だが、いけだいさくはこのていせいをしながら、陰では依然として「正本堂しょうほんどうこそ遺命ゆいめい戒壇かいだんである」ということを集会で強調しておりました。
 これを知った私は『正本堂しょうほんどうに就き池田かいちょうただうったう』との一書をいけだいさくに送付した。これが、昭和46年の11月15日。
 この時いけだいさく狼狽ろうばいして、しゅういんはやにち総監そうかんの下をみずから訪れてぜんさくきょうしております。
 その結果、時のかんの最高指南とされるくんはっする以外に「顕正会を抑える方法はない」ということで昭和47年4月にくんはっされたわけであります。
 そのくんには「正本堂しょうほんどう遺命ゆいめい戒壇かいだんに当たる」ということ曖昧あいまい文言もんごんで記されておりました。
 このくんはっせしめたのはいけだいさくちがいない。
 よって私はただちにいけだいさくに公場対決を申し入れました。
 だが彼は和泉いずみさとるちょう名義で「この対決には応じられません」という署名を送って逃げてしまった。
 同時にいけだいさくは影でしゅういん阿部あべ信雄しんのうきょうがくちょうに『こくりつ戒壇かいだん論の誤りについて』という一書を執筆させておりました。
 この書は『三大さんだい法抄ほうしょう』の聖文せいもんを切り刻んで、一々の文意をげた上でこくりつ戒壇かいだんを誹謗し、正本堂しょうほんどうを「遺命ゆいめい戒壇かいだん」と結論付けた悪書であった。
 だい聖人しょうにん御入滅後七百年、宗の内外を問わずここまで『三大さんだい法抄ほうしょう』をきょくしたというような悪比丘はいまだかつてない。
 阿部あべ信雄しんのうこそまさしくしゅうもんにおけるしんちゅうむしであった。
 いけだいさくはこの悪書を学会がっかい内部に広く配布いたしました。
 私は、この上は、全学会がっかい員に正本堂しょうほんどうのたばかりと遺命ゆいめいしょうを知らせるべく決意し、初めて顕正会の組織を動員して文書を広く配布いたしました。
 すると、ただちにしゅういんから「この文書配布は解散かいさん処分しょぶんに該当するゆえに、宗規の定めるところにより1週間以内にべんを提出せよ」という通告文つうこくぶんが送られてまいりました。
 べんというのはい訳ということですね。
 遺命ゆいめいを守りたてまつる者がどうして仏法ぶっぽうを破壊する悪人にい訳する必要があろうか。
 私は、べんの代わりにしゅういんてて強烈なる諌状かんじょうを書き送った。
 その中で、ことに、阿部あべ信雄しんのうきょうがくちょうだい聖人しょうにんに対したてまつ叛逆はんぎゃくを真っ向から責め、今後の決意をべた。
 これでもう解散かいさん処分しょぶんは必至とおもわれました。
 ところが、おもいもかけぬことが起きた。
 阿部あべ信雄しんのうきょうがくちょうはこの諌状かんじょうを一読するやはやにち総監そうかんと共にほそ日達にったつ管長かんちょうに辞表を提出し、行方をくらませてしまったんです。
 恐らく、だい聖人しょうにんさまに背きたてまつる恐ろしさを彼は全身で感じ、身がすくんでしまったと私はおもっております。
 二人が辞任してしまったのでしゅういんは機能停止におちいった。
 ほそ日達にったつ管長かんちょうみずから事態収拾に動かざるをなかった。
 昭和47年7月6日、ほそ日達にったつ管長かんちょうは東京吾妻橋の妙縁寺に下向して私と対面された。
 その目的は、くんに従うように私を説得するにあったんです。これも、いけだいさくの要請によるものとおもわれた。
 ほそ日達にったつ管長かんちょうはこの日、大変緊張しておりました。いきなりこうったんですね。
 「今日私は死ぬ気で来ている」とこう切り返して興奮の面持ちで繰り返し繰り返し「何とか収めてほしい」と事態の収拾を要請いたしました。
 そして、話がくんに及んだ時に私はくんがいかに遺命ゆいめいに背いているかを静かにゆっくりと、しかし、強く直言ちょくげん申し上げた。
 理に詰まったほそ日達にったつ管長かんちょうは「あのくんにはまずい所がある。実はしゅういんにつけくわえられてしまった」と釈明したんです。
 しゅういんというのは阿部あべ信雄しんのうきょうがくちょう学会がっかいと通じて「これをつけくわえろ」とってくだらない文言を付けくわえた。よってああなってしまったというい訳をいたしました。
 そこで私は「では、ぜひくんていせいしていただきたい」とこうった。
 さぞやいきどおりを示されるとおもったところ案に相違して、しばしじっとかんがえた後に意を決したように「わかりました、ていせいしましょう。しかし、まさか『くんていせいする』とはえないからくんの新しい解釈として内容を打ち消す解釈文をしゅうもん機関誌『大日蓮にちれん』8月号にせます。その原稿は必ず前もって浅井さんに見せますから」とこう約束をいたしました。
 7月19日、ほそ日達にったつ管長かんちょうは約束通りくんていせいぶんを総本山で私に手渡してくれました。これがしゅうもん機関誌に公表されればことは解決する。
 だが、全部私とほそ日達にったつ管長かんちょうとのやり取りを盗聴し、後で山崎正友やまさきまさともがこのじつを伝えました。
 これを知った学会がっかいほそ日達にったつ管長かんちょうを脅して「しゅうもん機関誌にていせいぶんせることは辞めろ」と強要し、ついにほそ日達にったつ管長かんちょうほんさせました。
 8月12日、ほそ日達にったつ管長かんちょうふたたび妙縁寺に下向され、憔悴しょうすい仕切った面持ちで私に告げた。
 「先日の約束は取り消します。もう私にはどうにもならない」とこうった。
 私はもうおどろかなかった。これがしゅうもんの実態だったんです。
 一度遺命ゆいめいを売り渡した以上、学会がっかいが承知するわけもない。
 所詮、遺命ゆいめい破壊の元凶げんきょうたる学会がっかい屈服くっぷくさせ、取り押さえる以外に解決の道はない。
 私はほそ日達にったつ管長かんちょうに「学会がっかい代表と論判して決着をつけたいので、猊下のお力で出てくるように申し付けていただきたい」と依頼しました。
 かくて、正本堂しょうほんどう落成式を一月後に控えた9月13日から7回に渡って法論ほうろんが行われた。これは東京のじょうせんにて行われました。
 学会がっかい代表はあきえいすけふくかいちょう・原島嵩きょうがくちょう山崎正友やまさきまさとも弁護士の3人。
 この山崎正友やまさきまさとも三百さんびゃく代言だいげんそのままの大変な悪徳弁護士でした。
 彼らもこの法論ほうろんは背水の陣であったんです。
 彼らの腹積もりは「論判を正本堂しょうほんどう落慶式までに引き伸ばして時間切れに持ち込む」ことにあった。
 いよいよ法論ほうろんが始まった。
 法論ほうろんというのは『三大さんだいほうしょう』に基づいて法論ほうろんする以外にない。
 「遺命ゆいめい戒壇かいだんはいかなるものか」ということが示されているのが『三大さんだい法抄ほうしょう』であるから、その一文一文に基づいて法論ほうろんをしたんです。
 3人は口々に持論をまくし立てた。私はその一一を取り上げてはすべて論破し、ついに屈服させました。
 そして、10月3日の聖教新聞紙上に誑惑おうわくていせいぶんせしめた。これが二度目のていせいであります。


平成30年  8月1日 二百万達成記念総幹部会 浅井先生指導