは、不道徳な価値観とされてしまう可能性があるのではないか。
愛するという営みが、いや、愛するという信念はとても重要だとは思うが、それは果たして普遍的な公理なのだろうか。
もちろん、人間の本性を考えるうえで、それは欠かせないテーマだとは思うが、それはあくまでも社会生活を営むうえでの必要条件であって、愛など理念でしかないと思ったりもする。
言語システム自体が、複雑な差異の体系でしかなく、それ自体は社会的な意味付けを行われているラングでしかない。
つまり、私たちの置かれている状況や環境によって、その普遍的とされている価値観は変化していくのではないだろうか。
そもそも人間自体を定義できていないにも関わらず、人間の理念を語ることは可能だとは思わない。
私が考えている事自体も、私が考えられうる範囲の理想に過ぎないし、それを超えて考える事自体が無意味だと思ったりする。
普遍的な理念の創出も重要なことではあるが、自身の想像力の届く範囲内で憐れみを感じで思考することがとても重要なのではないか。
普遍的な理念は憐れみを閉ざし、思考を停止させる。
前述したソクラテスのあの言葉は遠い未来まで想定して語られた言葉ではなく、目の前の誰かに向けられた言葉だと思う。
現在、問題となっている差別問題であるが、みなが当たり前のようにBMLと叫ぶ。
私もあらゆる差別がなくなることは必要だと思うし、絶対にやらなければならないと思う。
だが、私自身の未熟さがあってか、想像力が及ばない、憐れみを感じない場合もある。
みんなファッション感覚でやっているんじゃないかと勘ぐったりしてしまうときもある。
差別という記号を消費しているというか、それ自体を搾取しているというか、ただ雰囲気でのリツイートしているだけというか。
差別されていた人たちは、運動し、告発し、人権を勝ち取ってきた歴史がある。
彼らの苦しみをどれだけ理解してリツイートしてんのって思う、本当に憐れみを感じてんのかよって。
知ったふりしていい人ぶってんじゃないよとまでは言わないけど、私的には、彼らの苦しみをひとつも知らない癖にあやかってポイント稼いでんじゃないよって思う。
そんなファッションモンスターのリツイートに惑わされないように、私なりに無知を自覚し、考えていきたいと思う。