先週、『ジョーカー』を観てきた。本作は、ベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、世界中で絶賛されており、ぼくから感想を述べるまでもなく、大変素晴らしい作品であった。
映画の批評家でもないぼくがこの作品を批評するなどおこがましいが、本作を観た人を前提に違う切り口から批評してみたいと思う。
本作のタイトルである『ジョーカー』とは、ゴッサムシティ最凶の犯罪王であり、『バットマン』に登場する架空のスーパーヴィランのことである。本作では、彼の人生にフォーカスをあて、ジョーカーが誕生するまでを描いたオリジナルストーリーである。
主人公は、ホアキン・フェニックス扮するアーサー・フラックである。アーサーは、「どんな時も笑顔で人々を楽しませなさい」という母の言葉を教えに、コメディアンを目指すようになる。だが、彼は精神的な病気を持ち、周囲の人と溶け込めずに、不当な扱いを受けながら暮らしている。それでもジョーカーは、スタンドアップコメディアンを夢見て、コメディアンの派遣社員として仕事をもらいながら奮闘している。
本来のジョーカーという意味にも着目しておこう。ジョーカーとは、いいかえると道化師のことであり、滑稽な格好、行動、言動などをして他人を楽しませる者の総称である。ぼくらが知っている道化師は、白塗りをベースとしたメイクを施し、「おどけ役」を演じるピエロの印象が強い。ピエロは道化師の中でも最も馬鹿にされている人のことを指す。笑わせるというよりも、笑われるという芸風である。作中で、アーサーが演じているのは、ピエロとしての道化師である。
さて、ここからがぼくが考察した点である。本作のパンフレットやチラシはとても印象的なものは2つある。それは、アーサーが手を口に差し込み無理から笑顔を練習している右顔のものと、自然な顔で笑顔を作っている左側のものである。
これは本作の中でもキーとなる写真であることが伺える。それは現実と虚構を表しているからである。
どういうことかというと、前者の写真では、アーサーの瞳から一筋の涙が垂れている。そして後者の写真では、ピエロメイクとして涙が描かれているのである。一見、意味のないように思われるが、そこにはピエロに隠された悲しい意味が隠されている。
ピエロのメイクでは、大粒の涙が描かれている。その意味は、馬鹿にされながら観客を笑わせているがそこには悲しみを持つという意味を表現したものとされている。たいてい涙のメイクは、右目の下に描かれている。それは、ピエロの隠された悲哀がこぼれ落ちたものである。そういう演出である。
そこからぼくは次のように推測した。
前者の写真では、アーサーの右目から涙がこぼれ落ちており、それは現実のアーサーを表している。そして後者の写真では、アーサーの左目に描かれた涙のメイクであり、それは虚構のアーサーを表している。
本作では、過去の名作をオマージュされていることでも有名である。着目したのは、スコセッシ監督、デ・ニーロ主演の『キング・オブ・コメディ』である。レビューでは、現実と虚構の世界観自体をオマージュされているとされているが、上記の仮説からもそれは伺える。
前者の写真は、冒頭のワンシーンである。そこから、後者の写真に至るまでに、本作では現実と虚構が入り混じりながら、ストーリーは展開されていくのである。
さて、最後に指摘したい点は、『ダークナイト』で描かれているジョーカーについてであるが、こちらのジョーカーには、ピエロのシンボルである涙が描かれていない。
それは、どういうことを意味するのか。
先程、ピエロは、道化師の中でも最も馬鹿にされている人のことを指すと説明したが、そこで注目したのは、クラウンという存在である。ピエロとの違いは、大まかにいうと、「おどけ役」を演じることで、観客を笑わせることができ、(笑われるのではなく)、涙のメイクがあるかないかとされる。
つまりぼくがいいたいことは、『ダークナイト』で描かれているジョーカーは、クラウンとしての道化師であるということである。道化師として、大道芸などの曲芸もできるが、司会(日本的な視点では客いじりも行う)もする役者として位置づけられる。『ダークナイト』では、市民の感情を揺さぶり、正義と悪を問い、煽動する。まさに、名司会者っぷりであったように思う。それは、高尚なものですらも落として笑いと化す、グロテスクリアリズム的な笑いの仕方である。
クラウンとして思い浮かべるのは、本作でも劇中映画として上映されていた、チャーリー・チャップリンである。アーサーは、チャーリー・チャップリンのようなコメディアンにも憧れていたのかもしれない。
最後になるが、本作を観て思ったのは、『ダークナイト』のジョーカーは圧倒的な加害者としての悪だったのに対して、『ジョーカー』のアーサーは被害者として身近な存在として感じられたことだ。ぼくもあんな風になっちゃうかもしんないなと思った。現代は、誰もが自身をクラウンだと思い込み、見知らぬ人=ピエロとして茶化す。そんなつまらない世の中だ。誰もがアーサーのようになりうる可能性があるし、またジョーカーになってしまう恐れがある。個人的にはだけど、個人的には、加害者になるくらいだったら、被害者として笑われるくらいの存在でいいなと思っている。ぼくはピエロだ、そんなもんだ。
あっ、笑いについて書くのをうっかり忘れていた。お笑い芸人としてのアーサーは考察すべき対象である。不気味な存在とはなにか。無意味な笑いと有意味な笑い。ここらへんを考察したい。