センテンスサワー -7ページ目

センテンスサワー

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先週、フットサルの試合があった。数日経ったけど、体の節々がまだ痛む。三十歳を過ぎてから、翌日よりも、その次の日のほうがより痛いように感じられる。

 

そんなときは決まって風呂に入って体を癒やすようにしている。より温まる成分の入浴剤を入れて、浴槽に体を入れると水が溢れるくらいがちょうどいい。

 

風呂の温度はぬるめが好きだ。四十度を超えるとのぼせてしまう。長風呂のぼくは、それくらいがちょうどいい。

 

母親のお腹の中にいたときの温度がそのくらいのようだ。そのときの記憶はまったくないが、体が覚えているのかもしれない。

 

熱すぎず、冷たすぎず。ぬるめでいい。エントロピー変化がないくらいが人生を豊かにすると思っている。

昨日、KB&HT(キイチビール&ザ・ホーリーティッツ)主催の自主企画「深まる秋のダブダブエックス祭り」に行ってきた。開催場所は、渋谷WWW X。出演者は、キイチビール&ザ・ホーリーティッツ、NYAI、新しい学校のリーダーズ、バレーボウイズ、The Wisely Brothers。そうそうたる顔ぶれである。

 

トップバッターは、The Wisely Brothers 。ガールズスリーピースバンドで、軽快なメロディと綺麗な歌声がとても魅力的だった。次に登場したのは、バレーボウイズ。京都の7人組ロックバンドで、合唱系ノスタルジック青春歌謡オーケストラと自ら謳っている。ノスタルジックな曲調と、ストレートな歌詞がとても素晴らしかった。間奏中のボーカルのパフォーマンスがとてもクセがすごくて、よかった。そして登場したのが、新しい学校のリーダーズ。彼女たちのパフォーマンスには度肝を抜かれた。唯一無二というほど捉えようのないパフォーマンスだった。一応、日本のダンス&ボーカルパフォーマンスユニットということらしいが、一括にできない前衛的な表現だった。NYAIは、福岡で活動するオルタナティブバンドである。こちらも男女混合バンドで、とても魅力的なサウンドだった。

 

最後に満を持して登場したのは、KB&HT(キイチビール&ザ・ホーリーティッツ)である。前回、彼らを観たのは、同会場(渋谷WWW X)でのワンマンである。その数日後に、キイチビールが活動休止を発表し、驚いたことを今でも覚えている。今思い出せば、ライブMCでキイチビールが、「最近、痩せてきたんだよね」とか話していたことも頷ける。

 

キイチビールが活動休止を発表し、数ヶ月が経過しているが、その期間、彼らは新体制で活動している。前回のワンマン後に、キイチビールが彼らを集めて、活動休止の話をしたようだ。キイチビールが抜けた後、彼らは今後について真剣に話し合ったようだ。様々な葛藤もあったろう。解散の危機もあったようだ。作詞作曲、メインボーカル/ギターは、キイチビールが担当している。KB&HTにとっての支柱は紛れもなくキイチビールだといっても過言ではない。その抜けた穴をどのようにカバーするのか。その期間をファンは待ってくれるのか。ぼくらが知り得ない、葛藤や問題があったに違いない。

 

だが、彼らは続けることを決意し、新体制で活動することを決めたのである。とてつもない覚悟だと思う。KB&HTの結束の強さを改めて感じられた。新体制では、KDがボーカル/ギターを担当することになり、新曲では彼女が作詞作曲をしている。幸いにも、KDは、ボーカルができ、ギターを弾くことができ、作詞作曲までできたのである。不幸中の幸いとはまさにこのことではないか。

 

今回の自主企画も集客できるか不安だったようだ。だが、蓋を開いたらたくさんの客が来場し、会場一体となって盛り上がった。彼らのパフォーマンスは本当に見事だった。事前に新曲のMVを観ていたが、とても素晴らしい曲だった。今回の企画は、大成功だったと思うし、ぼくは最高に楽しかった。

 

水を差すようだけど、とてもドラマチックだと思う。映画の原作になりそうなほど、素敵な話だ。彼らは頑張っている最中だから、ドラマは始まったばかりだと思うけど、もっともっとたくさんの人に、彼らの音楽を届けてほしいと思う。

 

 

ぼくが、KB&HTを知ったのは、一年くらい前だったかと思う。ももカレーでの企画で、キイチビールが弾き語りをしていた。その企画の出演者は、SUNNY CAR WASH 岩崎優也、KB&HT ひとりキイチビール、タカナミ 高浪凌である。今思えば、すごい豪華なメンバーだなと思う。タカナミもデビュー直後だったと思うし、それはそれで貴重だった。ぼくはサニカーのアダムを目当てで足を運んだが、そこでキイチビールのことを知った。そして彼の音楽に触れ、魅了された。

 

ノスタルジーを感じさせるメロディに乗せて、彼はセクシーに歌い上げる。彼の音楽には色気がある。それはセンスと言い換えてもいいが、メロディーを受容するスイートスポットに的確に当てられているような心地よさとカタルシスがあるのだ。

 

そのときにキイチビールが歌っていた『かっぱえびせん』という曲が耳に残って、家に帰り、You Tube で検索し、iTunes で即ダウンロードした。それ以来、その曲はぼく自身のテーマソングである。なにがいいとか、ここがいいとか、そんな次元じゃない。ぼくのテーマソングである。

 

改めて聴いてみたんだけど、歌詞が未来を予言しているように感じられて、グッときた。今のKB&HTに重なるというか、キイチビールからの村上貴一宛の手紙のような。

 

よーいどんで走らされて

ぼくはうんと遅れそうだなあ

行ってしまってもいいよ

見つからないように

たまには

会いたいけど

 

もうずっとそんなきみは

先の先の先のほうまで

行ってしまったんだろう

 

どうしようもない 情けない

やってられない ことばっかで 

匙も投げそうになるけど

楽しくやれそうな

兆しが ここならば オーイェイ

 

ももカレーの企画は、本当に素晴らしかった。残念なことに、キイチビールだけでなく、その後サニーカーウォッシュのアダムも活動休止することになった。なんか好きなものが遠くに行ってしまってばかりで寂しいが、ぼくはずっと待っている。

 

 

先週、首里城が火災し、正殿を含めて7棟が全焼した。世界遺産として登録され、沖縄を代表する歴史的なシンボルである。ぼくは不謹慎極まりないが、三島由紀夫の金閣寺を想起した。普遍的な存在としてあり続けるものが、火をつけることで燃えはじめる。そうすることで、それ自体が、無限の存在から、一時的に有限化される。その瞬間に、美が輝きはじめるのである。物語の中であるが、三島由紀夫はそのように分析している。

 

さらに敷衍して考える。

 

現在のKB&HTは、そのような輝きを放っているのではないかと感じている。

 

キイチビールが活動休止している今、KB&HTは有限化され、目が眩むほどの閃光を放っているのである。

 

ぼくは、現在のKB&HTが応援したい。

 

そして、全員揃って本当のKB&HTだと思っている。

 

キイチビールを待っている。

 

 

 

 

先週、『ジョーカー』を観てきた。本作は、ベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、世界中で絶賛されており、ぼくから感想を述べるまでもなく、大変素晴らしい作品であった。

 

映画の批評家でもないぼくがこの作品を批評するなどおこがましいが、本作を観た人を前提に違う切り口から批評してみたいと思う。

 

 

本作のタイトルである『ジョーカー』とは、ゴッサムシティ最凶の犯罪王であり、『バットマン』に登場する架空のスーパーヴィランのことである。本作では、彼の人生にフォーカスをあて、ジョーカーが誕生するまでを描いたオリジナルストーリーである。

 

主人公は、ホアキン・フェニックス扮するアーサー・フラックである。アーサーは、「どんな時も笑顔で人々を楽しませなさい」という母の言葉を教えに、コメディアンを目指すようになる。だが、彼は精神的な病気を持ち、周囲の人と溶け込めずに、不当な扱いを受けながら暮らしている。それでもジョーカーは、スタンドアップコメディアンを夢見て、コメディアンの派遣社員として仕事をもらいながら奮闘している。

 

本来のジョーカーという意味にも着目しておこう。ジョーカーとは、いいかえると道化師のことであり、滑稽な格好、行動、言動などをして他人を楽しませる者の総称である。ぼくらが知っている道化師は、白塗りをベースとしたメイクを施し、「おどけ役」を演じるピエロの印象が強い。ピエロは道化師の中でも最も馬鹿にされている人のことを指す。笑わせるというよりも、笑われるという芸風である。作中で、アーサーが演じているのは、ピエロとしての道化師である。

 

 

さて、ここからがぼくが考察した点である。本作のパンフレットやチラシはとても印象的なものは2つある。それは、アーサーが手を口に差し込み無理から笑顔を練習している右顔のものと、自然な顔で笑顔を作っている左側のものである。

 

これは本作の中でもキーとなる写真であることが伺える。それは現実と虚構を表しているからである。

 

どういうことかというと、前者の写真では、アーサーの瞳から一筋の涙が垂れている。そして後者の写真では、ピエロメイクとして涙が描かれているのである。一見、意味のないように思われるが、そこにはピエロに隠された悲しい意味が隠されている。

 

ピエロのメイクでは、大粒の涙が描かれている。その意味は、馬鹿にされながら観客を笑わせているがそこには悲しみを持つという意味を表現したものとされている。たいてい涙のメイクは、右目の下に描かれている。それは、ピエロの隠された悲哀がこぼれ落ちたものである。そういう演出である。

 

そこからぼくは次のように推測した。

 

前者の写真では、アーサーの右目から涙がこぼれ落ちており、それは現実のアーサーを表している。そして後者の写真では、アーサーの左目に描かれた涙のメイクであり、それは虚構のアーサーを表している。

 

本作では、過去の名作をオマージュされていることでも有名である。着目したのは、スコセッシ監督、デ・ニーロ主演の『キング・オブ・コメディ』である。レビューでは、現実と虚構の世界観自体をオマージュされているとされているが、上記の仮説からもそれは伺える。

 

前者の写真は、冒頭のワンシーンである。そこから、後者の写真に至るまでに、本作では現実と虚構が入り混じりながら、ストーリーは展開されていくのである。

 

 

さて、最後に指摘したい点は、『ダークナイト』で描かれているジョーカーについてであるが、こちらのジョーカーには、ピエロのシンボルである涙が描かれていない。

 

それは、どういうことを意味するのか。

 

先程、ピエロは、道化師の中でも最も馬鹿にされている人のことを指すと説明したが、そこで注目したのは、クラウンという存在である。ピエロとの違いは、大まかにいうと、「おどけ役」を演じることで、観客を笑わせることができ、(笑われるのではなく)、涙のメイクがあるかないかとされる。

 

つまりぼくがいいたいことは、『ダークナイト』で描かれているジョーカーは、クラウンとしての道化師であるということである。道化師として、大道芸などの曲芸もできるが、司会(日本的な視点では客いじりも行う)もする役者として位置づけられる。『ダークナイト』では、市民の感情を揺さぶり、正義と悪を問い、煽動する。まさに、名司会者っぷりであったように思う。それは、高尚なものですらも落として笑いと化す、グロテスクリアリズム的な笑いの仕方である。

 

クラウンとして思い浮かべるのは、本作でも劇中映画として上映されていた、チャーリー・チャップリンである。アーサーは、チャーリー・チャップリンのようなコメディアンにも憧れていたのかもしれない。

 

 

最後になるが、本作を観て思ったのは、『ダークナイト』のジョーカーは圧倒的な加害者としての悪だったのに対して、『ジョーカー』のアーサーは被害者として身近な存在として感じられたことだ。ぼくもあんな風になっちゃうかもしんないなと思った。現代は、誰もが自身をクラウンだと思い込み、見知らぬ人=ピエロとして茶化す。そんなつまらない世の中だ。誰もがアーサーのようになりうる可能性があるし、またジョーカーになってしまう恐れがある。個人的にはだけど、個人的には、加害者になるくらいだったら、被害者として笑われるくらいの存在でいいなと思っている。ぼくはピエロだ、そんなもんだ。

 

あっ、笑いについて書くのをうっかり忘れていた。お笑い芸人としてのアーサーは考察すべき対象である。不気味な存在とはなにか。無意味な笑いと有意味な笑い。ここらへんを考察したい。