野人は九州で梅の木に囲まれて育った。物心ついた時に最初に嗅いだ花の香りは梅だった。庭には胴回りよりも太い梅の大木が二本あって相当上まで登れた。他には大きなイチヂクが二本、ザクロは5本くらいあり、時季になれば鈴なりだった。だから食べ慣れた果物はザクロとイチジクなのだ。鶏小屋には7羽くらいいたように思う。毎朝卵をかすめ盗り、葉っぱを刻んでエサも作った。比較的大きな池には金魚がいたが、やがて野人が捕って来たフナや鯉やドジョウやウナギで埋まり、いつの間にか食用池になってしまったのだ。家の横には防火用の大きな池があり、その池に向かって梅の木が張り出していた。その池には鯉やフナやうなぎがウジャウジャいた。いつも梅の木のテッペンまで登っていたので木登りは得意だ。保育園の頃だったか、張り出した枝の上から釣り糸を垂らし、フナを釣っていたのだが、足を滑らせて池に落ちた。サルだって木から落ちる。水深はかろうじて大人の背が届くくらいだ。泳げないので当然野人は沈む。そのまま溺死していたはずなのだが、偶然近くの道を通りがかった人が沈んでいる野人を見つけた。その人が言うには「池の底で子供が笑いながら手を振っていた」と言うのだ。記憶はないが、いくら野人でも苦しいのにそんなことするわけがなく気絶していたはずだ。それに道からは5mも離れているし藻も多い。とにかく助かったのだからそれはまあ良い。4回乗った救急車の第一回目だ。それからも母親が止めるのも聞かず相変わらず梅の枝に登ってフナを釣っていた。それくらいフナが大好物だった。だから小学校の唱歌でも「ウサギ美味し照り焼き~!コブナ釣りし味噌汁~~!」と必ず歌うたびに女の先生に叱られていた。野うさぎも猟師によくもらって食べていたのだ。毎年二月になると家中が梅の香りに包まれ心地良かった。それでも飽き足らず毎日木に登り梅の花に埋もれて陶酔していた、遊びに行く時も梅の小枝を腰に差していたようだ。鼻の穴一杯に梅の花を詰め込み、口で息をしながら上を向いて歩いていたら「バカな真似は止めなさい!車にぶつかるでしょ!」と叱られていた。その頃から野人はアロマテラピーを先取りしていた。甘酸っぱく熟した梅が旨そうに見えてかじってしまい腹痛も起こした。小さい頃にインプットされた心地良い香りは今も生きている。好きな花の香りは迷わず梅の花をあげるし、見て癒されるのも梅だ。次が山に咲く山桜だろう。校庭の桜は好きではなかった。赤い葉と同時に咲いて山をピンクに染める山桜がいい。梅に囲まれた家で最初に覚えた鳥はニワトリだったが、二番目が梅の小枝のウグイスで、スズメは三番目だった。ウグイスだけはどうしても食べる気にはなれなかった。お友達なのだ。