だい聖人しょうにんさまはこの道心どうしん・大それた敵対てきたいを御覧あそばせばいかか思し召されるか。
 だい聖人しょうにんさまはこうおおせられている。

 「ほうやぶものめざるものは、仏法ぶっぽうなかあだなり」りゅうせん申状もうしじょう
「むしろしんみょううしなうともきょうかくさざれ」『せんしょう
おうごとくなるこころてるものかならほとけになるべし」『しょ

 さらに日興にっこう上人しょうにん

ときかんたりといえども、仏法ぶっぽうそうして己義こぎかまえば、これもちうべからざること

ゆいかいおきぶみいましめておられる。
 これらのおおせを拝すれば、もし時のかんの権威をはばかり、学会がっかいの強大を恐れて、だい遺命ゆいめいまさに破壊されるを見ながら知りながらもくすれば、これこそだい聖人しょうにんさまに対したてまつる最大の不忠になる。
 私はこの不忠を恐れるがゆえに遺命ゆいめい守護に身を捨てて立ち上がったのであります。
 その後の経緯は基礎教学書の第九章・第十章に詳しい。今日はその大綱たいこうだけを簡略かんりゃくべます。
 今おもうに、この遺命ゆいめい守護の戦いは、すべてがだい聖人しょうにんさまの御守護による。よって、不思議ふしぎことの連続でした。
 だい聖人しょうにんさまがあそばした。それを顕正会が手伝わせていただいているだけですね。
 かんぎょうは昭和45年3月の『正本堂しょうほんどうに就き宗務御当局にただうったう』と題する一書を宗務役僧と学会がっかい首脳部に送付したことから始まりました。
 私がこの一書を送ってから定めて黙殺もくさつ、あるいはただちに処分しょぶんされるかということを覚悟しておりました。
 しかし、おもいもかけず数日後にほそ日達にったつ管長かんちょうが直接本山で対面されることになった。
 おそらくいけだいさくは法主の権威を権威をもって顕正会を抑える以外にはないということで要請したものとおもわれます。
 しかし、いけだいさくの目論見は裏目に出てしまった。
 仏法ぶっぽうの道理をもって責められて、ほそ日達にったつ管長かんちょうはついに「正本堂しょうほんどう遺命ゆいめい戒壇かいだんではない」ということったんですね。
 さらに「広宣こうせん流布るふの時はこくりつ戒壇かいだんであり、天生原あもうがはらに建てられる」と本心を吐露するまで至った。
 これは、いけだいさくにしてみれば裏切りこうであります。
 一旦遺命ゆいめいを売り渡した以上、いけだいさくが引き下がるはずがないんです。
 これからほそ日達にったつ管長かんちょうは私と会えば本心を取り戻し、いけだいさくと会えばそのたばかりにまたくみするというまいじたを繰り返したんです。
 そしてついに、収拾しゅうしゅうがつかなくなったほそ日達にったつ管長かんちょうは「学会がっかい代表と私がその面前で話し合ってくれ」ということを求めてまいりました。
 出てきた学会がっかい代表はあきえいすけもりかずの両ふくかいちょう和泉いずみさとるちょうの3人でありました。
 そして、この対論が文書による誑惑おうわくていせいをもたらしたんですね。
 ていせい書面はしゅういんはやにち総監そうかん阿部あべ信雄しんのうきょうがくちょう立ち合いの下で昭和45年9月11日に法道院ほうどういんで行われました。


平成30年  8月1日 二百万達成記念総幹部会 浅井先生指導