いけだいさくにっけんを猊座から引きずり下ろそうとして「にっけんそうじょうを受けていない」等反日顕の「憂宗ゆうしゅうほうどうめい」と名乗るそうりょグループに一冊の本を書かせて公表させました。
 一方、にっけんはこれに対抗するために稀代のペテン師であるやまざきまさともを利用せんとした。
 やまざきまさともという男はがっかいの副理事長であり顧問べんでもあった。
 しかし、昭和49年の妙信講解散かいさん処分しょぶんの時にその問題を機としてしゅうもんとも関わりを持ったんですね。
 以来、ほそにったつの軍師気取りになって、がっかいしゅうもん双方ににせ情報を流しては両者の争いをあおるということをしたんです。
 そしてその中でほそにったつを騙して19万坪の土地を売らせて、その不動産業者から4億5千万円のバックマージンを受けた。
 これくらいやまざきまさともは信用があったんです。まことに、好機にけたペテン師ですね。
 当時がっかいに内通していたにっけんやまざきまさとものやっていることをよーく知っておった。
 ゆえに、登座直後の昭和54年9月にはしゅうもんに取りらんとするやまざきまさともに対して「あなたは噓つきだ」とめんして、本山の出入りまで禁止したんです。
 これを聞いてやまざきまさとも激昂げきこうしたんですね。
 そして、当時妙縁寺のしつで対妙信講対策で一体となっていた浜中はまなかどうに電話でこうっているんです。
 「あの野郎、昨日ったこと絶対ぜったいに死ぬまで忘れないように必ずぶち殺してやる。絶対ぜったいに仕返しする」ということっている。
 このこと浜中はまなかどうの回想録にハッキリとめられております。
 そして、翌昭和55年から56年にかけて週刊文春に幾度いくたびも手記を寄せては「にっけんそうじょうを受けていない」とあばき続けたんです。
 やまざきまさともほそにったつが体調を崩してからはせい路加ろかこくさい病院びょういん日野ひのはら重明しげあき院長いんちょうに主治医を依頼して、自分自身も側を離れなかった。
 よって、にっけんへのそうじょうを否定した彼の週刊文春の手記には説得力せっとくりょくがあった。
 ところが、このやまざきまさともに対してにっけんは平成3年1月5日に部下のふくどうというそうりょを通して「あの時は嘘つきとって悪かった。勘弁かんべんしてください」という伝言を届けさせているんですね。
 詐称法主の疑惑はにっけんにとっては命取りとなる。
 そこで、何とかやまざきまさとも籠絡ろうらくしてそうじょうがあったことしょうしてもらおうという魂胆こんたんがあったからであります。
 当時のやまざきまさともがっかいに対する3億円の恐喝きょうかつけんで最高裁から懲役3年の実刑じっけい判決はんけつが下る寸前だったんです。
 このような犯罪者ににっけんは「あの時は噓つきとって悪かった。勘弁かんべんしてください」とびを入れているんですね。
 その翌月に恐喝きょうかつけん判決はんけつが下ってやまざきまさともは刑務所に収監された。そして、2年数ヶ月を経て出所しゅっしょいたしました。
 その直後からやまざきまさともにっけんてて謀略ぼうりゃく書簡しょかんを4通も送っております。
 長々しい下手な字でもって書いているんですが、その直筆の謀略ぼうりゃく書簡しょかんも今出てきましたね。
 このやまざきまさともに対し、平成6年5月ににっけん直属の謀略ぼうりゃく部隊である妙観講講頭のおおぐさかずが会いに行って、そしてこうべているんです。
 「げいそうじょうちがいがないことを理解し、その上で、もう一度日蓮にちれん正宗しょうしゅうの信仰に戻るべきではないか」とこうやまざきまさともに勧めたというんです。
 かくて、同年12月、やまざきまさともおおぐさかず及び本山境坊きょうぼう住職じゅうしょくで妙観講のどう教師であるがわどうに伴われて大石寺に行き、にっけんに詫び状を提出してしゅうもんに復帰することを許されたんです。
 そして、本山境坊きょうぼう所属の妙観講員となったというわけであります。
 翌平成7年2月16日、やまざきまさともおおぐさかずが発行する謀略ぼうりゃく新聞『みょう』に『私がそうじょう拝診はいしんするに至るまで』と題する一文を寄せて、何の証拠も示す事無くあたかもにっけんそうじょうを受けたごとくの偽証をした。
 まさに、にっけんはこのだいのペテン師に自分のそうじょうを偽証してもらったわけであります。
 そして、これよりにっけんやまざきまさともおおぐさかずという三悪人が一体となって本格的な反がっかい闘争を始めたんですね。
 ついでにっておきまするが、おおぐさかずという男はやまざきまさともに勝るとも劣らぬ嘘を平気でつく大ペテン師です。その経歴を簡単にいます。
 最初はがっかい員だったががっかいを脱会して法道院法華講に潜り込み、やがてその中でもってグループを作って法道院を離脱して総本山のほそにったつった。
 その時に何とったかというと「法道院は早瀬道応どうおう主監

(しゅかん)

を重んじてげいを軽んじている」というようなことって『離籍の真相』と題する本を書いたんです。その中にこう書いているんです。
 「現御法主日達上人しょうにんげいは今の全世界にただ一人我らが主師親であり現世における日蓮にちれんだい聖人しょうにんさまと拝したてまつるべきお方なのである」などということ麗々れいれいしく書いているんです。
 このようにへつらおもねほそにったつの心を取り、本山境坊きょうぼう所属の妙観講を作った。それが、昭和53年1月ですね。
 その翌年にほそにったつが急死をしてにっけんが登座した。
 すると、おおぐさかずは今度はにっけんって、ほそにったつの時は反がっかいだったのに一転して手のひらを返してがっかいを擁護するようになった。
 そして曰く「正本堂しょうほんどう大前机おおまえづくえに刻まれたたいレリーフはいけだいさくではない」というようなことを書いて、また、正本堂しょうほんどう完工式に招いたキリスト教神父については「かれらはほうふくを着ていない。ゆえに、神父を招待したことにはならない」などと否定している。
 まさに、おおぐさかずという男は時のかんってはその権威を傘に着てその謀略ぼうりゃく部隊となってしゅうもんに食い入っておのれの利権・覇権を拡大せんとした狡猾こうかつなペテン師、まさに寄生虫というべきであります。
 さて、やまざきまさともにっけんと手を組んでからがっかいに反感を抱く全日本仏教会(これは既成宗教ですね)とか霊友会・立正佼成会等の新興宗教等の邪宗、さらには自民党を始めとする政党にも働きかけ(当時「四月会」という自民党のグループがおりましたが)それらの集会に講演をして反がっかいの共闘をけたんです。


令和元年 8月27日 8月度 総幹部会 浅井先生指導