そして、今日はことに一番さい文末もんまつ

もしくはばんみんひゃくしょうあわれみてこくしゅこくさいとくせいおこなう。
 しかりといえどただかんたんくだくのみにしていよいよえきせまり」

とのこの文について申しべたいとおもっております。
 この『りっしょうあんこくろん』を奏進そうしんされたほうじょうときよりというのはせいとしてはなかなかの人物だったんですね。
 せい的な実力もあるし、何よりもろう人でありまするからまことにこくみんろうということを非常に察する力がつよかった。
 のうたいようきょくの世界でもって「鉢木はちのき」というのが今だに残っておりまするが、そういういつが残っております。
 これは、ほうじょうときよりが(しゅっしてさいみょうときよりとなってからでありまするが)諸国を回ってはたみの苦しみをつぶさに自分でもって聞いて、そして「何とかして善政ぜんせいを引かなければ」ということつねに心がけておった。
 ですから、だいしょうにんさまはこのほうじょうときよりに対してはその人物じんぶつ執権しっけんということをあるていひょうしておられましたね。
 そして「この者は憎んでざいをしたのではない」ということを分かっておられた。
 そしてその息子のほうじょうときむねだいしょうにんを憎んでざいしたのではない。
 みんな讒言ざんげんを知らずして、そのことを信じて自分がやってしまった。
 そして、それが讒言ざんげんと分かった時にはただちに許した。
 これをだいしょうにんさまが御書の中におおせになっておられまするが、このようなほうじょうときよりでありまするから、このさいなんを見ては『何とかしたい』とおもってせい最善さいぜんを尽くしたわけなんですね。
 しかし「どれほどせい最善さいぜんを尽くそうとも、正しい仏法ぶっぽうを立てなければその善政ぜんせいすべむなしくなる」ということだいしょうにんさまはここにおおせになっておられる。
 ですから、ものごとにはその原因げんいん根本こんぽん原因げんいんひょうめん原因げんいんとがあるんですよね。
 例えば、のうさくもつを作るということでも、のうぎょうじゅつ最善さいぜんを尽くすというのはこれはひょうめんじゅつまっとうすることなんです。
 ところが、太陽たいようの恵みがなければ、どれほどのうぎょうじゅつ最善さいぜんを尽くしたとしてものうさくもつは取れないということなんです。
 あるいは、人間にんげん関係かんけいにおきましても「どうも自分は人間にんげん関係かんけいがうまくいかない。どうしたら」ということで人と付き合うじゅつとかそんなことをいくら習おうとしてもそんなことひょうめんの因果にぎない。
 根本こんぽんは人の心なんです。自分の心の中にほとけさまが宿れば自然と人間にんげん関係かんけいはうまくいく。親子でも夫婦でもすべて自然と人間にんげん関係かんけいがうまくいく。
 これを、だいしょうにんさまはこの根本こんぽんの方策をきょうまさへいほうなし」とお教え下されたわけなのであります。
 そこで、せいにおいても、せい政策せいさく最善さいぜんを尽くしても、正しい仏法ぶっぽうを立てなければ根本こんぽん原因げんいんが解決されないからこくさいなんは続くということなのであります。
 これがこくしゅこくさいとくせいおこなう。しかりといえどただかんたんくだくのみにして」おおせになられたいちぎょうであります。


平成26年 7月8日 浅井先生指導