かつて、自分は「尾崎豊トリビュート、再び許されるなら…」と言う文を掲載したことがあり、
 
 その中で尾崎豊と渡辺美里について、以下のように表現している。
 
 『1980年代のメッセージソングを代表する男性シンガーが、尾崎豊だったなら、1980年代のメッセージソングを代表する女性シンガーは、渡辺美里だった。尾崎はOZAKIの表記で親しまれ、美里はMISATOの表記で親しまれた。尾崎豊は大阪球場に2万6000人を動員し、渡辺美里は西武球場を毎年いっぱいにした。1987年の広島平和祈念コンサートにおいて、美里のステージに尾崎が乱入した伝説は有名。終始スキャンダラスな一生だった尾崎に対し、美里はきわめて健全なアーティスト生活を積み重ねている。』
 
 自分の捉え方では、「プロテストソングの敗北」により、歌詞の内容をより内的方向(個人の心の持ち方や、自分らしさ)に変えられて台頭したのが、「メッセージソング」ではないかと考えている。欧米では「ウッドストック(1969年)」、日本国内では「中津川フォークジャンボリー(1969年~1971年)」によって、音楽は(直接的には)、社会を変えることができないことが明らかになった。「社会を変えることができない」と言う表現に語弊があるならば、「直接的に、権力や政治を変える力に乏しい。」と表現した方がよいかもしれない。同時期となる学園紛争(大学闘争)の収束も、「若者に、権力や政治を変える方法は少ない。」ことを、まざまざと見せつけた。そして、ボブ・ディランに代表されるような、社会や制度に矛先を向ける「プロテストソング」は、特に日本国内において減速し、むしろ消費者個人に対して、「がんばれ!負けるな!あきらめないで!」と語りかけ、社会にコミットすることよりも、「自分らしく生きて、本当の自分を探そうよ。」とベクトルを内側へと誘導する「メッセージソング」が台頭することとなる。その点については、渡辺美里の代表曲「My Revolution」と言うタイトルに、最も如実に表われている。本来「Revolution(革命)」とは、「集団が社会(あるいは制度や権力)を変えようとする行為」に他ならない。しかし、「私の革命」と掲げた時点で自己完結しやすくなり、ベクトルは内向きになりがちとなる。美里に多くの曲を提供した小室哲哉のいたTM NETWORKの「SEVEN DAYS WAR」では、「Revolution=明日をさえぎる壁のり越えてゆくこと」と定義付けられていた。なお、TM NETWORKの「Resistance」では、「レジスタンス=自分らしく生きること」と定義付けられていた。
 そして真実はともかく、1980年後半のメッセージソングの双璧とされたのが、OZAKIとMISATOだったのである。言わば、「1980年代ティーンの二大代弁者」であった。ちなみに「メッセージソング」には、西城秀樹の「ヤングマン(Y.M.C.A.)」や、森田健作の「さらば涙と言おう 」のような、「青春の応援歌」からの潮流も大きい。
 
 そして、その歌詞の中で、OZAKIとMISATOの共通性が多く発見されるので、今回はその点を列挙してみたいと思う。特に初期の渡辺美里は、自分の歌う歌を自分自身で作詞してはいないので、プロデュース側に、「尾崎豊のような主張を、女性風に語らせてみたい。」と言う意向があったことは明らかである。では、その共通する歌詞の方向性と、OZAKIがMISATOに与えた影響を確認してもらいたい。

 
 
尾崎豊「僕が僕であるために」(1983年12月1日)
 「僕が僕であるために
  勝ち続けなきゃならない」
渡辺美里「ぼくでなくっちゃ」(1988年5月28日)
 「僕でなくっちゃ
  僕でなくっちゃ
  傷ついた心閉じないで」
 
尾崎豊「十七歳の地図」(1983年12月1日)
 「少しずつ色んな意味が解りかけてるけど
  決して授業で教わったことなんかじゃない」
渡辺美里「みつめていたい(Restin' In Your Room)」(1986年1月22日)
 「夜明けの行方さえ
  授業では教えない」
 
尾崎豊「僕が僕であるために」(1983年12月1日)
  「正しいものは何なのか
   それがこの胸に解るまで」
渡辺美里「みつめていたい(Restin' In Your Room)」(1986年1月22日)
  「何が正しいか
   誰にもわからないよ」
 
尾崎豊「十七歳の地図」(1983年12月1日)
  「今 心の地図の上で
   起こる全ての出来事を照らすよ
   Seventeen's map」
渡辺美里「BOYS CRIED(あの時からかもしれない)」(1987年5月2日)
  「あしたの地図さえ
   燃やして」
 
尾崎豊「十七歳の地図」(1983年12月1日)
  「人波の中をかきわけ
   壁づたいに歩けば」
渡辺美里「シャララ」(1988年5月28日)
  「肩にぶつかる人の波
   歩いて行く」
 
尾崎豊「15の夜」(1983年12月1日)
  「恋の結末も解らないけど
   あの娘と俺は将来さえ
   ずっと夢に見てる」
渡辺美里「BELIEVE」(1986年10月22日)
  「恋の行方はいつも
   わからないから
   今を信じていたい」

尾崎豊「十七歳の地図」(1983年12月1日)
  「口うるさい大人たちのルーズな生活に縛られても
   素敵な夢を忘れやしないよ」

渡辺美里「恋したっていいじゃない」(1988年4月21日)
  「ルーズな街のインチキにうちのめされても
   流行のスタイルに流されないよ」

 

尾崎豊「僕が僕であるために」(1983年12月1日)
  「正しいものは何なのか
   それがこの胸に解るまで」
渡辺美里「10 years」(1988年5月28日)
  「大切なものは何か
   今もみつけられないよ」
 
尾崎豊「卒業」(1985年1月21日)
  「仕組まれた自由に
   誰も気づかずに
   あがいた日々も終わる」
渡辺美里「素敵になりたい」(1986年5月2日)
  「見せかけだけの
   自由は欲しくない」
 
尾崎豊「卒業」(1985年1月21日)
  「あと何度自分自身卒業すれば
   本当の自分にたどりつけるだろう」
渡辺美里「恋したっていいじゃない」(1988年4月21日)
  「本当の自分をさがしたいよ
   みつけだすの」
 
尾崎豊「Scrambling Rock’n’Roll」(1985年1月21日)
  「自由になりたくないかい
   思う様に生きたくはないかい」
渡辺美里「HAPPY TOGETHER」(1987年7月15日)
  「だれでもみんな
   自由でいたいはずさ」

尾崎豊「シェリー」(1985年3月21日)
  「シェリー 夢を求めるならば
   孤独すら恐れはしないよね
   シェリー ひとりで生きるなら
   涙なんかみせちゃいけないよね」
渡辺美里「My Revolution」(1986年1月22日)
  「夢を追いかけるなら
   たやすく泣いちゃだめさ」
 
 
 以上のように、尾崎豊の歌詞と渡辺美里の歌詞には、明らかな共通性があり、(当時の)二人は、1980年代と言う時代性を象徴している。
 また、初期の渡辺美里のビデオテープを確認すると、ライブ中にステージに這いつくばり、目を細めて絶叫するシーンが収録されており、これは、明らかに尾崎豊のライブパフォーマンスからの影響である。
 さらに、渡辺美里の初期のアルバム「eyes」のジャケット写真は、他者に前髪を切られる美里を採用しており、これは、「教師に髪を切って来いと命令されて、みんなで家出をした」と言う尾崎豊の「15の夜」のエピソードと呼応している。
 もうひとつ挙げておくと、「絶対にアイドル寄りの受け取られ方をしたくない、若手アーティスト」と言うスタンスも、両者の共通点であろう。
 
 願わくば、全ての権利関係をクリアして、「1987年の広島平和祈念コンサートで、MISATOのライブにOZAKIが乱入したシーン(無論、OZAKI単独のシーンもではあるが)」を、DVD等で消費者の手に届くようにしていただきたいものである。
 
 
※2024年5月27日追記
ジャン・フランソワ・リオタールは、現代はかつてあった真理や神など人類全体の『大きな物語』がなくなり、個人の抱える夢や恋愛などの『小さな物語』しか存在しなくなった時代だと主張した。真理や神どころか「愛で戦争を失くす」「音楽で戦争を終わらせる」「革命で平等な社会を実現する」のような『中くらいの物語』も矮小化し、「自分探し」や「自分らしさ」「本当の自分」のような個人的で内的な『小さな物語』へとベクトルが収束していった。これが、日本において『プロテストソング』が『メッセージソング』へと置き換わっていった実状ではなかろうか。
 
※関連リンク先