本論の主題は、「ぼくは自信がもてない」という問いからはじまり、前回あらためて「自信」というものについて問い直した。自信とは、「自分自身を信じる」ということであるが、そこで参考にしたのは哲学者のサールの「信念(=信じるという心的態度)」についての考え方である。サールは、信念を「心を世界に適合させる態度」と説明している。それはつまり、真とする対象に対して向き合い、現実(=世界)を受け入れる態度を意味している。そしてその考え方を参考にし、私は次のように「自信」について解釈してみた。つまり「自信」とは、「心を自分自身(=現実)に適合させる態度」のことである。それは「真」と仮定した自己の理念(=理想)に対して、それ自体をあるがままとして受け入れる態度を意味している。その過程で、それ自体が基礎づけされていき、自身の内に内在化させていくことが可能となる。それが、いわゆる「自信」と呼ばれるものの正体だと思う。
なぜ、「自信」という言葉を再定義する必要があるのかというと、私はこの言葉に懐疑的であるからである。簡単に説明すると、「自信」という言葉には、「持つ」「持たない」と表現されるように、出どころが不明のまま、獲得したり、失ったりする類のものとして扱われるからである。先に述べたように、突き詰めれば「自信」という態度には根拠がない。しかし、あたかもそれは存在し、私たちの活動能力の増減に深く関わりを持つことになる。言ってみれば、「自信」とは幻想でしかないのだが、それを受け入れるということが、私はどうも納得がいかないので、もっともらしい言葉に変換する必要があったのである。
目的本位に行動するためには、「自信」と呼ばれるものが必要な場合がある。それが幻想であったとしても、なんらかの動機づけがなければ、「とらわれ」から脱することなど到底できない。少なからず、私はそう考えている。そのため、「自信」という言葉に懐疑的であったとしても、「自信」について考え直す必要があったのである。
繰り返すが、「自信」とは、「心を自分自身(=現実)に適合させる態度」のことである。そして、「自信」にとって重要とされるのは、「心=自己の理念」とされるものである。それは、「こうありたい」「こうあるべきだ」という自身の方向性を示した精神的な態度といえる。それは言いかえると、よりよく生きるためにはどうすべきか、ということである。それは、生を肯定する人間固有の傾向と考えられているが、自らの方向性を定めて、目的本位に行動していくための指針のようなものである。
しかし、そのような自己を規定するあり方は、その傾向が強すぎると、「こうしなければならない」「かくあるべし」と、逆に「とらわれ」てしまいかねないため、留意しておく必要があるだろう。あくまでも自己の理念は、自身の欲求に従い、自己実現に向かって成長することを目的としている。それは「あるがまま」を受け入れて、目的本位に行動しくいくための、動機づけにすぎない。そのため、自身の内なる欲求を自覚する必要があるのである。身体から沸き起こってくる内発的な欲望。それはいわゆる「生の欲望」と呼ばれるものであるが、それは本来的にどのようなものであるのだろうか。
生の欲望とは
精神科医の岩井寛は、本来的に人間には向上欲というものが存在しており、生まれながらにして「生の欲望」を備えていると説明している。この考え方は森田正馬の学説を参考にしており、森田が唱える「生の欲望」には、二つの方向性が存在すると考えられている。それは、自己を保存しようとする欲求と、自らを高めつづけようとする欲求である。前者は生き物全般に見られるが、後者については人間固有のものとして考えられている。
元来、生物には共通して生命を維持するための欲望が存在する。それは、種の保存、維持、反映に関係する欲求や衝動と密接に結び付けられており、遺伝子を残そうとする本能のようなものだといえる。つまり、生物は自己を一定の状態に維持しようとする傾向を備えており、そのような働きは「ホメオスタシス」と呼ばれている。
他方、後者は、よりよく生きるためにはどうすべきかという自己実現の欲求と考えられている。自己実現という言葉は、マズローの「欲求五段階説」で聞いたことがあるかと思うが、一般的には、自身の目的や理想の実現に向けて努力し、成し遂げることを意味している。それはつまり、豊かな人間性を形成し、ありのままの姿を目指すことにある。
マズローは、そのような人物を「創造的人間」と称している。それは、何ものにもとらわれず、自身の考えを実行し、自由に行動できるもの指す。心理学者のカール・ロジャーズは、「経験に向かっての開放」という言葉で表しているように、好奇心を持って、目的本位に行動して行く必要があるのである。
私たちが、なにか目的をもって行動をする時、その原動力となるものが自己実現に対する欲求だと考えられている。それは絶えず、成長しようとする人間の本来的な欲求である。では、その欲求はどのような原理で生まれているのか。なぜ、自己の成長に向かって、突き動かされることになるのか。
コナトゥスについて
「生の欲望」と近い概念に、「コナトゥス」というものがある。コナトゥスは古くから存在する概念であるが、近世になり注目されるようになり、哲学者であるスピノザらによって刷新されることになる。コナトゥスとは、生物が本能的に備えている「生きようとする意志」のことを指す。それは、自己保存の欲求へと向かう力を意味しており、上記で説明したホメオスタシスと近いものとして考えられている。
本来的にコナトゥスは、現状維持へと向かう力と考えられているのだが、コナトゥスには、個体の活動能力を高めようとする傾向がある。スピノザの研究者である工藤喜作は、次のように説明している。
すべてのものがこのコナトゥスによって活動するならば、他者との競合によって自分の存在を現状のまま維持することはむずかしくなる。現状を維持するだけでは自分の存在を維持できない。自分の力を他の力と比較し、均衡を保つよりも、むしろ増大につとめなければ、自分の存在を維持できない。またこれはものの本質とみなされるものであるから、他のものとの関係において自分の本質を実現する力となる。
つまり、コナトゥスには何らかの刺激を与えられることで、それに応じて変化しようと努めようとする働きがある。それは、個体が備えている性質を活かそうする能動的な働きだと考えられている。スピノザは、そのようなコナトゥスとしての振る舞いを、生物の「本質(現実的本質)」だと考えており、その「本質」としての力が活かされることで、個体の活動能力が高められることになる。
スピノザは、そのような「本質」を人間の欲望と考えている。欲望とは、意識された衝動と言い換えることができるが、スピノザは、それ自体を肯定することが重要だとしている。「人間は、よいと判断するからそのものを欲するのではなく、反対に、欲するからそのものをよいと判断するのだ」という言葉を残しているように、欲望を肯定することがスピノザの哲学の根幹にあるのである。
生の哲学について
ショーペンハウアーは、「生きんとする意志」について考えた哲学者である。ショーペンハウアーの提唱する「生きんとする意志」というのは、本来的な意味においての意志とは異なり、意味を求める衝動的なものだと考えられている。それはコナトゥスと近い概念であり、盲目的な意志であると考えられている。
「意志」は絶えず何かを求めている。そしてそれは満たされることはなく、際限のない「意志」に突き動かされることになる。そのため、ショーペンハウアーは、生きんとする意志を否定する必要があると考えた。
ショーペンハウアーの結論は極端であるが、欲望が強すぎるとそれを制御することができず、苦痛を感じ続けることになる。そのため、それを回避するために、禁欲的な態度が重要であると主張しているのである。
ショーペンハウアーは、仏教哲学やインド哲学に影響を受け、「この世界は苦である」とする思想が根底にある。ブッダの教えでは、この世界に意味などなく、意味を見出す必要すらないと考えがある。それは「色即是空」という考え方にあるように、あらゆるものは移り変わってゆき、この世界には本来的に実態などない。つまり、すべての物事は「無」であり、空虚な現象に執着する必要はないという教えである。
ショーペンハウアーは、意志(=意味を求める衝動)が、表象を可能にすると考えている。ショーペンハウアーは、カントの「物自体」という考え方を「意志」として考え、その意志が表象としての世界を生み出していると考えた。つまり、意志がなければ、この世界自体が存在せず、苦悩を経験することがないと結論づける。意志を否定することは、意味を求める衝動から解放され、「とらわれ」からの自由を獲得することができるということである。
ニーチェは、ショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」から多大な影響を受けて生の哲学について考えた哲学者である。ニーチェは、ショーペンハウアーの考え方を基礎としているが、「生きんとする意志」を否定する態度に疑問を持ち、どうすればそれ自体を肯定することができるのかと考えた。それは、この世界は苦痛に満ちているということは仕方のないことだが、だからこそ、この世界は生きるに値するのではないかとニーチェは考えたのである。
ニーチェは、ショーペンハウアーの提唱する「意志」という概念を「力」として捉え返し、生の本質を「力への意志」であると考えた。力への意志とは、人間を動かす根源的な動機を意味しており、異なる状態へと変化(向上)しようとする力を指す。
「力」とは、欲動と言い換えることができるが、それは複数の力の作用のなかで現れるものだと考えられている。つまり、私たちの欲動は、いくつも存在しており、その諸力のせめぎ合いの中で新たな力が生じることになる。力は、常に何らかの力との関係の中にあり、拮抗することで物事を動かす傾向が決定されることになる。そしてその生じた力を肯定することで、新たな価値が創造されることになる。それこそが、生命が向上していこうとする「力への意志」の重要なポイントである。
他方、そのような力への意志に対して、反動的な力が強まった場合に、本来的な能動性が縮減されていくことになる。それはショーペンハウアーのように意志を肯定することができなくなった消極的な状態だといえるだろう。ニーチェは、そのような場合に、ペシミズムに陥ることを危惧し、そのような状態を「消極的ニヒリズム」だと考えた。ニーチェは、「人間は何も意欲しないよりは、むしろ虚無を意欲することを望むものである」と述べており、それはつまり、人間には本来的に虚無へと向かう意志が存在することを意味している。
「意志への力」が否定的な方向に向かった場合、自己破壊的な衝動に駆られたり、死にたい気持ちへと向かわせることになる。フロイトは、「死の欲動」という言葉で表現しており、人間には本来的にそのような自己を破壊しようとする攻撃的な力が存在すると考えられている。ニーチェはそのような状態に陥ることを認めた上で、ニヒリズムを克服するためには、そのような否定的な態度を肯定的に転換し、目的本位に行動していく必要があると説明する。むしろ、ただ力への意志を肯定するだけではなく、反動的な諸力を肯定へと「価値転換」することが最も重要だと考えている。
反動的な力にみたされ、その否定性を極限まで経験した人間には「反動的な生それ自身を否定しようとする意志」が生まれ、それは「自分自身を能動的に破壊したいという欲望」に変わる。ニーチェは、とりわけ『ツァラトゥストラはこう語った』の中で、このような価値転換のドラマを描いている。そして、この価値転換は、ある円環状の時間(永遠回帰)によって完成されるというのである。
「価値転換」とは、肯定と否定の諸関係をこのように転倒することを意味している。しかし、価値転換が起こるのは、否定的な態度が極限まで達した時である。否定的な態度を否定することで、自ずと能動的な振る舞いへと変わり、肯定へと向かう原動力となるのである。
そして、この「価値転換」というものは、「永遠回帰」において実現されると考えられている。これはニーチェ独自の思想であり、「永遠回帰」は生への強い肯定を基礎づける概念である。永遠回帰の世界では、すべての出来事や経験は、無限に繰り返しされることになる。それは、無限に生起し、回帰し続ける。それは、あらゆることが決定されており、自身で選択したものでさえ、その中にすでに組み込まれているとされる。そのため、永遠という時間を前提とした場合、物質はあらゆる組み合わせで存在することを可能とし、永遠に続くその回帰の世界では、同じ経験を反復しているに過ぎないのである。
永遠回帰として考えられる世界では、あらゆる存在は意味も目的もなく、永遠に繰り返されることになる。それは偶然性の回帰でしかないため、因果的な法則は存在せず、倫理や道徳のような規範すら存在しない。この円環運動をの中で、運命(偶然性の連続としての必然)を肯定することができるか。ニーチェはこのように世界を肯定する態度を「運命愛」と呼んでいるが、それが「価値転換」を可能にするということである。
生の欲望を否定すべきか、肯定すべきか
「生の欲望」を肯定すべきか、否か。結論としては、肯定することが重要だと断言できる。「価値転換=肯定」に至るまでの道のりはとても険しいものだが、そのプロセスはとても重要であり、人格を形成するために必要なのである。
永遠回帰の世界では、肯定するか、否定すべきかという選択的な問題が重要と考えられている。肯定を選択するという行為が、新たな価値を想像するという力を私たちに与えることになるのである。それは、神経症者についても同様である。精神科医の岩井寛は、その点について、以下のように説明している。
不安であるから症状をにして神経質の世界に埋没していたいという欲望と、不安があってもより人間的な意味を求めて自己実現をしたいという欲望と、二つの欲望の方向が存在する。つまりそのどちらかを選ぶのは彼自身であり、彼は選ぶ自由を所有しているといえるのである。ここでは彼は、神経質者としての選択を行なっているのではなく、一個の自己確立のできた日常人として選択の自由を行使しようとしているのである。
欲望を肯定し続けることは、苦悩がつきまとう。「とらわれ」から抜け出すことは可能であるが、この世界にはいつ何時でも「とらわれ」に陥る可能性はいくらでも存在する。ショーペンハウアーのように、否定という選択を行使しかねない場合もあるかと思う。しかし、そのような経験があるからこそ、価値転換を可能にするのである。岩井寛は次のように説明している。
神経症的体験は、必ずしも人間にとってマイナスとなるものではない。苦悩・葛藤を通してその人間を深め、視野を広げ、より豊かな自由を目指す人間形成に役立つともいえるのである。すなわち、神経質の治療は、とらわれからの解放から出発して、人間としての自由へと向かう一連の過程であると考えてもよいのである。
それは「価値転換」への具体的なプロセスを示していると思う。ニーチェの議論はやや抽象的であるが、岩井寛の説明では、症状をあるがままに受け入れ、目的本位に行動するまでのプロセスを提示している。双方の考えでは、苦悩というものは少なからず症状として仕方のないものであるが、苦悩にとわられるのではなく、苦悩から脱するために、現実を受け入れ肯定していく必要があるのである。
そのために必要なのが理念ではないだろうか。それは自己を規定するという側面もあるが、自己を目的に向かって方向づける何かである。冒頭で、よりよく生きるためにはどうすべきかと書いた。それは、本論を展開していくためにとても重要だと思うからだ。自己否定に陥るのは、個人の自由(=個人の選択)だから仕方ないことだが、私のように苦悩から抜け出したいと考えるなら、少なからず、自己を基礎づけ、方向づける指針は必要だと思われる。