東シナ海流67 春の嵐 | 野人エッセイす

野人エッセイす

森羅万象から見つめた食の本質とは

屋久島一湊港にあるヤマハ基地からトカラ列島諏訪之瀬島までテスト航海の日が来た。

諏訪之瀬島まで物資を運ぶのが主目的だが、片道6時間、往復12時間の日帰り航海で、船長は野人、クルーは最も熟練した50代の船乗りが付いた。

 

朝凪は舵輪の前に座席がなく立ったまま操船、長距離航海は1時間おきの操船交代が必要になる。

操舵室の上、アッパーブリッジでも操舵出来るが、上から海底を見渡せるよう瀬渡し時か凪の航海に使い、嵐では重心が上がり危険で使えない。

 

彼は地元一湊の生まれで長い間貨物船の甲板長(ボースン)を務めた後にヤマハ基地所属の船員になったが、船の維持修理からロープやワイヤーの編み方から機関整備まで詳しく、鬼ボースンの異名が付いていた。

新米の教育・特訓・シゴキ係りも兼ね、十代のまむし兄弟はいつも怒鳴り飛ばされていた。

 

部外者であり臨時船長の野人に対しては遠慮もあってかそこまでではないが上から目線に変わりなく、航路や海況や海図、操船技術の基本まで教え込もうとしていた。

野人はまだ入社2年目の25歳、親子ほど年の差があるから当然だろうな。

礒渡しの操船技術はあるが、船乗りとしてはこの大先輩とはキャリアが違う。

 

1年間トカラ列島の真ん中の諏訪之瀬島に駐在、島の周囲は潜水調査で海底まで熟知したが、屋久島からは走ったことがない。

この船の操船も含めて海況に慣れないことには客は運べない。

 

天気図を調べて出航日が決まり問題ないはずだった。

しかし、想像を超えるのが春の嵐であり、海況は一変、台風並みに時化ることも多い。

運悪く朝凪は長距離初航海でこの春の嵐に直面した。

 

早朝出航して昼前から突風が吹き始め穏やかな海は時化始めた。

急いで諏訪之瀬島で積み荷を降ろして給油、屋久島に向けて出航したが1時間もしないうちに波高が3mを超えた。

ボースンは新米には任せられないと踏ん張って操舵していた。

体はガッシリしているが背は低く、船が大きく傾くたびに舵にぶら下がるように左右に振られ始めた。

 

風速は10m近く、波高が4m近い大波になると上り下りが激しくなり、舵取りを間違えれば転覆の危機に陥った。

航行半ばで屋久島までは巡航速度で3時間だが、これでは6時間以上かかかるだろう。

 

夕刻までに帰港出来なければ夜間航海になり、視界が悪く波がしらも見えずさらに危険度は増す。

船舶には車のように常時前方を照らすライトは設置出来ない。

大波を遮る陸地などないのだから一湊入港の寸前まで事態はさらに悪化、風速は10mを超えて波高はさらに高くなるはず。

 

ボースンは大汗をかきながら懸命に転舵していたが30度近く船が傾くと吹き流しのように舵にぶら下がっているのが精一杯。

この復元力が最悪の船ではもう限界、踏ん張れずに舵で波に対処出来なければ終わりだ。

大揺れの船内でも野人の食欲は落ちず煙草も吸う。

事態に備えて長期戦の体力を保つ事は不可欠だ。

 

波に突っ込む船のブリッジは屋根からかぶる大量の海水で水を振り切る旋回窓も役に立たず、時折前方の白い波頭が見える程度、まるで潜水艦のようだった。

これでは鬼軍曹は危険な巨大波を見逃すだけでなく対応も不可能。

 

対応出来ず大波に押され、船が限界まで大きく傾いた。

その瞬間に舷側は海面下に入り、大量の海水が流れ込み排水が追い付かずしばらく復元出来ず危なかった。

体制が整わないまま次の大波を食らえば転覆する。

 

交代の潮時と判断、声をかけようとしたらボースンが振り向いて言った。

 

「もう・・もう駄目だあ~・・」

 

踏ん張る脚力もぶらさがる腕力も尽き果て、この一撃で心も折れたのだろう。

いつもの鋭い目ではなく、眼光は弱々しく絶望に変わっていた。

 

背後の壁に寄りかかるように座ってリンゴをかじっていた野人は

 

「これから先は俺がやる」

 

 

 

諏訪之瀬島の磯 絶壁

 

 

 

 

続き読みたい人 クリックビックリマーク

          ダウン

にほんブログ村 健康ブログ 食育・食生活へ
にほんブログ村

 

にほんブログ村 健康ブログへ

にほんブログ