必要と不要の判断は個々異なる。
小さなことから大きなことまで、この相反する選択は付きまとう。
異なれば場合によっては争いの元になり、生命にも影響を及ぼす。
国家の選択、予算編成、会社の会議、日々の暮らし・・
この中で個々自由に決められるのが身の回りのことであり、生命に影響を及ぼす代表が食生活、食の選択だろう。
必要な栄養分、ミネラル、野菜量、繊維質、酵素。
不要な毒素、活性酸素、農薬、添加物、塩分、脂肪、糖分。
絶賛食品、健康食品、推奨食材、敬遠成分など数えきれず食事法のスタイルも多様。
世界中で情報を共有、書籍、メディア、ネットでも論争は続いている。
神様のように崇拝されるものもあれば、魔女や魔物のように忌み嫌われるものもある。
こうなればもうわけがわからない「食ッキングバトル」だ。
どれも決定的結果が出ないのなら一掃すればよいのだ。
必要も不要も、良いも悪いも、どれも関係がないと。
それが必然的な選択だと野人は思うのだが、なかなかそうはならない。
食べることは動物にとって基本的な事。
その基本的なことが何故このように複雑で支離滅裂なのか。
個人の見解でこれほどの差が出るのか。
自分の食べ物がわからない動物など地球上にはいない。
教わらずともわかるのが当たり前なのだが。
わからないならあらためて、何故人類だけがこのような状況に陥ったのか、その原因を考え、明確な答を出せば良い。
争い議論するよりもそのほうが早い。
難しく考えず、本能のまま好きなものを食べ、それで不調になるならその食べ物が正常ではないと言うことであり、「本来の野生と何処が違うか」考えて修正すれば済むこと。
人類は穀物野菜がない時代から肉と木の実中心に何万年も、氷河期さえも生き延びたのだから、それだけで健全に生きられるはず。
それが出来ないのなら、その肉と果物が正常ではない。
確かめるには野生の肉果実と食べ比べればわかること。
学問や研究室など必要ない。原因は飼料と肥料しかないのだから。
何故こんなことで多様な病不調に苦しまなければならないのか。
他の動物のように健全に寿命を全う出来ないのか。
食は最も重要な生命線ではないか。
このような馬鹿げたことは人にも社会にも教わらず、参考にする気もなく幼少より自分の判断で食べ続けたお野人、余計なことだと思うが言わせてもらった。
必要か不要か、特に本能に密着した食べ物において社会に判断を託すのは他力本願だろう。
本来なら勉強する必要などないものであり、それくらい単純で簡単なこと。 協生理論は間違った生命の常識、食の常識を覆す為に作った。
周囲にある自然界をよく見ればわかるはず。
主食副食とも見た目は同じでも自然界とは異なるものを食べている。
気付かないのは思考の起点が人間の道理・学問にあり、「学び方」の間違いが原因。 健康は考えずとも得られるもののはず。
本能ではなく頭で考え過ぎ、間違えて不健康になったのが人間だ。
成分効能を考えながら食べる生き物など地球上には他にいない。
膨大な食の理論は書いたが、そんなこと考えながら食べたことは幼少より一度もなく、よく噛んで食べたこともない。
牡蠣スモークの おむ~レツ
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