センテンスサワー -6ページ目

センテンスサワー

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現在、日本の人口は約1億2615万人ほどいる。

 

前年度の同月と比して28万人ほど減少していることになる。

 

2010年を境にして日本の人口は減少傾向にあるようであるが、

 

2040年代をすぎると日本の人口は1億人を切ることになる。

 

そして、2060年には8674万人と推計されているようだ。

 

 

人口減少は大きな問題であるが、さらに問題となるのが、少子高齢社会である。

 

14歳以下は1000万人を下回ることになり、高齢者の人口は3400万人ほどとなる。

 

そして生産年齢人口は、4418万人となる。生産年齢人口とは、労働力のことであるが、それはつまり働き手が明らかに足りないことを意味する。

 

単純計算であるが、一人で二人以上の人を養わなくてはならない可能性があるということだ。

 

 

来たるべき世界は近い将来やってくる。ぼくが生きている間にそれは現実となるだろう。

 

以前から上記のことについてはいわていることであるが、立ち止まって考えてみると大変恐ろしく感じた。

 

だが、これはあくまでも推計された数字でしかなく、2060年代には人口以外にも変化があることが予測できる。

 

その点を考慮にいれることで、漠然とした不安は解消されると思っている。

 

まず、着目したのは、生産年齢人口の見直しである。

 

先ほど、14歳以下は1000万人を下回ることを指摘した。なぜ、14歳以下という区切りで換算しているか、疑問に思った方もいるだろう。なぜ、18歳以下ではなく、14歳以下なのか。それは生産年齢人口と関係してくる。

 

現在、生産年齢人口は、15歳以上65歳未満という区切られた期間を対象としている。そのため、それに該当しない人たちは、生産年齢人口の枠組みから外されてしまうのである。

 

ぼくが指摘したい点は、65歳未満という年齢である。40年後、医療の進歩や健康に対する意識の変化を考えると、65歳未満というのはナンセンスだと思われる。

 

現在、女性87歳、男性80歳が平均寿命とされている。それが2060年には、女性90歳、男性84歳と推計されている。

 

つまり、バカみたいなことをいうが、長生きする分、元気な期間が増え、働けるのではということである。

 

ついで、指摘したい点は、専業主婦から、共働きという働き方の変化である。これからの時代、専業主婦というのは労働者の給料が減っている中で現実的ではない選択肢である。女性の正社員の生涯年収は、約1億4500万円のため、専業主婦という選択肢は、それだけの収入を損しているといえるだろう。

 

考えられるのはそれだけではない。

 

移民の受け入れることで労働者を確保したり、AIやロボットを利用した生産性の向上することにより、労働者自体を削減することも可能となるだろう。

 

改善可能なことはまだまだ他にもあるだろう。

 

イノベーションが起こることで、また違う未来となる可能性がある。

 

数字だけをみるとどうしても不安になってしまうが、未来を想像し、違う観点から数字を考えることで、もしかしたらなんとかなると考えうることも可能なのである。

 

来たるべき世界は近い将来やってくる。ぼくらが生きている間にそれは現実となるだろう。

 

 

 

最後に、ぼくの正月の過ごし方について。

 

休み前にいろいろしたいことがあり、わくわくしていた。

 

のだが、ぎっくり腰になり、寝正月となってしまった。

 

まったく動くことができず、寝返りを打つのですら、一苦労。

 

少しずつ回復していき、いまは歩ける程度に回復したが、明日会社に行けるだろうか。

 

もし、明日会社を休んでしまったら、生産年齢人口からマイナス1してください。

 

以上。

今さらであるが、2019年は歴史的な一年だったと思う。平成から令和へと改元され、上皇陛下が退位された。そして戦争を知らない新しい天皇陛下が即位されることになった。

 

少子高齢化により前年度と比して人口は減少し、地球温暖化による自然災害が頻発した。また、悲惨な事件も多かったように思う。高齢者の交通事故。あおり運転。京都アニメーション放火殺人事件。不条理としか言えない事件が多かったように思う。

 

個人的に気になったニュースとしては、吉本興業の闇営業問題。吉本所属の芸人が事務所を通さずに、営業に行き、反社会勢力から金銭を受け取ったとされ、週刊誌にスクープされた。その後、宮迫博之と田村亮は記者会見を開き、謝罪した。その会見の中で、彼らは吉本興業から圧力をかけられていたことを暴露し、大きな注目を集めることになった。

 

暗いニュースばかりではない。ラグビーワールドカップにて日本代表の活躍、NBAウィザーズに八村塁が入団、スマイルシンデレラこと渋野日向子が全英女子オープンで優勝した。そして、来年には東京オリンピックが開催される。大河ドラマでは前回の東京オリンピックをテーマに描き、大変見ごたえのある作品だった。

 

 

日本の出来事だけでも書ききれないほどたくさんのことがあった。要約すると、波乱の一年だったと言えるのではないだろうか。上記からこぼれ落ちた小さな歴史もたくさんある。語れないことも語りたいこともたくさんあった。人の数だけ、それぞれの2019年が存在するのである。

 

敷衍して考えると10年代はいろいろあった。ここでは触れきれないため省略させていただくが、たくさんのドラマがあった。すごく前の出来事のようで最近のことのようにも感じる。時間の流れの歪さを歳を重ねるたびに感じる。現在という、過去と未来をも包摂する時間を、ぼくらはどこまで拡張できるか。プランク時間を実感できないぼくらはイマジネーションを働かせて、内省していくしかない。

 

迫りゆくカウントダウンに一秒一秒をどれだけ実感できるか。

ぼくは有名人ではない。だから、言論の自由とか気にする必要ないし、好きなことを、好きなように書いていい身分だ。だけど、そうも言っていられず、パノプティコンのように誰かがどこかで監視をしているのではないかと、びくびくしている。そうなるとなにも書けなくなる。自意識過剰だと言われればそこまでであるが、そういう時代だと

 

このご時世、様々な立場の人が、各方面から見張っていて、目に留まれば執拗に指摘する。誰もが自身を正義だと思い込み、それ以外の主張は悪とみなすのである。つまり、こういうことではないだろうか。固有の正義は誰かを知らぬ間に傷つけてしまい、正義という名の信念はその発生と合わせて悪を生み出してしまうのである。

 

正義か否かは、歴史が判断するという言説があるが、ぼくはそうは思わない。それは、正義を判断するのは、誰かが設定した枠組みの中で左右されるからだ。ある事象をメタレベルで批判するということは、また異なるレベルで批判にさらされることになるのである。正義など、その程度でしかない。如何にして、自身の主張を正当化するためのメタレベルの枠組みを設けて、正義を位置づけるかということである。

 

ネット上では、キャラクター設定をした人々で溢れかえり、固有の正義を振りかざしながら、誰かを無差別に攻撃している。根拠なきエビデンスを作り込み、偽りにまみれたロジックで武装する。それは果たして正義なのだろうか。

 

逆も言える。不用意な発言をしてしまった場合に、それを受容する側の解釈によって、自身が正義だと思っているものが、不正義として解釈されかねないということである。だからこそ、発言に細心の注意を払わなければならない。そのため、なんらかの正義が発生しかねない立場をとることに、どうしても躊躇いが生じてしまう。そうすると、いずれ自己同一性を失ってしまい、ぼくとしてのらしさが瓦解してしまうのだろう。

 

このような社会は、かつてSF作家が設定したディストピアとしての未来でしかない。言論の自由が許されない監視社会。多様性を認めず、画一的に合理的な仕方で人々を管理する。それをやっているのが、国家などの大きな統治機構ではなく、ぼくら自身であることが、また別のレベルでの問題なのである。

 

細分化された多様性の中で、誰もが自身の正義を主張し、排外的に他者を否定し、自身の立場を確保する。だから、ぼくらは沈黙するしかない。言葉はもはや暴力でしかないからだ。わかりあえないことを前提に、コミュニケーションするしかないのだが、それはもはやディスコミュニケーションでしかないだろう。踊ることを許されない壇上で、ぼくらはなんらかの幻想によりかかり、ディスコミュニケーションという名のディスコを踊っているふりをしているのである。

 

はじめて言葉を覚えたとき、規則性の正当性と意志の伝達の享楽を享受した。その経験の積み重ねが、少しずつ根拠なき正義を生み出し、敵と友を分別することになった。敵とはなにか。そして友とはなにか。現時点でそれを隔てているものは、正義という無責任な価値観である。正義はロジカルに組み立てられない。根拠なき信念である。ディスりあいからはじまったディスコミュニケーションは、すべてを終わらせてしまった。正義を主張してしまうやつは、もはやディスコだし、愛とか語ってしまうやつも、もはやディスコだ。そんなものだ。