今日の総幹そうかんかい純粋じゅんすい信心しんじん大情熱だいじょうねつがあふれてすごいですね。私は大感動だいかんどういたしました。
 そして、この8月は顕正会の原点げんてんの月であります。
 顕正会が広宣こうせん流布るふを見つめて380名で発足ほっそくしたのが昭和32年の8月、そして、遺命ゆいめいしゅたてまつったゆえに死罪に等しい解散かいさん処分しょぶんを受けたのも昭和49年の8月でありました。
 しかし、解散かいさん処分しょぶんを受けても潰れず、当時わずか1万2千だった顕正会は今210万を超え、高々と一国にこくりつ戒壇かいだんしょうと立正安国をかかげて日本国を独走どくそうしております。
 この不思議ふしぎ、ただだい聖人しょうにんさましゅ以外にはないと私は深く拝しております。
 私はこの8月にあらためて心を静めてだい聖人しょうにんさまが「当身とうしんだい」「身に当たるだい」とおおせあそばした『かんじんのほんぞんしょう』を拝読いたしました。
 この拝読に当たってまず序分じょぶんとして寿量品じゅりょうほん一品いっぽんはんを読んで、次にいよいよだい聖人しょうにん当身とうしんだいたる『かんじんのほんぞんしょう』を拝読し、さらに、日寛にっかん上人しょうにんの『かんじんのほんぞんしょうもんだん』上下二巻を拝読いたしました。。
 日寛にっかん上人しょうにんせいを極めたなんにより『かんじんのほんぞんしょう』の大意を瞭然りょうねんとして拝したてまつるのおもいがいたしました。
 日寛にっかん上人しょうにんはこの『かんじんのほんぞんしょう』の題号だいごうの意を次のようにおおせになっておられる。

 「にょらいのめつ後五ごご百歳ひゃくさいじょうぎょうさつはじめてひろかんじんのほんぞんしょう

とこうなんくだされております。
 これを端的に分かりやすくべさせていただけばこういうことですね。
 「末法の始めの五百年におんがんじょじゅ用身ゆうじんたる日蓮にちれんだい聖人しょうにんが御出現あそばし、始めて弘め給う全人類成仏じょうぶつのためのほんもん戒壇かいだんだいほんぞんしょということであります。
 まさしく、当抄とうしょうこそほんもん戒壇かいだんだいほんぞんしょなんですね。
 この『かんじんのほんぞんしょう』を著わし始めたのは文永10年でしょう。
 『かんじんのほんぞんしょう』は弘安2年のしょでありまするから、すなわち、数年前にだい聖人しょうにんさまほんもん戒壇かいだんだいほんぞんがこの国にこんりゅうされるということを顕わされたしょが『かんじんのほんぞんしょう』であります。
 ゆえに、本文ほんぶんの中にこうおおせになっておられる。

 「ときせんがいしゅつげんしてほんもんしゃくそん教主きょうしゅ一閻いちえんだいだいいちほんぞんくにし」

 「この国に間もなく一閻いちえんだい第一の戒壇かいだんだいほんぞんさまこんりゅうされる」という御予言をあそばしたしょであります。
 「ときというおことは「こくしんぴつがその色を増す時」ということですね。
 弘安二年になると、まさにこくしんぴつが眼前となってきた。
 その時にだい聖人しょうにんさま一閻いちえんだい第一のほんぞん、すなわち、ほんもん戒壇かいだんだいほんぞんさまこんりゅうするということの御予言が今のもんの意味であります。
 そして日寛にっかん上人しょうにんはこのほんぞんさまについて

すなわれんしゅっほんがいほんもんさんだいほうずいいちまっぽうしゅしょうたい行人ぎょうにん所修しょしゅうめいきょうなり」

おおせになっておられる。
 すなわちほんぞんさまは、日蓮にちれんだい聖人しょうにんしゅっほんがいにして我等仏弟子にとっては信行したてまつるところのめいきょう(明らかなるかがみ)である」おおせになっておられる。

 「ゆえしゅういわく『しょ日蓮にちれんあたいちだいなり』とらうんぬん

とこう日寛にっかん上人しょうにんおおせられておられるのであります。
 さらに、日寛にっかん上人しょうにん戒壇かいだんだいほんぞんどくりょうへんこうだいじんのん妙用みょうゆうがあるわけを次のごとくおおせられている。

 「すなわしょぶつしょきょう能生のうしょうこんげんにしてしょぶつしょきょうしゅせらるるところなり。
 ゆえに、十方じゅっぽうさん恒沙ごうじゃしょぶつどく十方じゅっぽうさんじん経々きょうぎょうどくみなことごとくこのもんていしゅほんぞんせざるなし、たとえばひゃくせんようおなじく一根いっこんおもむくがごとし。
 いちねんさんぜんほうもんただきょうほんもん寿じゅりょうほんもんそこしてしずたまへり。
 ゆえほんぞんどくりょうへんにしてこうだいじんのん妙用みょうゆうあり。
 ゆえしばらくもほんぞんしんじて南無なむ妙法みょうほうれんきょうとなうれば、すなわいのりとしてかなわざるはく、つみとしてめっせざるはく、ふくとしてきたらざるはく、としてあらわれざるはきなり」

」と。  いいですか、この大宇宙にはしゃぶつのように三十二相で身を飾った熟脱の仏というのは星の数ほど、海の砂の数ほど無数に存在しているんです。これを「十方じゅっぽうさん諸仏しょぶつ」という。
 そして、これらの諸仏しょぶつは皆どこから生じたかというとおんがんじょじゅ用身ゆうじん一仏いちぶつ垂迹すいしゃくですね。
 ことごとく、文底もんていしゅほんぞん戒壇かいだんだいほんぞんより出生しゅっしょうしている。ほんぞんしゅとして仏となったのであります。
 ゆえに、さん十方じゅっぽう諸仏しょぶつどく、また、これら諸仏しょぶつが説いた無数の経々きょうぎょうどくも、すべ文底もんていしゅほんぞん、すなわちほんもん戒壇かいだんだいほんぞんさまに帰する。
 その姿はあたかも、大木に百千の枝葉があったとしても、それはことごとく一つの根に収まるのと同じくほんぞんさま一根いっこんから生じ一根いっこんに戻る。戒壇かいだんだいほんぞんさまから生じまた戒壇かいだんだいほんぞんさまちゃくする。
 よって、戒壇かいだんだいほんぞんりょうへん妙用みょうゆうこうだいじんのん妙用みょうゆうがあるということ日寛にっかん上人しょうにんおおくだされている。
 ですから、私達は難しいことは何も分からなくとも、ただ『有難ありがたい』とのれん渇仰かつごうでこのほんぞんしんじて南無なむ妙法みょうほうれんきょうと唱えたてまつるならばいのりとしてかなわざるはく、つみとしてめっせざるはく、ふくとしてきたらざるはく、としてあらわれざるはいとこうおおくださるのであります。何とも有難ありがたことですね。


令和元年 8月27日 8月度 総幹部会 浅井先生指導