今このおおせの中にしばらくもほんぞんしんじて」とある。
 このしばらく」ということ「たとえ理解はなくとも、わずかな信心しんじんでも、ただいちねんしんでもってどくがある」ということなんですね。
 たとえ難しいことは何も分からなくても「有難ありがたい」とのいちねんさえあるならば成仏じょうぶつが叶う。
 これほんぞんさまに偉大な仏力ぶつりき法力ほうりきがましますゆえであります。
 顕正会の中でよーく聞きますね。自分の父親をしゃくぶくして反発しておったが、最後りんじゅうの直前に信心しんじんを起こして手を合わせて南無なむ妙法みょうほうれんきょうと唱えたらその父のりんじゅうの相が良くなった。これらの体験を聞く度に私は「有難ありがたい」と感じます。
 わずかな信心しんじんでもって成仏じょうぶつを遂げさせてくださるのは実にこのほんぞんさまりょうへんどくがましますからであります。仏力ぶつりき法力ほうりき有難ありがたさですね。何とも有難ありがたほんぞんさまどくであります。
 そして、だい聖人しょうにんさまは『観心かんじんのほんぞんしょう』の末文にこうおおせになっておられる。

 「いちねんざんぜんらざるものにはほとけだいこし、うちたまつつみ、まつだいようくびけさしめたまう」

 このもんの意は「末法の三毒強盛の荒凡夫は、おんがんじょじゅ用身ゆうじんたる日蓮にちれんだい聖人しょうにんの御当体がそのままいちねんさんぜんであるという生命の極理を知らない。
 よって、ほんぞんに迷い、成仏じょうぶつも叶わないのである。
 ここに、日蓮にちれんだい聖人しょうにんさまだいを起こされて、南無なむ妙法みょうほうれんきょうほんぞんだい聖人しょうにんの御当体そくいちねんさんぜん相貌そうみょうけんあそばされ、末代まつだいようくびにかけさせてくださった」
ということであります。
 日寛にっかん上人しょうにんは『観心かんじんのほんぞんしょうもんだん』の最後に次のごとくなんくだされている。

 「われほんぞん信受しんじゅして南無なむ妙法みょうほうれんきょうとなたてまつれば、そくいちねんさんぜんほんぞんれんしょうにんなり。
 『ようくびけさしむ』とのこころまさしく此処ここり。
 ゆえに、ただ仏力ぶつりき法力ほうりきあおぎ、まさ信力しんりき行力ぎょうりきはげむべし。
 いっしょうむなしくごして万劫ばんこうゆることなかれ」

おおせになっておられる。
 このもんの中のそくいちねんさんぜんほんぞんれんしょうにんなり」とまことに恐れ多くてことも出ないほど有難ありがたい。
 我ら凡夫がほんぞんしんじて南無なむ妙法みょうほうれんきょうと唱えれば、我が身が即いちねんさんぜんと同じになり、日蓮にちれんだい聖人しょうにんと同じになる。何とも凄い。
 これは私達がほんぞん仏力ぶつりきによって自然とほんぞんさま日蓮にちれんだい聖人しょうにんと一体とならせていただける。即身成仏じょうぶつさせていただけるということなのであります。
 ゆえに私達は、このほんぞん仏力ぶつりき法力ほうりきを仰いでしっかりと勤行ごんぎょうに励まなければいけない。
 もし一生いっしょうを虚しく過ごして一度人身じんしんうしなうならばふたたび人間に生まれることはない。
 日寛にっかん上人しょうにんは「万劫を経るとも人と生まれることは難しい」とおおせられる。
 よって、しっかりと勤行ごんぎょうと随力づうに励み、何としてもこの一生いっしょうのうちに成仏じょうぶつをさせていただかなければならない。さもなければ万劫に悔いを残すんです。死んでから「しまった」といってももう遅いのであります。


令和元年 8月27日 8月度 総幹部会 浅井先生指導