この遺命ゆいめい違背を眼前にして私は『もしこれを見て黙っていたならばだい聖人しょうにんさまに対したてまつる最大のちゅうになる』おもい定めてかんぎょうに立ち上がりました。
 その後、ほそにったつ管長かんちょうは私と会えば胸の奥にある本心を吐露とろし、いけだいさくと会えばまたそのたばかりにくみするというまことにせっそうな態度を繰り返しました。
 このほそにったつに対しいけだいさくは2つのタガをはめた。
 その1つが、昭和45年5月3日の第33回がっかい本部総会におけるこくりつ戒壇かいだん永久放棄せんげんですね。
 もう1つはその2年後に発布されたくんにおける「正本堂しょうほんどう広宣こうせん流布るふあかつきほんもん戒壇かいだんたるべき大殿堂だいでんどうなり」とこうせんげんしたことであります。
 この2つのせんげん日蓮にちれん正宗しょうしゅう管長かんちょうとして内外に公式に表明したものであれば、二度と変更することは許されない。これが2つのタガなんですね。
 ところが、正本堂しょうほんどう落成後からほそにったついけだいさくの間にしんあんが生じてれつが生じてきたんです。
 私は不思議ふしぎおもっておりまするが、顕正会員がかんぎょうに立つとその時必ずほそにったつの時もにっけんの時もそれまでの癒着が嘘のように消えて亀裂が生じ、抗争が始まっていくのであります。
 これまさしくだい聖人しょうにんさまの厳たるこころであられると私は拝しております。
 ほそにったついけだいさくの抗争が始まると、兼ねてからのいけだいさく謗法ほうぼうを見てこれをいきどおる二百余名のかつどうそうりょたちが一斉にほそにったつの下に結集して「がっかいしゅうもんはこの際手を切るべし」とせいを上げたんです。このかつどうそうりょたちが後の正信会ですね。
 このかつどうそうりょたちはやがて代が変わってにっけんの代となり、いけだいさくと手を組んだにっけんによって全員が首を切られてしゅうもんついほうとなっているんです。
 そして、この大抗争の中にほそにったつは昭和54年7月27日に心臓発作でもって急死を遂げた。
 それは、だいそうじょうずの急死でありました。
 しかし、先般も申しべたごとくにいかなることがあってもしゅ仏法ぶっぽう血脈けちみゃくは断絶するものではないんですね。
 このように、途中でもってそうじょうないかんが出たとしても、それでしゅ仏法ぶっぽう血脈けちみゃくが断絶するなんてこと絶対ぜったいにありない。
 もしこくりつ戒壇かいだん遺命ゆいめいを堅持あそばすかん上人しょうにんが御出現になればたちまちその時に血脈けちみゃくよみがえる。それまで空位が続くというだけのことですね。
 しかし、この空位ということ仏法ぶっぽうたいけんかげであれば、日本のこっにおいては重要な問題をもたらすんです。それはこれから出てくるから見ててください。
 さて、にっけんしゅうもんがっかいが激しく争っていた時、一人ほそにったつの目を盗んでいけだいさく内通ないつうしておりました。
 そして、ほそにったつの急死を見るやいけだいさくと相計って自己申告をもって法主の座を簒奪さんだついたしました。
 以後平成2年までの11年間にっけんいけだいさくまったく心を合わせてほんもん改称かいしょう陰謀いんぼうを平成2年10月に実現すべくにんさんきゃくで突き進んだんですね。
 平成2年4月、顕正会のづうはついに二十万に達した。
 私はこのしんほうを背景として『正本堂しょうほんどうの誑惑をし、懺悔清算をもとむ』と題する一書をしたためにっけんいけだいさくに送付いたしました。
 この書の内容は、にっけんがかつていけだいさくへつらって書いた『こくりつ戒壇かいだんろんあやまりについて』と『ほんもん戒壇かいだんの本義』という2冊の悪書の邪義を粉砕ふんさいした上で「早くにせ戒壇かいだん正本堂しょうほんどうを撤去せよ。そして、ほんもん改称かいしょうなどは断じて許さない」ということを強くせまいさめたものであります。
 このかんぎょうしょにっけんはいえぐり、心に怖畏ふいを生ぜしめた。
 平成2年10月12日、いよいよ大石寺開創七百年記念法要ほうようが行われました。
 兼ねての企みのごとくならば、この席上でほんもん改称かいしょうせんげんにっけんから成されるはずであった。
 しかし、にっけんえて「ほんもんの寺号公称は広宣こうせん流布るふの未来にある」とこういうことべたんですね。いけだいさくの見ている前でった。
 にっけんの裏切りを眼前にしたいけだいさくは激怒し、これより、ほそにったつとの抗争を上回る凄絶せいぜつにして醜悪しゅうあくなるしゅ悪竜あくりゅう合戦かっせんが始まったのであります。


令和元年 8月27日 8月度 総幹部会 浅井先生指導