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センテンスサワー

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コロナの影響で在宅勤務となり、用事がなければ部屋に籠もっておとなしくしています。年齢的に(といっても来月34歳になるのですが)、重症化になりにくいとは言われており、周りで騒いでいるほど用心しているわけでもなく、かわらない日常を送っていたりします。

 

ですが、もし仮にコロナが感染した場合に、運が悪ければ死ぬことになるだろうし、少なからず他人に迷惑をかける恐れがある。そのため、極力外出をせず、外出した場合はマスクをし、最低限の配慮はしているつもりでいます。まあ、そのくらいですが。

 

 

今回のテーマは、コロナについてです。

 

テレビやネットニュースで色々と耳にしているかと思われますが、

 

意外とコロナがどういったものなのか知っている人も少ないのではないでしょうか?

 

それは驚異とか、感染率のことではなく、コロナ自体のことです。

 

今回はコロナについてできる範囲になりますが、調べてみました。

 

コロナは、「コロナウイルス」と呼ばれているようにウイルスの一種です。ちなみにウイルスとは、感染症を引き起こす微生物のことです。細菌、真菌、原虫、そしてウイルスの4つに分けられて、病原微生物と呼ばれております。

 

そもそも微生物とは、「ウイルス」、「原核生物」、「真核生物」に分けられて、「ウイルス」はウイルス、「原核生物」は細菌、「真核生物」は真菌と原虫に分けられます。ちなみにヒトなどの生物は、真核生物に属すようです。

 

話を戻します。ウイルスの大きさは、10〜100ナノメートルくらいだとされております。ヒトの細胞が、10マイクロメートル(1mmの100分の1)ほどで、その1000分の1ほどとなります。

 

コロナウイルスも同様の大きさです。このウイルスが人体に付着し、体内に侵入してくことで感染することになるのです。少し詳しく説明すると、コロナウイルスは、表面に数千個の刺胞(触手のようなもの)で覆われております。それを細胞に付着させて細胞内に侵入するのです。それが感染までの流れです。

 

コロナの名前は、そのような見た目から、太陽に似ているためコロナと名付けられたようです。それは核融合を想起せざるおえません。ヒトと接触し、感染しながら、放射性物質のように拡散していく。微生物とはいえ、生きるための生存本能としてそれはしかたのないことなのかもしれませんが、ヒトであるわたしたちにとっては驚異でしかないでしょう。

 

 

さて、そろそろテーマに触れたいと思うのですが、わたしはコロナの形に着目しました。正確にはウイルスの見た目についてです。ウイルスの外形は、正二十面体とされております。

 

正二十面体は、プラトン立体と呼ばれる図形のひとつです。他にも、正四面体、正六面体、正八面体、正十二面体などがあり、正多面体は「神が作った立体」と言われているようです。

 

個人的な感想ですが、ウイルス自体のしぶとさはそれに呼応するように感じられます。どこか丈夫そうで、どこか強度のようなものがある。

 

そしてプラトンは、四元素とそれらの正多面体を対応させて、正四面体は火、正六面体は土、正八面体は風は、正十二面体は水としました。

 

そのなかでも正二十面体は特別な正多面体とされており、エーテルに位置づけられるようです。四元素については世界の物質に割り当てられており、意味することは少なからず理解できるが、エーテルはファイナルファンタジー以外では馴染みのない言葉に思います。

 

それでは、エーテルとはなにか。

 

エーテルとは、光の波動説において宇宙に満ちていると仮定されるもので、光が波動として伝搬するために必要な媒質という説がありました。ですが、現在この説はすでに否定されております。つまり、古代ギリシャ時代、プラトンやアリストテレスらは、エーテルを光の媒質と考えていたのです。

 

さらにそれ以前の古代ギリシャでは、アイテールと呼ばれており、大気の上層、雲や月の領域、あるいはゼウスの支配する領域を意味する言葉でした。そして、その言葉の語源は、「つねに輝きつづけるもの」を意味しており、それは太陽を彷彿とさせます。そうです、コロナの由来と同様です。

 

 

さて、そろそろ胡散臭い内容になってまいりました。これらは、こじつけ以外のなにものでもございませんが、上記の文章を読んで頂くと、コロナの印象がじゃっかん変わったのではないでしょうか?

 

見えないものの怖さ。カテゴライズされていないことの不安。コロナについて調べると不安になることもたくさんありますが、それが少しでも知識として把握できることで、安心材料になるとわたしは思っております。

 

コロナとエーテルにはなにも関係はない。

 

だが、それらが飛躍して結びついたときの心地よさは、退屈を少しは凌げたのではないでしょうか?

 

以上です。

以前、ブログで、罪と罰と作品というタイトルの記事を書いた。

 

内容としては、作品自体に罪は無いが、作者の罪は、作品にいい意味でも悪い意味でも、影響を与えかねないということだ。

 

それはつまり、作品を受容する人の能力に依存した形で、作品の評価が決まるからである。

 

その能力は、人によってばらつきもあるし、評価の仕方ですら千差万別である。

 

芸術的な作品を評価する上で、なんらかのルールや基準を設けること自体が意味がなく、人それぞれが好きなように解釈していいものだと思われる。

 

ここまで多様化した社会や文化のなかで、押しつけ的な評価基準を設けること自体、ぼくはバカげているとすら最近は感じている。

 

作品自体を受容した人が、それぞれ好きなように解釈していいし、その人の基準に従って、評価すればいいと思う。

 

芸術は、作品と受容者の対話である。その行為自体が、重要なのである。

 

 

さて、ぼくの芸術作品の評価の仕方であるが、作品に罪は無いということは前提的な評価軸としてあるが、上記で取り上げた記事で記しているように、作者や関係者の罪は、作品にいい意味でも悪い意味でも、影響するとは思っている。

 

やはり、誰がつくったか、という根本的なところで、ぼくはすごく興味があるし、意味の求め方は変わってくると思っている。

 

それは松本信者論で繰り返し述べてきたことでもある。

 

松本人志の言葉に、ぼくが理解できない場合でさえ、深いなにかが存在していると感じてしまうという作用である。

 

ぼくらは、作品と向き合うとき、そこを意識することなく、受容することができるのか。

 

ピカソの書いた絵を、ただの絵として、ピカソという存在を初期化した上で、作品を受容できるのか。

 

ぼくは無理だ。

 

ピカソの作品を受容するときは、ただの絵としてではなく、ピカソの絵として受容してしまうだろうと思う。

 

それは薬物でも同じである。

 

薬物を使用していたという事実を、ぼくらはなかったことにできない。

 

薬物が作品に影響しているか否かも確認しようがないし、判断など到底できない。

 

だが、それを意識せずに、作品と向き合うことは難しいと思うのだ。

 

その作品を受容する際に、

 

「最近、大麻でつかまったな」

 

「罪を犯した人だ」

 

とか、どうしても考えてしまう。

 

それはぼくの想像力の限界でもある。

 

そこを軽々と乗り越えてしまう人はもちろんいると思うが、大半の人々は、限界があると思う。

 

繰り返すが、作品に罪はない。

 

だが、作者の罪(もしくは功)は、少なからず、いい意味でも悪い意味でも、影響を与えてしまうだろう。

 

 

で、ここから、今回のテーマ関係してくるのだが、薬物は、それがどんな効果であれ、身体や精神になんらかの影響を与えてしまうだろうと思う。

 

それは、つまり、作品に影響を与えるといういうことでもある。

 

そう、ゼロではないだろうということである。

 

では、それが、スポーツではどうか。

 

(論点が異なるとは思うが、関係していると個人的には思っている)

 

ドーピングをした選手が、金メダルをとった場合に、ぼくらは素直になっとくできるか。

 

ぼくは、なにか認めきれない部分がある。

 

それがなにかと言われれば、簡単に言語化できないのだが、素直にそれを称えることができないと個人的には思う。

 

芸術家の薬物を容認する人たちは、スポーツマンのドーピングを容認できるのだろうか?

 

そのスポーツマンの金メダルを素直に喜べるのか?

 

ぼくは、その点について、答えがでないままであるが、その微妙な狭間でいろいろと考えてしまう。

先日、GEZANの新譜・『狂(KLUE)』が発売された。全体を通して、シームレスに繋がれた曲の連なりに、アルバム全体で一つの曲であるかのような作品に仕上がっている。時代の流れにとらわれないアンダーグラウンドやカウンターカルチャーの強度を感じられた気がした。

 

先行配信された『東京』は、PV公開の時点ですでに話題を集めていた。マヒトゥザピーポーの咆哮ではじまり、日本の伝統的な音を取り入れ、各所に民族音楽を彷彿とさせる。それはルーツミュージックへと回帰し、音楽の本来のあり方を問い、それは祝祭や慰霊のようなグロテスクリアリズム的世界観であった。

 

グロテスクリアリズムとは、高位なもの、精神的、理想的、抽象的なものをすべて物質的・肉体的次元へと落とし込みこととされている。つまり、崇高な存在を格下げし、エロティシズムや官能的表現、そして大地へと引きずり込まれている状態。その状態では、誰もが同じ立場となり、上も下もなく、ましてや左や右のような思想もない。ただ、踊り狂い、”今”自体のリビドーに没頭している状態である。

 

 

狂いについて


タイトルにあるように、本作品は狂いがテーマとされている。マヒトゥザピーポーにとって狂いとは何か。どのような状態か。そもそも狂いとはどういう状態のことであるのか。

 

福島章は著書の中で、狂気とは正気の外側にあると説明している。狂気は、正気の背後にひそんでおり、なんらかの条件を満たした場合に、狂気として姿を現すのである。つまり狂気は、自分自身の一部なのである。そこで引用したいのはパスカルの次の言葉である。

 

「人間が狂気じみているのはあたりまえなので、狂気じみていないことも、ある意味、狂気的な傾向であり、そうするとやはり狂気じみていることになるだろう」と、独自のユニークな解釈で狂気と正気について定義している。上記で説明したように、狂気は正気の一部であるという説も、あながち間違ってないように思う。

 

そもそも狂気自体が、怖れられていたり、忌み嫌われている要因として、日常的な生活や安定を脅かす可能性があるからである。そのため、歴史的にみても、狂気は抑圧されてきた過去があり、現在でもそのような対象として、一部の人たちから偏見の目でみられているのである。

 

ぼくたちの社会は、正気である人を対象としたルールが制度化され、公共の場として機能しているのである。現時点では、狂気と化し、自分を見失った人たちを、許容できるほど制度や仕組みは十分に整ってはいない。繰り返すが、だからこそ抑圧であったり、カテゴライズであったり、狂人を正気の外側に追いやることが必要とされていたのである。

 

GEZANの音楽には、その外側に追いやられた人々を包摂する力がある。GEZANが主催している『全感覚祭』もそのような場として機能している。それは、狂いという本来の人間らしさを取り戻すための手段なのである。

 


普遍的、特殊的

 

普遍的と言えば聞こえがいいが、ぼくはその言葉をを使いたくない。いや、そもそも普遍ではありえないのではないだろうか。GEZANと同じ時代を生きていない人たちに、この新譜の熱量が濃度を落とさずに、伝わるとは思わない。数年後、数十年後、数百年後にこの曲を聴いた人たちには、この臨場感を感じられないだろう。社会、政治、宗教など、この時代の息吹を余すことなく反映しているように思う。普遍性の亡霊に取り憑かれて身動きできなくなるのではなく、特殊性の異物をいかに受け入れるか、その点を問われているのではないだろうか。

 

いずれ時代が移り変わり、この新譜に対して僕らが感じている意味が失われていくのだろう。その過程で、音階とリズムだけが残り、GEZANの音楽は、普遍へと変わっていくのだと思う。それは爆ぜた後の冷え切った宇宙の美しさのようなものだ。それはそれでいいのかもしれないが、この熱量を感じられる有限性の間だけでもぼくらは狂っていたいのである。

 


イマジネーションで乗り越える

 

音楽とはなにか。ポストモダンの社会では、誰かがなにかを定義するものではなくなっていると思う。それ自体を受容する人が、自由に解釈し、自由に決定し、自由に享楽にふければいい。

 

つまり、音楽性に魅力を感じればそれでいいし、政治性を感じたければそれでいいし、踊りたければ踊ればいい。ただ、それだけのことではないか。

 

彼らの作品から何らかの意味を取り出すのではなく、全身全霊で感じ取ることが重要なのである。そのためには、容易に枠にはめたがる固定観念のこびり付いた自我を振り切るしかない。言外のものを自身の評価で汲み取り、濃度を落とさず感じ切りたいのである。

 

そのために、ぼくらは、正気の外側へ、狂気へと化す必要があるのである。

 

狂え、と言われるがまま、狂う。その号令を、ぼくらは待っていた。

 

GEZANの歌を聴くと孤独になれる。それは自由と言い換えることもできるが、あえて孤独という言葉を使いたい。

 

他者の存在を気にせず、自分だけの孤独な世界で、ただ狂えるのである。

 

つながりとか、きずなとか、そんな安っぽい言葉では、ぼくらは満足できないし、そこからは自由になれない。

 

むやみに連帯するのではなく、たまたま居合わせた観光客が同じ景色を眺めるように、孤独に狂っていたいのである。

 

イマジネーションで乗り越える。

 

マヒトゥザピーポーが繰り返し述べてきたことである。

 

グロテスクリアリズムはそれを可能にすると、ぼくは思っている。

 

果てしなき流れの果で、GEZANの音楽は鳴り響いているだろう。