定義がない「自然」と自然食品の判断 | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

昨日の記事は理解への近道「学び方の姿勢」について。

生命の仕組みが理解出来なければ農法も植物も生態系も体調復元法も理解出来ない。

心地よい言葉を幾つ並べようが理解とは程遠い。

 

身近な言葉でよく使われるのは「自然」

食品はじめ、療法、農法、治癒力・・多様な冠に使われている。

 

この「自然」という言葉を判断の指標にしている人は相当数いるのではなかろうか。

定義も道理も定かではない、いやまったくないのだが、何故これが判断の指標になるのか・・・

誰でも自由に使えるのだからトランプの大統領のジョーカーのようなものだな。

 

現実の出来事はすべて道理がある。

自然界の動植物、生命の学問はそれが欠如、学問の盲点・歪と言える。

 

 

「自然」と名の付くものほど不確かなものはない

     2020年8月

「自然」と言う言葉には定まった定義、物理的な道理がまったく存在しない。

自然界の法則に沿っているか判断出来る人も当然いない。

つまり、自分の思いだけで自由に使えるのがこの言葉であり、それぞれ解釈も異なる人間用語と判断すればよい。

万物は食べ物であろうが毒物であろうがすべて自然界の産物であり天然。 塩は天然であり元は海水が当たり前。

岩塩も同じだが、海水と同じミネラルバランスを持つ岩塩など存在しないしその理由も簡単。

有機農・オーガニックと言っても広い意味では自然界はすべてオーガニック。

違いは、有機肥料は人間の道理であり、自然界は自然界の道理で循環、内容は全く自然界とは異なるが、自然農も有機農も混同している。

どのような理由でそれに自然が付くのか、道理をはっきりさせて判断すべきなのだが、基盤になる原理を持たなければそれも出来ない。 出来ないから自然と言う冠言葉が氾濫してしまう。

商品などに自然を付けて広める方にも問題があるが、それを鵜呑みにして使う、あるいは実践する方にも問題がある。

自然と言う言葉の冠は、その物の品質、本質とは何ら関係がなく、農法などにおいても同じで、法則がないのだから好きなようにやっても間違いではないと言うことになる。

素晴らしく見せるバブルのようなものであり中身の判断の指標にはならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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