※今回は、ほとんど尾崎豊も渡辺美里も登場しません。そちらをご希望の方は、下記リンク先の本編をお読みください。

 

尾崎豊&渡辺美里と「自分探し」「本当の自分」「自分らしさ」 | 武術とレトロゲーム (ameblo.jp)

 

 そして、上記リンク先と今回の本文をつなぐのが、下記リンク先です。

 

【続】尾崎豊&渡辺美里と「自分探し」「本当の自分」「自分らしさ」 | 武術とレトロゲーム (ameblo.jp)

 

 では、第3回を記します。

 

 

 「人はなぜ『神』を拝むのか?(角川書店・刊/角川ONEテーマ21/中村圭志・著)」

107ページ
『自分探しと自己実現の時代は、人々に幻想的な自己イメージを抱くように勧めている。今日の個人は「自己実現」「自分探し」という夢をもつようにとプレッシャーをかけられています。親も学校もテレビCMもヒット曲の歌詞もそんなようなことを言い続けています。タテマエの上で個人主義化した現代社会においては、老いも若きも、時代とともにますます抽象的な「自己実現」を夢想するようになっています。しかし、「本当の自分」を見極めて職業や生活に「自分らしさ」を実現しようという涙ぐましい努力は、フラストレーションに終わる公算が高いでしょう。というのは、個人の欲望などというものは、それ自体は漠然とした、雲をつかむようなものであり、現実に可能な自分──地に足のついた自分──に出会うためには、あれこれの夢想的可能性を諦めなければならないからです。』


 以前紹介した「疲れすぎて眠れぬ夜のために(角川書店・刊/角川文庫/内田樹・著))」では、「自分らしさ」や「本当の自分」と、「自分らしさ以外の○○らしさ」を対照的な概念として論を進めていた。「自分らしさ以外の○○らしさ」とは、「女らしさ」とか「子供らしさ」とか「社会人らしさ」とか「警察官らしさ」とか、自分以外の周囲が要求してくる「らしさ」のことである。
 このたび、「これからの哲学入門(幻冬舎・刊/岸見一郎・著)」を読んでみた。この本では、「本当の自分」と「ありのままの自分」を対照的な概念として扱い、最終的に「ありのままの自分」=「本当の自分」であると気づく論旨の運び方となっており、興味深い。ちなみに以前紹介した「禅僧が教える 心がラクになる生き方(アスコム・刊/南直哉・著)」では、「本当の自分になる」「ありのままの自分になる」という考え方も、あり得ません、と喝破されている。では、「これからの哲学入門」から引用してみよう。

70ページ
『「本当の自分」などありません。今のこの「私」しかありません。こんなふうにいってしまうと身も蓋もないのですが、まずはこの事実を認めるところから始めるしかないと私は考えています。他の道具であれば、気に入らなかったり、あるいはパソコンのように、より高性能なものができたりした時には買い替えることができないわけではありません。しかし、この「私」が気に入らないからといって、他の自分に替えることができません。たとえこの私にどれほど癖があっても、この先ずっと自分と付き合っていかなければならないのです。』

70ページ~71ページ
『なぜこのありのままの「私」であってはいけないと思うようになったのか。二つの理由があります。一つは、他者と自分を比較し、自分は他者よりも劣っていると考えるので、このありのままの自分のであってはいけないと考えるようになったからです。自分が他者よりも劣っていると考えないとしても、誰か憧れの人がいて、そのような人になりたいと思っているその人の真似をしようとします。しかし、そのような努力をしてその人になれたとしても、自分が自分でなくなったという意味しかありません。』

78ページ
『私は私でしかないのだと、他者の期待を満たさなくてもいいのだ、変わる必要などないのだと思った時に、本当の自分になれるといえます。そう思っただけで、変われているのです。ありのままの自分、ありのままの私というのは、何があっても変わることがない自分です。そうであれば、その意味でのありのままの自分は、この自分でしかないことがわかるでしょう。ありのままの自分を探さなければならないわけではないこともわかるでしょう。本当の自分は、今の自分ではない自分ではなく、初めから自分であった自分なのです。』


 1998年頃に購入した高校用の教材『倫理資料集(山川出版社)』と『資料倫理(清水書院)』を今頃になって読んでいるが、その中に「自己実現」「アイデンティティ」「実存」と言う用語が登場する。「自己実現」「アイデンティティ」「実存」は「術語」であり「文語」であるので、耳から音で入ってきても理解しにくい。今になって考え直してみると、「自己実現」「アイデンティティ」「実存」を、曲の歌詞としてわかりやすく表現したものが、OZAKIやMISATOの曲の歌詞に登場する「自分探し」「自分らしさ」「本当の自分」なのではないか。あえて当てはめてみると、「自己実現」が「自分探し」、「アイデンティティ」が「自分らしさ」、「実存」が「本当の自分」となる。


 今までの主張を振り返ると、1980年代のOZAKIやMISATOの曲の歌詞で、「自分らしさ」「本当の自分」「自分探し」等が若者たちの間でクローズアップされた。そして、最近出版された著書を読むと、それらに否定的な意見が多いと言うことになる。南直哉は、「本当の自分になる」「ありのままの自分になる」という考え方もあり得ません、と喝破している。その上で、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』を読み返してみて、「本当の自分」「ありのままの自分」に肯定的な意見があることに気付いた。『君たちはどう生きるか』には、実は3つのバージョンがあり、岩波書店の岩波文庫版は、1937年版であり、ポプラ社のポプラポケット文庫版は1967年版となっている。岩波文庫版の56ページ、ポプラポケット文庫版の62ページ~63ページに、以下のような記載がある。おじさんが、主人公にノートを介して、人生で大切なことを説いていくシーンだ。

『世間には、他人の眼に立派に見えるように、見えるようにと振舞っている人が、ずいぶんある。そういう人は、自分がひとの眼にどう映るかということを一番気にするようになって、本当の自分、ありのままの自分がどんなものかということを、つい、お留守にしてしまうものだ。僕は、君にそんな人になってもらいたくないと思う。』

 「本当の自分」と言う言葉は、1980年代になって急に市民権を得たものだと考えていたが、1937年の時点で書物に登場する程度にポピュラーな言葉であることに驚いた。そして、その語は肯定的にとらえられていたことが判明した。ひょっとすると、禅などでも一般人向けの説法で、わかりやすいように「本当の自分」「本来の自己」のような言語を使用していたのかもしれないとも思った。

 


 さらに、『別冊 NHK100分de名著 読書の学校 池上彰 特別授業 「君たちはどう生きるか」(NHK出版)』の中で、中学生が池上彰に「オンリーワン」について意見・質問するシーンがあったので、掲載することにしたい。

106ページ~108ページ
『──自分はどう生きるかと考えたとき、「世界にひとつだけの花」の歌詞が浮かびました。でも「オンリーワンであればいい」とは言うものの、それが難しい気がするのですが……。』
『いいえ、それは決して難しいことではありません。なぜなら、君がすでにオンリーワンだから。この世に君のクローンはいない。みんな、生まれながらにオンリーワンなのです。誰にもできないことができる、という意味でのオンリーワンではないかもしれません。自分と同じことを考え、自分と同じようなことができる人はたくさんいる。自分なんてちっぽけな存在で、そんな自分がこの世に存在していることに、一体どんな意味があるのだろうと思うこともあるでしょう。私もかつてはそうでした。残念ながら、学校では成績で順番が付きます。しかし、たとえ成績順では下かもしれないけれど、これに関してはあいつに負けない、というものがきっとあるでしょう。さらに言えば、社会に出たら学生時代の成績など何の意味もありません。居場所が変われば、ものさしが変わり、評価も変わる。評価は絶対ではないのです。では、何が違いを生むのでしょうか。それがまさに「どう生きるか」という部分です。自分で考えて選んだ生き方は、オンリーワンである。似たような生き方を選んだ人がいたとしても、考えたプロセスが違えば、それは同じではないのです。ただ、生まれながらにオンリーワンだと言いましたが、それは決して”いまのまま”でよいという意味ではありません。よく生きるには、努力が必要です。』

 

 

※関連リンク先

尾崎豊&渡辺美里と「自分探し」「本当の自分」「自分らしさ」 | 武術とレトロゲーム (ameblo.jp)

 

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尾崎豊と渡辺美里 | 武術とレトロゲーム (ameblo.jp)

 

「自分らしさ」「本当の自分」「自分探し」の対語 | 武術とレトロゲーム (ameblo.jp)

 

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